噛み直す左
見難い火傷の子702
噛み直す左
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
閉鎖板の裏で噛み合い直す音がした瞬間、足場そのものが小さく震えた。
主盤全体が動いたわけではない。
もっと局所的な、しかし無視できない変化だった。
左側の古い機構が、長く錆びついた歯をようやく一つだけ掛け直したような揺れ。
匠ーの手の中で補助把手がわずかに返り、逆に閉鎖板の縁が、
今までよりほんの爪一枚ぶん深く座る。
「入った」
匠ーが低く言う。
同時に、主盤の向こうで流れていた水の鳴り方が変わった。
白珠裏へ押し返していたいやな腹鳴りではない。
もっと奥へ、もっと細い枝へ、圧が散っていく音だ。
完全な静寂ではない。
だが、あの“戻ってくる水”の気配が、たしかに薄れた。
「まだだ」
レイラは足元の溝を睨んだまま返す。
灰布の下で、黒い細線が一斉に身を捩った。
水の向きが変わったことで、群れもまた居場所を失いかけている。
引くかと思った。
だが違う。
行き場を失ったぶん、いま近くにある熱へ寄ろうとしている。
「下から寄る!」
匠ーは把手を離さず、半歩だけ体勢をずらした。
狭い足場でそれ以上退けば、逆に踏み板を外す。
進むにも退くにも幅がない。
後ろの補助が、細く裂いた灰布をもう一条、溝へ差し込む。
ぬめった筋がそれに触れ、いやなほど素早く絡みついた。
止められてはいない。
だが一瞬、進路を誤る。
「もう一段噛ませる」
匠ーが言った。
「無理すると折れる」
レイラは反射で返した。
把手そのものが小さい。
杜景衡の布が巻かれていたのも、素手で引けば滑るからだけではないだろう。
ここは力を入れればいい場所ではない。
「折らない。
噛み切らせるだけだ」
言葉と同時に、匠ーは力の向きを変えた。
引くのではなく、一度わずかに押し戻す。
機構の遊びを拾う動きだった。
そのうえで、今度は斜め下へ沈めるように力をかける。
かつ、かつ、と板の裏で小さな歯音が続く。
そのたびに、主盤の奥の水が呼吸を変える。
右へ、左へ、奥へ。
どこへ逃げるか迷うように鳴き、やがて一つ、太い流れが下枝へ抜けた。
「いまだ」
匠ーの声が低くなる。
閉鎖板の縁が、さらに半歩だけ噛み込んだ。
完全に閉じたわけではない。
だが半端に浮いていた隙間は、さっきより明らかに狭まっている。
その瞬間だった。
足元の溝で、群れが一斉に跳ねた。
水の逃げ道が変わったせいか、黒い細線が今度は後ろではなく、真上へ向いた。
人の脚へ、衣の端へ、露出した手首へ。
まるで逃げ遅れたものが、最後に近い熱へ飛びつくような寄り方だった。
「来る!」
レイラは灯りを落とし気味に持ち替え、片脚を引く。
だが避けきれない。
一本、二本、細い筋が踏み板の縁まで達する。
後ろの補助が杭を差し入れた。
灰布を巻いた先端で、溝から這い上がった細線を押し戻す。
完全には潰せない。
だが踏み板の下へ落とし返すだけでも違う。
「レイラ、臭いは」
匠ーはまだ把手から手を離さない。
「濃い。でも散ってる。
主盤の下からは減った。
たぶん、巣の中心がずれた」
「どっちへ」
レイラは息を詰めて鼻を利かせる。
湿り。
鉄。
泥。
その奥にある、ぬめるような生臭さ。
それがいま、主盤左奥ではなく、もっと下――排水の古い落ち口の方へ移っている。
「下だ。溝の先。
流れがそっちへ寄った」
匠ーが短く息を吐く。
それは良い知らせだった。
少なくとも今この場で、人のいる足場から群れの中心が離れつつある。
だが、同時に悪い知らせでもある。
流れが下の枝へ抜けたということは、その先に別の出口や別の滲み先があるかもしれない。
ここで白珠裏への戻りを止めても、地下全体が完全に死んだわけではない。
「固定具は」
匠ーが問う。
レイラは灯りを寄せ、補助把手の脇を見た。
小さい留め爪がある。
だが錆び、泥に食われ、長く使われた様子がない。
「ある。
でも生きてるか分からない」
「試す」
匠ーは把手を押さえたまま、片手をずらして留め爪へ触れた。
ぎ、と嫌な感触。
それでも完全には死んでいない。
彼は爪を持ち上げるのではなく、いったん押し込み、泥を割るように動かす。
杜景衡もたぶん同じことをしようとしたのだろう。
だが、その最中にやられた。
「……っ」
匠ーの腕に筋が立つ。
次の瞬間、留め爪が乾いた音を立てて跳ねた。
かちん。
小さいが、たしかな固定音だった。
全員が一拍遅れて、その意味を理解する。
「留まった」
レイラが呟く。
匠ーはすぐには手を離さない。
機構が戻らないか、閉鎖板の縁が再び浮かないか、全身で確かめている。
主盤の奥の水音がもう一度だけ大きく鳴り、それから少し遠ざかった。
「……よし」
ようやく彼が手を離す。
閉鎖板は戻らなかった。
補助把手も、いまのところは保っている。
左側の“噛み残し”は、完全ではなくとも応急固定されたのだ。
足元の溝では、さっきまで這い上がろうとしていた黒い細線が、明らかに勢いを失っていた。
死んではいない。
だが行き先を失い、灰布の下で細かく縮み、また下枝へ戻ろうとしている。
「引く」
匠ーが言う。
「ここで欲張らない。
白珠へ返す線はかなり殺した。
左も噛ませた。
今ならまだ下がれる」
補助の二人がすぐに頷く。
彼らも限界が近いのだろう。
灰布を差し込み続けていた手は震え、灯りを持つ腕も強張っている。
レイラはもう一度だけ、主盤左側の足場の先を見た。
暗い。
狭い。
その先に何があるのか、まだ全部は分からない。
だが今は進まない方がいい。
ここで一歩余計に踏み込めば、さっき救い出した杜景衡の命まで危うくする。
「匠ー」
「なんだ」
「これで白珠裏は、いったん持つ」
確認に近い言葉だった。
匠ーは頷く。
「持たせた。
あとは向こうが受け止められるかだ」
それは、もう白珠側と管理局側の仕事でもある。
ここで現場が水の喉を捻った以上、次は封鎖線と処置線が踏みとどまる番だ。
彼らは足場を一人ずつ戻り始めた。
来た時より慎重に。
踏み板の中央だけを選び、壁にも盤にも触れず、灰布の上を踏まず、溝の黒い湿りを避ける。
後退するにつれて、主盤の左側に残る生臭さが少しずつ薄れていく。
狭い足場を抜け、監視路の本線へ戻った時、レイラはようやく肺の底まで息を入れた。
空気はまだ悪い。
湿っている。
それでも、さっきまでの“押し返される地下”の臭いではなかった。
「聞こえるか」
匠ーが低く問う。
全員が耳を澄ます。
鳴っている。
水はまだ鳴っている。
だが、白珠裏へ噛みつこうとするような腹鳴りではない。
もっと遠い。
もっと管理可能な、地下のどこかで収まりを探している音だ。
「……止まりきっちゃいないけど」
レイラが言う。
「一旦は折った」
匠ーが返す。
「これで拡大は鈍る」
その言葉には、願望ではなく現場判断の重みがあった。
崩れ口を抜ける時、杜景衡の肩外装と腕外装の残骸が、濡れた泥の中で鈍く光っていた。
さっきはただの破片に見えたものが、今は少し違って見える。
この男はここまで来て、中央を動かし、左へ回り、最後に主盤の足元で倒れた。
止まりかけた地下を止め切るために、最後の最後まで噛みついていたのだ。
「持って帰るか」
補助の一人が小さく言う。
「持って帰る」
匠ーは即答した。
「記録になる。
次に同じことが起きた時、誰がどこで何をしたか残さなきゃ意味がない」
レイラは頷いた。
それは弔いでもあり、制度の材料でもある。
ただ助けた、ただ怖かった、で終わらせないための証拠だ。
保守室へ戻ると、そこは先ほどまでより明らかに静かだった。
副制御の三段固定も、まだ保っている。
床の割れ目に残る黒い湿りは生きているが、さっきのように一斉には寄ってこない。
「戻るぞ」
匠ーが言う。
誰も異論はなかった。
ここでできることは、いったんやった。
これ以上は現場の英雄譚ではなく、ただの無理になる。
保守孔へ入る前、レイラは一度だけ振り返った。
主盤のある暗がりはもう見えない。
見えないまま、水の音だけが地の奥で細く続いている。
完全な終わりではない。
だが、最大の歯は折った。
少なくとも今夜、白珠の裏を呑ませる流れではなくした。
それだけでも、十分大きな前進だった。
彼女は止まったオートメガネウラの沈黙を思い出す。
空を飛べず、脚で潜り、泥にまみれて、ようやくここまで来た。
格好のいい勝利ではない。
だが深淵の事案というものは、たぶんいつだってこういう勝ち方しかできない。
人が水から人を引き剥がし、
人が機構に噛みつき返し、
人がぎりぎりのところで、もう一歩だけ先に手を伸ばす。
その積み重ねでしか、止まらないものがあるのだ。




