カラのオーケストラ
見難い火傷の子705
カラのオーケストラ
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
研究所の西棟は、三日目の昼を過ぎてもまだ散らかったままだった。
感湿紙の束、細管、灰布、固定爪の試作品、二重鉤の先端金具。
机の上に並ぶものだけ見れば、たしかに今回の事案の後始末を、
匠ーが技術で噛み直そうとしているのは明らかだった。
宿舎裏、白珠裏、監視路、保守孔。
それぞれに置くべき警報器の位置まで、床の見取りへ書き込まれている。
そのはずだったのだが。
「……で、これ何?」
レイラが指した先には、明らかに別系統の何かがあった。
縦長の箱。
上部に薄い反射板。
横に巻き取り式の帯板。
前面には小さな覗き窓があり、その下に喇叭めいた拡声筒までついている。
副流路警報器の試作群の横に置いていい顔をしていない。
見れば見るほど、現場投入される道具ではなく、祭りか見世物に片足を突っ込んだ外見だった。
匠ーは図面へ何かを書き込みながら、顔も上げずに答えた。
「試作機」
「何の」
「映像が流れて、映像に合わせて拡声器で歌う道具」
レイラは沈黙した。
一拍。
二拍。
「何の?」
「だから、映像が流れて――」
「そこは聞こえた」
研究所の奥で、ちょうど運び込まれた圧管を置いていた整備員が、露骨に顔を逸らした。
笑ってはいけないと判断した人間の背中だった。
その時、開け放したままの扉の向こうから、別の影がひょいと覗く。
ダンだった。
「お、いたいた。
匠ー、例の件で――」
そこで彼の目が机上の試作品へ止まる。
感湿紙や警報器試作ではなく、よりによってその縦長の箱へ。
「何だそれ」
ダンは興味を隠さず寄ってきた。
「今回の事案の防護対策ツールか?」
レイラは心の中で、やめとけ、と思った。
だが止める間もなく、匠ーが顔を上げる。
「映像が流れて、映像に合わせて拡声器で歌う道具だ」
ダンは真顔のまま瞬いた。
「……は?」
「“カラのオーケストラ”」
研究所が静かになった。
整備員の片方が今度こそ咳き込んだ。
もう片方は完全に下を向いている。
レイラは額を押さえた。
いまこの部屋で、感湿紙と寄り散らし材と二重鉤に囲まれながら出てくる名前ではない。
「待て待て待て」
ダンがようやく言葉を取り戻す。
「防護対策じゃないのか」
「違う」
「何で今ここにある」
「前から途中だった」
「何で今仕上げかけてる」
「途中まで組んでた部材が同じ棚に入ってた」
あまりにも匠ーらしい答えだった。
つまり彼の中では、
副流路警報器の部品を探していたら、別件の映像歌唱機の部材も見つかったので、
ついでに進めた
というだけなのだ。
「ついでで済ますなよ!」
ダンが素で突っ込む。
「今は地下事案の再発防止が先だろ!」
「先にやってる」
匠ーは即答し、机の端を指で叩いた。
そこには実際、警報器試作、補助把手固定具の再設計、灰布担体の試験片が並んでいる。
仕事はしている。
ちゃんとしている。
そのうえで横にカラのオーケストラがいるのが問題なのだ。
ダンもそれは分かってしまったらしく、勢いよく反論しかけた口をいったん閉じる。
そして改めて、縦長の箱を見た。
「……で、それは何をする機械なんだ」
「だから、映像が流れる。
映像に合わせて歌詞帯が進む。
使う側は拡声器へ声を入れる。
音の高低が合ってるかどうかも一応示す」
「何で?」
「歌うために決まってるだろ」
「何で今それ作る必要があるんだって聞いてるんだよ!」
研究所の空気が、少しだけ昨夜までの張り詰め方と違う意味で痛くなった。
レイラは腕の痛みを忘れるくらいには呆れていたが、同時に少しだけ救われてもいた。
深淵から戻ってきたあとの人間は、どうしても顔が固くなる。
そこへこんな馬鹿げた会話が入ると、張りつめた糸が一瞬だけ別の方向へ緩む。
匠ーはようやくペンを置いた。
「必要だ」
珍しく、言い切る口調だった。
ダンが眉を寄せる。
「どこに」
「白珠でも宿舎でも、夜通し処置が続く時、
人間は勝手に沈む。
黙る。
手順しか喋らなくなる。
それ自体は悪くないが、長引くと戻りが鈍くなる」
レイラは黙った。
ダンも黙る。
匠ーは、誰かを笑わせようとしている顔ではなかった。
「今回はたまたま封じ込めた。
でもああいう現場の後、詰め所も宿舎も白珠も、妙に静かになりすぎる。
静かすぎる場所は、次の合図が遅れる」
ダンが腕を組む。
まだ半信半疑だが、完全に茶化す顔ではなくなった。
「だから歌わせるのか」
「強制じゃない。
ただ、映像と歌詞があれば、声を出すきっかけにはなる。
複数人でも合わせやすい。
声量も出る。
場を戻す道具としては使える」
レイラは思わず吹き出しそうになった。
理屈が通っているのが腹立たしい。
「精神衛生対策装置ってこと?」
「ざっくり言えば」
「最初からそう言いなよ」
「最初からそう言っても、どうせお前ら笑うだろ」
「カラのオーケストラって名前の時点で無理」
ダンがついに額を押さえる。
「いや待て、名前は本当にそれで行くのか」
「仮称」
「どうせそのまま通るやつだろ、それ」
匠ーは答えず、試作機の側面を開けた。
中には細い巻き帯が収まっている。
絵と文字が連続で描かれた帯だ。
これを手回しか何かで送って、覗き窓へ順に映す仕組みなのだろう。
拡声筒の横には、声の高低を雑に示すための針板までついていた。
ダンは完全に興味を引かれた顔で覗き込む。
「……映像って、動くのか」
「帯送りだから厳密には連続絵だな」
「歌は何が入ってる」
「まだ仮。
行軍歌だと重いし、宴歌だと軽い。
白珠で使うなら、拍を取りやすくて声を張りすぎないやつがいい」
「本気で運用考えてるじゃねえか」
「作るなら考える」
レイラはそこで、とうとう堪えきれず笑った。
声を出して笑うのがいつ以来か、一瞬分からなくなるくらいには久しぶりだった。
腕が痛む。
喉も乾く。
それでも笑えた。
ダンが振り向く。
「お前も笑ってる場合か」
「だってさ……」
レイラは息を整えながら言う。
「副流路警報器と、寄り散らし材と、引き剥がし鉤と、
カラのオーケストラが同じ机に並んでるんだよ。
笑うでしょ、こんなの」
整備員の片方もついに吹き、慌てて口を押さえた。
もう研究所の空気は完全に壊れている。
だが悪い壊れ方ではなかった。
匠ーだけは真顔のまま、試作機の拡声筒を軽く叩いた。
「壊れてないぞ。
こっちはちゃんと鳴る」
「そういう話じゃねえ!」
ダンの突っ込みが、今度ははっきり部屋中の笑いを誘う。
張りつめていた者たちが、ようやく“呆れる”という平時の感情を取り戻したのだ。
しばらくして、ダンは笑い混じりのまま首を振った。
「で、結局どっちなんだ。
防護対策ツールを作ってるのか、歌う機械を作ってるのか」
匠ーは机の上を見回した。
感湿紙。
二重鉤。
灰布の担体。
そしてカラのオーケストラ。
「両方」
「欲張るな」
「必要なものを作ってるだけだ」
その返答には、妙な説得力があった。
地下で人を死なせないための道具もいる。
地上へ戻ってきた人間が黙りすぎないための道具も、たぶんいる。
深淵のあとの世界は、機構だけ直しても元には戻らない。
戻るための声もまた、どこかで必要になるのだ。
ダンは最後にもう一度、試作機を見た。
それから呆れ半分、面白がり半分の顔で言う。
「……試運転する時は呼べよ」
匠ーは即答した。
「歌うならな」
「何で俺が歌う前提なんだよ」
「興味持っただろ」
「持ったけどそうじゃねえ!」
また笑いが起きる。
研究所の閉じた灯りの下で、
深淵帰りの再発防止機材と、
どう考えても今すぐ必要ではない歌う箱とが、
奇妙なくらい同じ重さで並んでいた。
そしてたぶん、それでよかった。
人が次の事案へ備える時、
必要なのは牙を折る道具だけではなく、
折れかけた気分を戻す、少しばかり馬鹿げた何かでもあるのだ。




