歌う観光列車、東西を巻き込む
見難い火傷の子707
歌う観光列車、東西を巻き込む
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
カラのオーケストラを積んだ最初の歌便が、鉄道国玄州の景観路線を走った時、
鉄道国の人間ですら、それがここまで大きな話になるとは思っていなかった。
最初は半信半疑だった。
全席簡易マイク装備。
前方には歌って踊れる案内嬢。
車窓に合わせて切り替わる映像帯。
峠では峠の歌、湖では湖の歌、橋では橋の歌。
客は座って眺めるだけではなく、気に入れば一緒に歌い、手を打ち、時には立って揺れる。
「何だそれは」
と言った者ほど、降りる頃には妙に顔が明るくなっている。
一度乗った客が、次には知人を連れてきた。
温泉帰りの一団が次の便を予約し、
商人が宴席代わりに使い、
地方の祭歌を車内版にしてくれと持ち込み、
中には武芸道場の門下生が団体で乗り込み、妙に息の合った合唱で車内を沸かせたことすらあった。
しまいには「うちの村の娘を案内役へ出したい」と言い出す者まで現れた。
歌便は、ただの珍列車で終わらなかった。
本当に鉄道国玄州の歌事業の柱になり始めたのだ。
そして評判は、海を越え、砂を越え、ついには鉄道国の本国――
すなわちメソポタミヤにまで届いた。
「移動しながら全員で歌う列車があるらしい」
そんな話だけを聞けば冗談にしか聞こえない。
だが鉄道国から送られた記録絵には、
本当に客席で歌う者たちと、
マイク付きの座席と、
前方で拍を取る案内嬢の姿が描かれていた。
最初に強く反応したのは、セイレーン四姉妹のうち、メソポタミヤ側に残っていた三人だった。
長女テレースは、もうそこにはいない。
すでにゴレムのもとへ行っている。
だからこの話に最初に食いついたのは、残った妹たちの方だった。
「姉さまが聞いたら、絶対に先に乗りたがったわ」
「だったらその前に、私たちが乗ってしまえばいいのよ」
「後で自慢できるものね」
そう言って、本気で支度を始めたのだから早い。
長女不在を惜しむより、長女不在のうちに先に楽しもうという判断だった。
さらに、話を聞きつけたハンムラビも乗り気になった。
「法文の朗誦ならまだしも、観光列車で歌うとは何事だ」
と最初は眉をひそめたものの、
次の瞬間には、
「何事かを正確に判断するには現地確認が必要である」
と極めてそれらしい理屈で、自分の乗車を正当化した。
キュロスはもっと単純だった。
「面白そうだな」
その一言で終わりである。
止める者もいたが、本人はすでに沿線の景観図を広げ、
「山越え区間は声が響きそうだ」
「夜景便はないのか」
などと聞き始めていた。
果てはアフメット一家までやってきた。
一家というだけで人数も声量もある。
しかも彼らは、乗る前からすでに歌う気だった。
鉄道国側の受け入れ役が名簿を見た時、
「これは一両で足りますか」
と真顔で確認したほどである。
こうして、歌の観光列車には、とんでもない顔ぶれが揃うことになった。
そしてそれを聞きつけ、最も狼狽えたのが景国皇帝承明だった。
「……何だと?」
景国宮中へ入った報告は、最初、彼の機嫌を損ねる種類の冗談にしか聞こえなかった。
「鉄道国玄州にて歌唱観光列車なるものが好評を博し、
メソポタミヤよりセイレーン四姉妹のうち三名、
ハンムラビ、キュロス、アフメット一家らが体験のため来訪予定――」
承明は報告書を持ったまま固まった。
「なぜそのような話を朕が今初めて聞く」
側近たちは沈黙した。
答えに困る問いだった。
正確に言えば、報告は上がっていた。
ただ「歌いながら観光する列車」という字面の奇怪さのせいで、
重要度判定を誤られ、後順位へ送られていたのである。
「つまり」
承明はゆっくり言った。
「諸外国の大物が、こぞって鉄道国玄州の妙な歌列車へ乗りに行くのに、
朕だけが蚊帳の外ということか」
誰も「はい」とは言えない。
だが否定もできない。
承明はその場で立ち上がった。
「支度せよ」
「陛下」
「視察である」
「視察、ですか」
「視察だ」
誰も逆らえなかった。
こうして当日、玄州の歌の観光列車の前には、
どう考えても観光客として雑にまとめてはいけない一団が集まった。
セイレーン四姉妹のうち来訪した三人。
ハンムラビ。
キュロス。
アフメット一家。
そして、それを聞きつけて自ら乗り込んできた景国皇帝承明。
駅員も案内嬢も、最初に名簿を見た瞬間、自分の目を疑った。
何かの外交会談名簿ではないかと思ったほどだ。
だが実際には、その全員が歌便の乗客だった。
景国皇帝承明もまた、この列車の中では他の客と同じ、一人の参加者にすぎない。
発車前、ホームの空気は奇妙な緊張に包まれていた。
案内嬢たちは歌えて踊れるよう訓練されている。
大口客や騒ぐ商人も経験済みだ。
だが皇帝と古代の王とセイレーン姉妹と大家族を、
同じ拍で歌わせる訓練はさすがに受けていない。
それでも先頭案内役は腹を括った。
鉄道国玄州の歌事業を名乗る以上、ここで引くわけにはいかない。
「本日はご乗車ありがとうございます!」
彼女はいつも通り、いや、いつも以上に張った声で言った。
「本便は玄州山峡第一景観歌便、途中三景・二橋・一温泉郷停車、
全席マイク装備、合唱参加自由――」
「自由?」
承明がそこで眉を上げる。
案内嬢は微笑みを崩さない。
「はい、自由です。
ただし盛り上がる区間では自然と皆様ご参加なさいます」
その言い方に、キュロスが先に吹いた。
アフメット一家の誰かがもう笑っている。
来訪した三人のセイレーン姉妹の一人も、明らかに面白がっていた。
発車すると、最初のうちは皆まだ様子見だった。
窓外には玄州の山裾が流れる。
前方の映像帯には、同じ景色を簡略化した絵と歌詞が映る。
案内嬢がまず一節、柔らかく歌い出す。
続いて左右の補助案内役が拍を取り、軽く手を打つ。
アフメット一家が最初に乗った。
二節目で、もう一人。
三節目には一家の半分が歌っている。
声が大きい。
揃うとやたらに強い。
キュロスは笑いながら低音を重ねた。
妙に上手い。
ハンムラビは最初、
「余はこのような軽々しい歌は」
と言いかけたくせに、歌詞帯の語尾が整っていることに気づくと、
急に発音と拍を気にし始めた。
気づけば一番きっちり歌っている。
来訪した三人のセイレーン姉妹に至っては反則だった。
案内嬢が主旋律を取った隙間へ、三人が自然に和声を差し込む。
車内の空気が一段持ち上がる。
ただの観光列車のはずが、一瞬で半分舞台になった。
長女不在ですらこれなのだ。
その場の誰もが、もしテレースまでいたらどうなっていたかを想像し、わずかに恐れた。
そして承明だけが、最初の数区間、頑なに口を開かなかった。
腕を組み、背筋を伸ばし、いかにも
「朕はあくまで視察であり、浮かれているのではない」
という顔で窓外を見ている。
だが歌便というものは容赦がない。
橋へ差しかかる。
映像帯が変わる。
案内嬢が声を張る。
客席のマイクが声を拾い、車内全体へ柔らかく返る。
しかもアフメット一家が手拍子を入れ、
キュロスが隣から「ここは入った方が楽しいぞ」と笑い、
ついでにセイレーン姉妹の一人が
「陛下、低い声がお似合いになりそうですのに」
などと横から言う。
これで乗らない方が難しい。
承明は一度だけ咳払いをした。
誰も何も言わない。
だが全員、聞いている。
次の句の頭で、ついに彼は歌った。
最初は小さい。
いかにも試しに乗せただけの声。
だが車内マイクがそれを拾い、拡声が柔らかく返す。
自分の声が景色と人の声の中へ混じるのを聞いた瞬間、
承明の目つきが変わった。
「……ほう」
その一言は歌詞ではなかったが、
完全に“分かってしまった人間”の声だった。
そこから先は早かった。
二曲目ではもう普通に歌い、
三曲目では案内嬢の振り付けを見て手を動かし、
温泉郷停車後の軽快な区間では、ついに立った。
「陛下!?」
と側近が青ざめたが、もう遅い。
承明は歌った。
踊った。
少なくとも、本人は踊っているつもりだった。
アフメット一家が大喜びで合わせ、
キュロスが腹を抱えて笑い、
ハンムラビですら拍を外さず手を打った。
三人のセイレーン姉妹の和声まで乗る。
車内の有様は、もはやどこの観光バスだと言わんばかりだった。
列車でありながら、静かに景観を味わう旅ではなく、完全に全員参加の移動宴会である。
それでも、不思議と下品にはならなかった。
歌と景色と揺れと案内が、ぎりぎりのところで一つにまとまっていたからだ。
これが鉄道国玄州の歌事業の強さだった。
終点へ着く頃には、承明は最初に乗り込んだ時の顔をしていなかった。
妙にすっきりした、しかし妙に名残惜しそうな顔で窓外を見ている。
下車の際、案内嬢が定型の礼を述べると、承明は真顔で訊いた。
「次便はいつだ」
案内嬢は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに営業用の微笑みに戻った。
「本日夕刻に夜景歌便がございます」
承明は頷いた。
「席を取れ」
側近たちが絶望的な顔をしたのは言うまでもない。
後に景国宮中で、
夜更けに小さな部屋から歌声が聞こえるようになった時、
最初に異変へ気づいたのは近習たちだった。
最初は何事かと思われた。
やがてそれが、承明が鉄道国から持ち帰らせた歌詞帯を見ながら、
一人で声を合わせているのだと知れて、宮中は静かに騒然となった。
さらに後には、景国向けに特注された小型のカラのオーケストラまで運び込まれる。
表向きは「発声調律装置」。
だが実態は、どう考えても皇帝用のカラオケだった。
景国皇帝承明が、後にあれほどまで歌にはまり込んだのは、
誰が見ても、あの歌う観光列車のせいである。
そして鉄道国では、その話が半ば誇らしく、半ば面白がって語られた。
深淵の後に研究所の隅で生まれた妙な箱が、
やがて東西の大物を一両へ押し込み、
歌わせ、踊らせ、
果てには一国の皇帝の趣味まで変えてしまったのだと。




