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見難い火傷の子  作者: 清風
700/722

あと少しの距離

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子700


あと少しの距離


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


杜景衡の周囲で動いていたものは、遠目には泥の筋にしか見えなかった。


だが灯りを落とし、視線を凝らせば分かる。

細い。

黒い。

濡れている。

そして、ただそこにあるのではなく、

倒れた男の裂けた防護層の縁へ、集まるように寄っている。


「まだ噛んでる」


レイラの喉から出た声は掠れていた。

「深くはない……たぶん。

でも、残ってる」


杜景衡は壁へ凭れ、主盤へ伸ばしかけた腕を半端な位置で止めたまま動かない。

顔の半分は防護具の影に隠れていたが、露出した頬は土気色で、唇の色も悪い。

片脚は折れてはいないように見える。

ただ、踏ん張ろうとして崩れたのか、膝から下が変な角度で流れていた。


蘇静蘭が一歩出かける。

匠ーの腕がそれを止めた。


「まだだ」


「……っ」


彼女は食いしばるように息を止める。

同僚か、少なくとも顔と役職を知る相手なのだ。

駆け寄りたい気持ちはあるだろう。

だが、ここでそれを優先すれば、次に倒れるのが自分になる。


匠ーは主盤の足元を目でなぞった。

杜景衡の周囲には、泥と湿りのほかに、細い継ぎ目がいくつも走っている。

そこを通って、まだ寄っている。

いまは一斉ではない。

だが止まってもいない。


「レイラ、どこが濃い」


問われて、レイラは鼻で空気を探る。

生臭さ。

裂けた布の奥の体液の匂い。

ぬめった湿り。

その線が、杜景衡の左肩、脇腹、そして倒れた脚の下へ集まっている。


「肩と脇。脚の下にもいる。

でも一番いやなのは、背中側だ」


「背?」


「壁際の継ぎ目から回ってる。

表から見えるぶんより、多い」


匠ーは短く頷く。

「なら正面から触るな。

縄、二本。

一つは杜景衡に掛ける。

もう一つは拾う側の腰だ。

引かれた時に、人ごと持っていかれないようにする」


補助の一人がすぐに縄を差し出す。

さっきまで戻り道のために使っていた線が、今度は本当に人を引き剥がすための道具になる。


蘇静蘭が低く言った。


「防護具の継ぎ目に触れたら」


「触らせない」

匠ーが切る。

「裂け目へ寄るなら、裂け目を塞いでから引く」


「何で」


「濡れ布と灰」


レイラが答える。

「完全には止まらない。

でも、いま剥き出しのままよりはまし」


それで救える保証はない。

だが何もしないより遥かにいい。

ここにいる全員が、もうそういう判断に慣れ始めているのが嫌だった。


匠ーは補助の者へ視線を飛ばす。


「布を三。

一枚は肩、一枚は脇、一枚は脚の下を狙う。

投げるんじゃない。

引きずるように寄せろ。

跳ねると逆に散る」


「はい」


「静蘭、お前は灯りを落とすな。

盤と杜景衡の位置を見失わせるな」


「はい」


指示が短い。

短いのに足りている。

焦っている暇がないせいでもあるが、誰も余計な言葉を欲しがらなくなっていた。


レイラは腰の縄を取り直した。

腕が熱い。

呼吸は浅い。

それでも目だけは冴えていく。

倒れた杜景衡の防護服、その裂け目、その裂け目へ寄っている細い群れ。

それらの位置関係が、妙にはっきり見えた。


「行く」


匠ーが一歩出る。


崩れた壁際の泥は深くない。

だが滑る。

しかも濡れている場所ほど踏みたくない。

匠ーは石と石のわずかな高みだけを選び、真っ直ぐではなく、ほんの少し回る角度で杜景衡へ近づいた。

正面からではなく、主盤側へ寄る。

壁際の継ぎ目を避けるためだ。


レイラも半歩遅れて続く。

後ろから縄が生き物みたいについてくる。

少しでも足を取られたら、後ろが引く。

その約束が腰にあるだけで、怖さの種類が少し変わる。


補助の者が濡れ布を低く滑らせた。

一枚目が杜景衡の左肩近くへ届く。

黒い細線が布の湿りへ一瞬集まり、裂け目から気を逸らされるのが見えた。


「今」


レイラが囁く。


二枚目が脇腹へ寄る。

三枚目は脚の下。

完全ではない。

だが裂け目へ食いついていた群れの向きが、ほんの少し散った。


匠ーが主盤側から身を屈め、杜景衡の胸元へ縄を回そうとする。

その時だった。


倒れていた男の指が、ぴくりと動いた。


全員が固まる。


もう一度。

今度ははっきり、主盤へ伸びかけた手の先が、

痙攣ではなく何かを掴もうとするようにわずかに動く。


「生きてる!」


蘇静蘭の声が震えた。

抑えきれなかったのだろう。

だがそれは、場を壊す叫びではなかった。

凍りついていた空気を、別の緊張へ変える声だった。


杜景衡の唇がかすかに動く。

音にはならない。

けれどレイラには、それがただの苦鳴ではなく、まだ何かを伝えようとする口の動きに見えた。


匠ーが顔を寄せすぎない距離で低く呼ぶ。


「杜景衡。聞こえるか。

動くな。いま引く」


まぶたが、わずかに震えた。

返事と呼ぶには小さすぎる。

それでも、意識が完全に途切れてはいない証拠だった。


「脚の下、増える!」


レイラが言う。

布で散ったぶん、別の継ぎ目から回ろうとしている。

群れは目の前の獲物を完全には手放していない。


匠ーは縄を胸の下へ通し、肩口で交差させる。

乱暴に引けば、防護服の裂け目が広がる。

だが遅ければ寄られる。

難しい加減だった。


「静蘭、主盤の把手位置」


「中央把手、中途。

右圧逃がし板、半固定。

左は閉鎖のままです」


「杜景衡は、あと少しだったな」


匠ーのその言葉に、蘇静蘭は何も答えられない。

目の前の男が、どこまで仕事をして、どこで止められたのか。

それを一番痛く知ってしまった顔だった。


杜景衡の唇がもう一度動いた。

今度は、かすかに息が漏れる。


「……み、ず……」


聞こえたのはそれだけだった。

だが十分だった。

携行板に残した一字と同じだ。

最後まで、この男の頭はそこから離れていなかった。


「分かった」


匠ーが短く返す。

慰めでも励ましでもない。

受け取った、という返事だった。


「引くぞ」


縄が張られる。

後方の補助が構える。

レイラは杜景衡の脚元へ灯りを寄せ、どこにまだ群れが残っているかを見張る。


最初の引きで、杜景衡の身体が泥から半寸ほど浮いた。

その瞬間、脚の下と背中側の継ぎ目が一斉にざわつく。

隠れていた群れが、獲物を持っていかれると気づいた音だ。


「背中、来る!」


匠ーがさらに一歩踏み込み、身体ごと盾になるように杜景衡の上へ覆いかぶさる。

危険な動きだ。

だがそうしなければ、背面の裂け目へ群れが流れ込む。


レイラは反射的に濡れ布を掴み、壁際の継ぎ目へ叩きつけた。

湿った音。

布の下で、細いものが一斉に暴れる。


「いま!」


二度目の引き。


杜景衡の身体が今度ははっきり動く。

主盤の足元から離れ、泥の線をずるりと引いてこちらへ寄る。

同時に、彼の伸ばした手が主盤の把手から完全に離れた。

あと少しだった距離が、いまようやく断ち切られる。


群れのざわめきが高くなる。

脚元、壁際、肩の裂け目。

全部から寄ろうとする。

だが三枚の布と、縄と、人の手が、それを半歩ずつ遅らせる。


「もう一回!」


三度目の引きで、杜景衡の身体が安全圏へ半身入った。

匠ーが腕を差し込み、主盤側から首と肩を支える。

レイラは脚を取る。

重い。

防護服も泥も水も全部吸っている。

それでも、生きている重さだった。


「下がる!」


全員で一斉に後退する。


その途端、杜景衡がいた場所の壁際から、黒い細線がぶわ、と持ち上がった。

間に合わなかった。

いや、ぎりぎり間に合ったのだ。

あと一拍遅ければ、引く縄ごと、腕ごと、脚ごと、全部あちらへ絡め取られていた。


保守室の手前まで退いたところで、ようやく匠ーが止まる。


「置くな。

床へ直に置くな」


指示が飛ぶ。

補助の者がすぐに畳んだ布と板を差し込み、杜景衡の身体をその上へ受ける。

濡れた床から少しでも離すためだ。


蘇静蘭が膝をつく。

今度は匠ーも止めない。

ただし触る場所だけを短く示す。


「顔のこっち側だけ見ろ。

裂け目へ手をやるな」


静蘭は頷き、震える指で防護具の端を少しだけ避ける。

杜景衡の顔はひどく青白かった。

だが、まぶたはまだ完全に落ち切っていない。

呼吸も浅くある。


「杜殿」


呼ばれて、彼の目がほんのわずかに開く。

焦点は合っていない。

それでも、声だけは届いたらしい。


「……蘇、か」


それだけで、静蘭の喉が詰まった。


「喋るな」


匠ーが言う。

「お前はまだ使う。

死ぬなら全部吐いてからにしろ」


乱暴なようでいて、あまりに正確な言い方だった。

杜景衡の唇が、かすかに引きつる。

笑ったのか、痛みに歪んだのかは分からない。


しかし次の瞬間、彼の指がまた動いた。

今度は保守室ではなく、主盤の方角を探るように。


「……左……まだ……」


かすれた声だった。

聞き取れたのはそれだけ。

だが匠ーの目つきが変わる。


左。

主盤の左側。

蘇静蘭の読みでは、そこはまだ閉鎖のままだった。


つまり、杜景衡は中央だけでなく、左側に何か残している。

それは未完了の仕事か、あるいはまだ動く危険そのものか。


助け出した。

だが終わっていない。


主盤の向こう、崩れた監視路の奥で、水がまた低く鳴いた。

いま助けた男が、倒れる直前まで指を伸ばしていたその先から。

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