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見難い火傷の子  作者: 清風
701/723

左側に残るもの

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子701


左側に残るもの


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


「左、だな」


匠ーは杜景衡の掠れた声を、聞き返しもせず受け取った。


杜景衡はもう一度何か言おうとしたが、喉が浅く鳴っただけで続かなかった。

意識は切れていない。

だが、言葉を繋ぐだけの力が残っていないのは明らかだった。

蘇静蘭がその顔を覗き込む。

彼女の目には、安堵と、まだ終わっていないという緊張とが、同じだけ張りついていた。


「水を」


杜景衡の唇がそう動いたように見えて、レイラは反射的に身を強張らせた。

だが次の瞬間、それが飲み水を求める動きではなく、

なお主盤の異常を指そうとする口の形だと気づく。

この男はまだ、倒れたまま仕事をしている。


「喋るなって言っただろう」

匠ーは低く言い、杜景衡の視線を主盤から外させるよう、少し身体の向きをずらした。

「左に何が残ってるかは、こっちで見る」


杜景衡のまぶたが、重く一度落ちる。

完全に気を失ったわけではない。

だが、今はそれ以上の言葉を引き出すより、生かしたまま後ろへ送る方が先だった。


匠ーが顔を上げる。


「静蘭。

杜景衡を保守孔まで戻す導線を作る。

補助二名を付ける。

お前も一緒に下がれ」


蘇静蘭がはっと顔を上げた。


「ですが、左側の――」


「記録はもう十分拾ってる。

いまお前が残る価値より、杜景衡を生かして運ぶ価値の方が上だ」


言い方に迷いがない。

蘇静蘭は唇を引き結んだ。

残りたいのだろう。

だが拒む余地もない。

それに、杜景衡がまだ意識を保っている以上、顔と声を知る者が付き添う意味は大きい。


「……承知しました」


答えた声は、悔しさを噛み込んでいた。

それでも崩れなかったのは立派だった。


補助の者たちが板と布を使い、杜景衡の身体を簡易の搬送形へ整え始める。

裂けた防護具の上から、濡れ布と灰布を重ね、露出した継ぎ目を急ぎ塞いでいく。

完璧ではない。

けれど剥き出しのまま運ぶより遥かにいい。


レイラはその手元を見ながら、鼻で周囲を探った。

さっき主盤の足元でざわめいていた群れは、いったん引いている。

副制御が噛み、流れが変わったせいで、寄る先を少し見失っているのだろう。

だが消えたわけではない。

崩れ口の方角、主盤の左奥、見えない継ぎ目の腹の中。

そこにまだ溜まっている。


「匠ー」


呼ぶと、彼は短く視線だけを寄越した。


「左側、臭いが濃い。

主盤の向こうじゃなくて、壁の裏寄り。

何かある」


「杜景衡が言い残したのも、そこだろうな」


主盤は壁一面に組まれた大きな機構だ。

正面から見えるのは中央把手と右の圧逃がし板、左の閉鎖板。

だが機構そのものは壁の裏へ食い込み、

点検用の細い余地や保守の抜けがどこかに設けられているはずだ。

杜景衡は中央を途中まで動かした。

そのうえで「左」を残した。

つまり、左側の閉鎖板か、その裏の流れに何かが起きている。


「左へ回る道は」


匠ーが補助の一人へ問う。

だが答えたのは杜景衡ではなく、蘇静蘭だった。


「主盤の左壁沿いに、点検足場があります。

ただし狭いです。

管理局員でも、通常は一人ずつしか入りません」


「崩れ口の向こうか」


「いえ、主盤の脇からです。

ただ……」


静蘭は一瞬だけ言い淀む。


「ただ、左壁側は古い排水の名残があって、湿りが溜まりやすいと」


匠ーはそれで十分だったらしい。

短く頷く。


「ならレイラと行く。

他は杜景衡を運べ」


蘇静蘭が杜景衡の顔を見下ろす。

彼もまた、かすかな意識の底で、まだ主盤の方角を気にしているようだった。

まぶたの裏で、眼球がわずかに動く。


「杜殿」

静蘭は身をかがめ、声を落とした。

「戻します。

主盤の左は、匠ー様たちが見ます」


その声が届いたのかどうかは分からない。

だが杜景衡の呼吸は、ほんの少しだけ浅い乱れを鎮めたように見えた。


搬送班が動き出す。

板の下へ縄を通し、滑らせるように身体を引いていく。

床へ直に接しないよう慎重に、だが遅すぎない速度で。

蘇静蘭もその列へつく。

去り際に一度だけ振り返る目には、記録係の冷静さではなく、人を置いていく重さがあった。


「生かして連れて帰れ」


匠ーが言う。


蘇静蘭は無言で頷き、保守室の方へ消えていった。

灯りが一つ、また遠ざかる。

この先に残るのは、匠ー、レイラ、そして補助の二人だけになった。


監視路は急に静かになった。

人が減ったぶん、深淵の音が近い。

主盤の奥を流れる水の腹鳴り。

崩れ口の湿った息。

石の継ぎ目の向こうで、細いものが擦れ合う、ほとんど気配だけの音。


「行けるか」


匠ーがレイラに訊く。


「行く」


答えは短かった。

痛みは消えていない。

むしろさっき杜景衡を引いたせいで、腕の内側は熱を通り越して痺れ始めていた。

だがここで下がれば、左に何が残っているか分からないまま、また水が噛み直す。


主盤の左脇は、人が横向きでようやく通れるほどの幅しかなかった。

鉄の骨組みと石壁の間にできた点検足場は、踏み板こそあるが、長く整備された様子がない。

しかも足元には古い排水溝の名残らしき浅い溝が走り、

ところどころに黒い湿りが溜まっていた。


「踏み板の中央だけ使え」


匠ーが先に入る。

「壁にも盤にも寄るな」


レイラも続く。

左肩を少し引かなければ通れない狭さだ。

湿り気が濃い。

鼻の奥がつんとする。

崩れ口で嗅いだものと同じだが、ここではさらに水の匂いが強い。

古い排水の残りが、寄生の群れにとって居心地のいい腹になっているのだろう。


数歩進んだ先で、匠ーが止まった。


「灯り」


レイラが寄せる。


そこには、左側の閉鎖板へ繋がる細い補助把手があった。

正面からは見えない位置だ。

小さい。

だが完全に飾りではない。

緊急時や点検時に、左側だけを局所的に逃がすためのものらしい。


そしてその把手にも、布が巻かれていた。


杜景衡の布だ。


乾きかけた血と泥で固まり、把手の根元へ食い込んでいる。

彼はここまで来ていた。

中央を途中まで動かした後、左側へ回り、この補助把手へ手をかけたのだ。


「……あと少しどころじゃないな」


レイラは低く言う。

「最後の最後までやってる」


匠ーは返事をしなかった。

布の巻き方、把手の角度、その周囲の傷。

全部から、杜景衡がどう動いたかを逆算している。


「左板は半端に浮いてる」


匠ーが言う。

たしかに、閉鎖板の縁がほんのわずかに石壁から離れていた。

隙間は指も入らないほどだ。

だが完全な閉ではない。


「ここも半開きか」


「違う」

レイラは臭いを探りながら首を振る。

「こっちは開いてるっていうより、噛みきれてない。

中で何か引っかかってる感じだ」


その時、足元の浅い溝で、ぬめ、と何かが動いた。


レイラは反射的に灯りを落とす。

溝の黒い湿りの中に、細い線が何本も潜んでいた。

さっきまで動かなかったのに、人の熱と灯りが近づいた途端、ゆっくりと向きを変えている。


「下だ」


「見えてる」


匠ーはそのまま体勢を崩さず、補助の者へ低く言った。

「灰布、溝へ流せ。

一気にじゃない。

塞がず、寄せるだけでいい」


後ろから細く裂いた灰布が差し込まれる。

溝の黒い筋の上へ落ちると、ぬめった動きが一拍だけ乱れた。

完全には止まらない。

だが進み方が鈍る。


「これで持つ間にやる」


匠ーは把手へ手を伸ばした。

布越しに掴み、まず軽く引く。

動かない。

もう一度、今度は押す。

やはり素直にはいかない。


「中で噛んでるな」


「杜景衡はこれをやろうとして、途中でやられたんだ」


レイラが言った瞬間、把手の向こう――閉鎖板の裏から、かつん、と乾いた小さな音が返った。


二人とも止まる。


水音ではない。

群れの気配とも違う。

鉄が何かに軽く当たったような、あまりに人工的な音だった。


「裏にまだ機構が生きてる」


匠ーの目が細くなる。


もう一度、今度は力をかける方向を少し変えて把手を引く。

すると、ほんのわずかに、閉鎖板の縁が震えた。

完全には動かない。

だが死んでいない。


「いける」


「でも開けたら何が来るか分からない」


「開けるんじゃない。噛み直させる」


匠ーの言葉と同時に、主盤の向こうで水が低く鳴いた。

副制御で首を捻った流れが、左側の噛み残しにぶつかっているのだろう。

ここを噛み直さなければ、またどこかへ戻る。


レイラは足元の溝を見た。

灰布の下で、細い群れがまた少しずつ動き出している。

時間は長くない。


「やるなら今しかない」


「分かってる」


匠ーは体勢を落とし、狭い足場で無理のない位置を探る。

ただ力を込めるのではない。

板の重み、把手の遊び、水圧のかかり方、その全部へ合う一点を探している。


「レイラ」


「うん」


「俺が噛ませる。

動いた瞬間、臭いが強まったら引け。

下から来るぞ」


「分かった」


それはつまり、左側の噛み直しに成功すれば、水の向きだけでなく、

群れの寄り方も一気に変わるということだ。

ここが杜景衡の倒れた最後の仕事場であり、最後の止まり方だった理由がよく分かる。


匠ーが息を詰める。


把手が軋む。


足元の溝で、黒い筋が一斉に揺れた。


そして次の瞬間、閉鎖板の裏で、今度ははっきりと、何かが噛み合い直す音がした。

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