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見難い火傷の子  作者: 清風
703/723

封じ込めの朝

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子703


封じ込めの朝


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


保守孔を抜けた時、白珠の裏手の空気は、入った時とは別物になっていた。


悪くない、とは言えない。

湿りはまだある。

濁った水の臭いも、石の継ぎ目に残る冷えも、消えたわけではない。

だが、あの地下から押し返してくるような重い息は薄れていた。

白珠の壁際を走っていた黒い滲みも、もう新しく筋を増やしてはいない。


見張りについていた者が、匠ーたちの戻る姿を見て顔を上げる。


「裏の滲み、止まりました」


第一声がそれだった。


匠ーは足を止めずに問う。


「完全か」


「いえ、古い湿りは残ってます。

でも、さっきまでみたいに継ぎ目から新しく押してくる感じはありません」


それで十分だった。

完全停止ではない。

だが、拡大が止まった。

現場で判断するなら、まずその差が大きい。


レイラは白珠の壁へ手をつきかけ、直前でやめた。

もう触ってはいけない理由だけではない。

手をつけば、そのまま膝まで折れそうだったからだ。

腕の内側は熱を越えて重く、脚は長い坂を上り切ったあとのように鈍い。

それでも、建物の中から聞こえる声の調子が、潜る前とは違うのが分かった。


切羽詰まった怒鳴り声ではない。

短い報告と確認。

まだ忙しいが、崩れかけた場を無理やり支えているだけの音ではなかった。


白珠の戸口から、カナタが出てきた。

顔色は良くない。

だが目は生きている。


「戻ったか」


「戻った」


匠ーの返答も短い。


カナタの視線は、まず匠ー、次いでレイラ、そして補助の者たちの手にある回収物へ流れた。

肩外装、腕外装、携行板。

最後に、奥から運び込まれた杜景衡の簡易担架へ留まる。


「生きてる」


レイラが先に言った。


その一言で、カナタの眉間の硬さがほんの少しだけ緩んだ。


「今、中で診てる。

意識が落ちたり戻ったりだが、まだ繋いでる」


杜景衡はもう白珠の一角へ運び込まれていた。

患者と同じ場へ雑に混ぜず、しかし隔離もしすぎない、処置優先の位置だ。

管理局員としてではなく、負傷者として扱われていることが、

かえって今の白珠の健全さを示していた。


「水は」


匠ーが問う。


カナタはすぐ答える。


「裏へ返してた本流はかなり落ちた。

完全には死んでない。

でも今のところ、新しい滲みは出てない。

さっき壁の下で鳴いてた細い戻りも、だいぶ静かだ」


「左も噛ませた」


匠ーが告げる。


カナタの目がわずかに見開く。


「左まで?」


「杜景衡が残してた。

中央だけじゃ足りなかったんだろう」


カナタは一度、ゆっくり息を吐いた。

それは驚きでもあり、納得でもあった。

副制御三段固定だけで白珠裏の戻りがここまで減ったのなら、なおさら主盤左の噛み残しが悪さをしていたのだと線が繋がる。


「……なら、いったんは持つ」


その言葉は誰に向けたものでもない。

自分の耳で地下の変化を聞き、自分の頭で組み立てて出した現場判断だった。


白珠の裏手には、いつの間にか管理局本隊の先行組が来ていた。

数は多くない。

だが防護具と記録具を整えた者たちが、蘇静蘭から報告を受け、裏の継ぎ目や水位痕を見ている。

もう“人探し”の隊ではない。

災害制御として来た顔になっていた。


蘇静蘭もそこにいた。

顔色はまだ冴えないが、崩れてはいない。

記録板を持つ手も落ち着いている。

彼女は匠ーたちを見つけると、すぐに一歩こちらへ寄った。


「管理局先行組へ、現場の暫定を引き渡しました。

副制御三段固定、主盤左補助把手による応急固定、杜殿の生存、全部伝わっています」


「反応は」


匠ーが訊く。


「本隊到着までは封鎖維持。

白珠裏への立ち入り制限継続。

第十七エリア西枝は災害管理下へ移行。

……ようやく、話が通りました」


最後の一言に、疲労と苦味が少しだけ滲む。

杜景衡の未帰還が“ただの行方不明”として処理されていたら、ここまで繋がらなかったのだろう。


「杜景衡は」


レイラが訊くと、静蘭の目がわずかに柔らぐ。


「まだ厳しいですが、生きています。

白珠の方が、防護具の裂け目を塞ぎながら、順に剥がして見ています。

群れの侵入は浅いかもしれないと」


“浅いかもしれない”。

断定ではない。

だが、それでも十分大きい希望だった。


白珠の中から、別の記録係が顔を出し、静蘭を呼ぶ。

彼女はすぐにそちらへ向き直ったが、行く前に一度だけ匠ーへ頭を下げた。


「杜殿の装備片、携行板、こちらで預かります。

記録と照合し、正式な報告へ回します」


「やれ」

匠ーは短く答える。

「それと、今日の現場判断も残せ。

杜景衡がどこまでやって、どこで途切れたか。

次に同じことが起きた時、そこを飛ばせるように」


「はい」


蘇静蘭はそのまま白珠へ戻っていった。

今度の足取りは、駆けつけてきた時よりも確かだった。

事態の形が見えた人間の歩き方だ。


裏手に残った匠ーたちは、ようやくその場で息をついた。

補助の者たちは壁から少し離れた乾いた石へ腰を下ろし、濡れた布を外し始める。

誰も大きな声を出さない。

助かった、終わった、と簡単に言える現場ではまだないからだ。

それでも、崩れたまま走り続けていた気配が、少しずつ人間の呼吸へ戻っていく。


レイラはオートメガネウラの止まった機体を見上げた。

昨夜と同じ場所にいるはずなのに、ずいぶん遠く見える。

飛べなかった。

動けなかった。

だから脚で潜った。

その結果、ここまで来た。


「格好悪いな」


思わず漏れた声に、隣でカナタがかすかに眉を動かす。


「何が」


「全部。

泥だらけで、機体も止まってて、潜って引っ張って、噛み直して」


言いながら、自分でも笑いそうになる。

笑えるような場ではない。

だが、あまりに泥臭い。


カナタは白珠の壁際へ目をやったまま言う。


「深淵で格好いい勝ち方なんか、そんなにないだろ」


それは慰めではなかった。

ただ、事実としてそう言った声だった。


匠ーが少し離れたところで、管理局先行組と短く言葉を交わしている。

白珠裏の封鎖板、継ぎ目の監視、保守孔の導線、副制御の位置。

説明は要る。

誰が何を見て、どこをどう固定したかを伝えなければ、

この封じ込めは今夜限りの偶然で終わる。


やがて東の空が、ほんのわずかに白み始めた。


地下の事案に朝も夜も本当は関係ない。

それでも、夜のあいだに膨らみかけたものを、朝まで保たせたという事実は重かった。


白珠の戸が開き、処置役の一人が顔を出す。


「新しい異常行動者、止まりました!」


裏手の空気が、その一声で変わる。


誰も歓声は上げない。

だが全員が、その意味を知っている。

宿舎裏から続いていた“水へ寄る足”が、ここでいったん切れたのだ。

新規発症の流れが止まった。

少なくとも、この事案の最大の波は越えた。


匠ーが管理局側との話を切り上げ、白珠を振り返る。


「聞いたな」


カナタが頷く。

「聞いた」


レイラも、ようやく肺の底まで息を吐いた。

長く、重く、湿った夜気が、その吐息と一緒に少しだけ身体の外へ出ていく気がした。


完全に終わったわけではない。

地下の細枝にはまだ水が残り、巣の残滓も死んではいない。

杜景衡の容態だって、まだ予断を許さない。

この先には報告も、照合も、制度の見直しも待っている。


それでも今この瞬間だけは、言っていい。


白珠裏へ拡大しかけた今回の事案は、ここでいったん封じ込めたのだと。


朝の薄明かりの下、濡れた石の黒は少しずつ色を失っていく。

地の下では、まだ遠くで水が鳴っている。

だがその音はもう、こちらの喉元へ食い込んでくる牙の音ではなかった。


人が人を引き剥がし、

人が地下の喉を捻り、

人が朝まで持ちこたえた。


その結果としての静けさが、ようやく白珠の裏手へ戻り始めていた。

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