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見難い火傷の子  作者: 清風
704/723

朝の報告線

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子704


朝の報告線


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


白珠の裏手に戻り始めた静けさは、休息そのものではなかった。


張り詰めた糸が切れたのではなく、

切れぬよう何本も増やされ、ようやく一本ずつ張り直されていく静けさだった。

濡れた石はまだ乾かず、封鎖の縄もそのまま、見張りも解かれていない。

それでも人の声の調子が変わっている。

怒鳴って通す声ではなく、報告を受け渡すための声だ。


それが、事案の相が変わった証だった。


匠ーは白珠の裏手に簡易の立ち机を作らせた。

板を二枚、樽の上へ渡しただけのものだ。

だが今必要なのは立派な机ではなく、

誰が何を見て、どこで何をしたかを、順に切らさず載せていく面だった。


蘇静蘭がそこへ来る。

夜のあいだに走り回った受付衣は湿気を吸って重くなっていたが、

胸元の記録札はまだまっすぐ下がっていた。


「管理局本隊、第一班到着しました。

西枝副流路は封鎖維持のまま、保守孔と監視路の導線確認に入っています」


「白珠側は」


「新規異常行動者の発生停止を継続確認中です。

既存患者のうち、宿舎裏から運び込まれた者は三名が不安定、二名は小康。

杜景衡殿は処置継続中。

意識混濁ありですが、断続応答は残っています」


静蘭はそこまでを一息で述べ、記録板を差し出した。

夜通しでまとめた暫定報告だろう。

匠ーは受け取り、ざっと目を走らせる。


レイラは少し離れた石段へ腰を下ろして、そのやり取りを聞いていた。

座ってしまうともう立ち上がりたくない。

腕の内側は脈に合わせて痛み、脚は泥と水を吸った布のように重い。

それでも耳だけはまだ働いていた。

今ここで交わされる言葉が、

あとで“何が起きたことになるか”を決めるのだと分かっているからだ。


「記述の先頭、失踪じゃなく異常兆候から始めてるな」


匠ーが言う。


「はい」

静蘭は即答した。

「杜殿未帰還を単独で立てると、事後も人員事故として畳まれる恐れがあります。

今回は副流路圧異常、地揺れ、白珠裏滲出、新規異常行動の連動案件として整理しました」


匠ーは短く頷いた。

そこに余計な称賛は乗らない。

だが、その頷きひとつで静蘭の選択が正しかったと分かる。


「いい。

責任の置き場を間違えるな。

誰か一人が無茶をした話にされると、次も同じ穴が残る」


その言葉に、静蘭の指先が一瞬だけ強く板を握った。

杜景衡を知る者として、そこがいちばん譲れないのだろう。


白珠の戸口では、出入りする者が絶えない。

湯の入れ替え、布の洗い分け、処置済み器具の仕分け、汚染と非汚染の仮区画。

つい数刻前まで崩れる寸前だった場が、今は“回る形”へ戻りつつある。

完了ではない。

だが維持ではなく運用になった。


カナタが中から出てくる。

目の下に疲れは濃いが、手は止まっていない。


「杜景衡、少しだけ起きた」


レイラが顔を上げる。


「喋ったのか」


「長くは無理だ。

でも“中央一枚目開放後、左応答なし”

“監視路外壁崩落は二度目の揺れの直後”までは取れた。

あと、水に寄る感じを本人も自覚してたらしい」


静蘭の目が鋭くなる。


「認識阻害下でも、ですか」


「目で見て寄ったんじゃない。

“足が湿りのある方へ行きたがった”って言ってた。

まともな表現じゃないが、あの場じゃそれで十分だ」


十分すぎた。

患者たちに起きていた異常行動と、杜景衡が現場で受けた誘引が、ここで一本につながる。

ただの設備事故ではない。

ただの寄生でもない。

地下水路異常と群れの行動変化と、人間側の認識・運動への干渉が重なった事案だ。


匠ーは記録板へ視線を落としたまま言う。


「その証言は、本人の容態が落ち着いてから正式に取り直せ。

今は要旨だけでいい。

言葉の揺れまで責めるな」


「はい」


静蘭が記しつける。


レイラはその様子を見ながら、ようやく自分の肩の力が抜けていくのを感じた。

昨夜の深淵は、目の前の危険に対処する場だった。

だが朝になれば、別の戦いが始まる。

どんな名目で記録されるか。

どこが穴だったと認められるか。

誰が偶然助かったのでなく、何が再発防止として残るか。


深淵は、潜っている時だけ深いのではない。

地上へ持ち帰ったあと、制度へ落とすところまで含めて深いのだと、改めて思う。


「レイラ」


呼ばれて顔を上げる。

匠ーだった。


「あとで現場順を口述で取る。

お前が嗅いだ線と、患者の寄り方、それから左側で群れの中心が下枝へずれたところ。

そこは文字だけじゃ抜ける」


「分かった」


「今じゃない。

倒れる前に水だけ飲め」


言われて、初めて喉が乾ききっていたことに気づいた。

返事をする気力も惜しく、ただ手を上げて示す。


白珠の脇では、管理局本隊の一人が保守孔への再進入条件を読み上げていた。

単独進入禁止。

副制御部確認時は二重導線確保。

点検足場の左側補助把手は応急固定中につき、無断解除禁止。

どれも、昨夜ギリギリで掴んだ教訓だ。


「早いな」


レイラがぼそりと言うと、カナタが肩越しに答えた。


「早くしないと、また忘れたふりされる」


その通りだった。

災害の直後は、現場の手触りがまだ熱い。

この熱いうちに線を引かなければ、あとで“想定外”の一語に丸め込まれる。


蘇静蘭は管理局側の読み上げへ耳を向けながら、すぐに補足を入れている。

「監視路外壁崩落地点には装備片回収済み」

「杜景衡殿の携行板原本は照合後封印」

「白珠裏滲出初認時刻はこの報告と一致」

ただの受付嬢ではない。

記録戦の前線に立てる女だった。


匠ーは簡易机の板へ指で順を切った。


「今回の事案、切れ目は三つある。

宿舎裏の患者発生。

白珠裏への戻り流れ。

副流路主盤の半開き。

この三つを一続きで残す。

どれか一個だけ抜かれると、次に死ぬ」


誰に言うともなく発されたその言葉に、そこにいた者たちは皆、黙って頷いた。

昨夜、実際にその“一個抜かれた時の危うさ”を見たのだ。

患者だけ見ても遅い。

設備だけ見ても遅い。

失踪だけ追っても遅い。

全部が同時に起きていた。


白珠の裏手へ、朝日がようやく差し始める。

濡れた石の上で光が鈍く広がり、夜の間はただ黒かった水跡が、

薄茶や灰の境として見えるようになる。

見えるようになるだけで、人の判断は少しやりやすくなる。

それでも、見えるものだけで済まないからこそ厄介なのだが。


処置役の者が、戸口からレイラを呼んだ。

腕を見せろ、ということらしい。

レイラは面倒そうに眉を寄せたが、カナタに無言で顎をしゃくられ、渋々立ち上がる。


「ひどい顔してるぞ」


「そっちも」


短く返すと、彼は少しだけ口元を動かした。

笑ったのか、疲れて引きつっただけかは分からない。


白珠へ入る前、レイラはもう一度だけ裏手を振り返った。


匠ーはまだ立っている。

蘇静蘭は記録板を抱え、管理局と噛み合わせ続けている。

見張りは解かれていない。

封鎖縄も残っている。

地下の水だって、完全に死んだわけではない。


けれど、もう昨夜のように「ただ次の異変が来るのを待つ場」ではなかった。


人が何を見て、

どこで噛み、

どこで止め、

何を持ち帰ったか。


それが線になり始めている。


一旦の事案は終わった。

だが物語としては、ここから先に残すべきものの輪郭が、

むしろ朝の光でようやく見え始めていた。

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