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見難い火傷の子  作者: 清風
699/722

拾うべきもの

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子699


拾うべきもの


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


保守室の中に残る振動は、しばらく誰の足も急がせなかった。


地の奥を走る水の腹鳴りは、まだ完全には消えていない。

だがさっきまでの、押し返しながら白珠裏へ食い込んでくるような嫌な響きではなくなっていた。

喉を半端に詰まらせた獣が、ようやく一度だけ呼吸を通したような音だった。


誰も、それで安心はしない。


蘇静蘭は切替盤の脇に膝をついたまま、震えの残る指で記録札へ何かを書きつけていた。

盤面の刻印位置、固定爪の段数、応答の戻り。

彼女の顔色はまだ白いが、筆順は乱れていない。

こういう時に手順を崩さぬ人間なのだと分かる。


カナタは保守室の床へ視線を落とし、じっと耳を澄ませていた。

彼にしか拾えない種類の流れが、まだ地下に残っているのだろう。

一方、匠ーは入口から正面の暗がりを見ている。

切替盤を一時戻した今、次に何を拾い、どこまで踏み込むか、

それをもう決め始めている顔だった。


レイラは肩で息をしながら、腰の縄をゆるめた。

腕の内側が焼けたように熱い。

力を抜いた途端、その痛みがまとめて戻ってくる。

だが、それよりも鼻の奥に残る臭いの方がいやだった。

湿り、泥、鉄、そしてあの細い群れの生臭いぬめり。

どれだけ水の向きが変わっても、あれ自体が消えたわけではない。


「……白珠側へ伝えるなら、今だ」


カナタがようやく言った。

「戻りは弱くなってる。

たぶん裏手の滲みは細る。

でも完全には止まらない。

主盤がどうなってるか見ないと、またいつ噛み直すか分からない」


「分かった」


匠ーは短く返し、保守室の外を一度だけ見やる。

暗がりは静かだった。

静かすぎる、と言ってもいい。

さっきまでざわついていた群れが、いったん水の向きに引かれて退いたぶん、余計に不気味だ。


「静蘭」


「はい」


「白珠へ戻る伝達を一つ。

副流路第三切替点、副制御三段固定。

白珠裏へ返す本流は減衰。

ただし未収束、封鎖解除はするな。

これで通るか」


蘇静蘭は即座に頷いた。


「通ります。

管理局向けには、主盤未確認、現場側継続対応中を付けます」


「付けろ。

もうひとつ、杜景衡の携行板に“水”の記載あり。

機構単独異常ではないと見ていい」


静蘭の筆が一瞬止まり、すぐまた動いた。

その一文の重さを、彼女も理解しているのだろう。

現場で消えた管理局員が、最後に残したのがただの機械記録ではなく、“水”という語だった。

それだけで、この事故は設備不良だけでは終わらない。


「使いを出します」


「一人で行くな。ここまでの導線を知ってる奴を一人つけろ」


「承知しました」


保守室の後方にいた若い者が、静蘭の記録を預かる準備に動く。

彼も顔が強張っていたが、足は止まっていない。

この場の全員が、恐怖と手順を両方抱えたまま立っている。


レイラは入口脇へ寄り、外の空気を探る。

さっきより薄い。

だが、消えたわけではない。

崩れ口の方角に、湿りの濃い塊がまだ残っている。

人間の目に見えるより先に、鼻と肌がそう告げていた。


「まだいる」


独り言のように漏らす。


匠ーが振り返らずに問う。

「近いか」


「前みたいに一斉じゃない。

でも崩れ口のあたりで溜まってる。

引いただけだ」


「なら次はあそこだな」


誰も反対しない。

杜景衡の装備片は崩れ口に残っていた。

携行板はここにあった。

つまり本人は、その中間か、さらに先にいる可能性が高い。


カナタが立ち上がる。

膝に手をついて一度だけ大きく息を吐き、それから匠ーを見た。


「俺はここまでだ」


匠ーも頷く。


「白珠へ戻れ。

今の戻り具合をお前の言葉で伝えてくれ。

あっちはあっちで、まだ綱渡りだ」


「分かってる」


それだけ言っても、カナタはすぐには動かなかった。

視線だけが、保守室の外――崩れ口のある監視路の方を向いている。

置いていくのが心残りなのではない。

ここから先の流れを、最後まで見切れないまま離れることへの苛立ちに近いものが、その横顔にあった。


「主盤が死んでたら、また鳴く」

彼は低く続けた。

「副制御だけで保ってる間は、息継ぎしてるだけだ。

喉そのものが開き切ってない」


「分かってる」


匠ーの返事もまた低い。

短くて、十分だった。


カナタはそこでようやく踵を返した。

静蘭の使いともう一人を連れ、保守孔の方へ戻っていく。

灯りが一つ分、後退して小さくなる。

その背を見送りながら、レイラは少しだけ肩の力を抜いた。

白珠へ戻る線が生きている。

それだけでも、ここで踏み込む意味は大きい。


保守室には、匠ー、レイラ、蘇静蘭、そして数名の補助要員が残った。


「静蘭、お前は残るか」


匠ーが訊く。


蘇静蘭は記録板を抱き直した。

迷う時間は長くない。


「残ります。

杜殿の装備、記録、切替位置。

ここで見たものを、他人の言葉に預けたくありません」


匠ーは一拍だけ彼女を見る。

試すような視線ではない。

腹が決まっているかを見る目だ。


「無理だと思ったら下がれ。

気丈さは使いどころを違えると邪魔になる」


「承知しています」


彼女はまっすぐ返した。

その返答に虚勢はあっても、空元気ではなかった。


匠ーはそれ以上言わず、正面の監視路を示した。


「行く前に確認する。

目的は三つ。

一つ、副制御が持っているうちに主盤の状態を見る。

二つ、杜景衡の所在を掴む。

三つ、崩れ口の巣がこちらの導線を食う前に、戻り道を保つ。

欲張るな。

全部取れなくても、一つでも確実に持ち帰る」


補助の者たちが低く応じる。

誰も勇ましい声は出さない。

この場の緊張は、もうそういう段階ではなかった。


レイラは腰の縄を締め直した。

新しい縄が一本、保守室の固定具に結ばれる。

戻るための線であり、引き剥がすための線でもある。

さっき自分で言ったことだ。

今度はそれを本当に使う場所へ行く。


「正面へ出る」


匠ーが先に立つ。


保守室の入口を越えた先の監視路は、さっきと同じ場所のはずなのに、もう別の顔をしていた。

切替盤が噛んだせいか、空気の流れが変わっている。

ぬるい湿気が引き、代わりに奥へ通じる細い冷えが一本、通っていた。

だが床はなお濡れ、崩れ口の方では黒い光が鈍く揺れている。


崩れた外壁のあたりまで進むと、杜景衡の装備片がもう一つ見つかった。

今度は腕の外装だった。

裂け目は肩のものより細いが、縁に泥だけではない、薄い黒ずみがこびりついている。


蘇静蘭が息を呑む。


「左腕部……」


「本人はまだ先だ」


匠ーが言う。


装備がここまで脱げ落ちるなら、ただ崩れたのではない。

何かに寄られ、引かれ、あるいは自分で剥がそうとした。

そう考える方が自然だった。


レイラは崩れ口の方を見る。

むき出しの土と石、その隙間の湿り。

そこに“いる”のは分かる。

だが今は、さっきのように一斉には寄ってこない。

水の向きが変わったぶん、群れの中心も少し奥へずれたのかもしれない。


「今なら通れる」


言うと、匠ーがわずかに頷いた。


「短く行く。

寄り始めたらすぐ引く」


監視路の幅は崩れで半分になっている。

一人ずつ、横を向いて抜けるしかない。

足元は泥。

壁際には濡れた継ぎ目。

絶対に触れたくないものばかりだ。


匠ーが先に通る。

次いでレイラ。

崩れた石の縁が腕へ触れそうになり、思わず息を詰める。

臭いが濃い。

湿り気が顔の高さまで上がってくる。

だがまだ、直接寄られる気配はない。


抜けた先で、監視路は少しだけ広くなっていた。


そして、その先に主盤があった。


壁一面に組まれた古い鉄の機構。

副制御よりはるかに大きく、三本の太い把手と幾枚もの圧逃がし板が噛み合っている。

そのうち中央の把手だけが、中途半端な位置で止まっていた。

主盤そのものもまた、杜景衡の手で途中まで動かされていたのだ。


だが、レイラの目を奪ったのは機構ではなかった。


主盤の足元、壁際に、人が倒れていた。


管理局の防護服。

外装は何箇所も裂け、肩と腕の一部が失われ、片脚は不自然な角度で横へ流れている。

それでも姿勢だけは、完全に崩れ切っていない。

壁へ半ば凭れ、主盤へ手を伸ばしたまま止まった形だった。


蘇静蘭が声を失う。


「……杜殿」


誰もすぐには近寄らない。


倒れている。

だが、生死はまだ分からない。

分からないまま近づくのが、一番危険だ。


レイラは喉を乾かせながら、匂いを探った。

血。

泥。

湿り。

そして、まだ新しい、人の熱の残り。


「……生きてるかもしれない」


その言葉で、場の空気が一変した。


匠ーの目が鋭く細まる。

主盤、倒れた男、足元の湿り、壁の継ぎ目。

すべてを一度に見て、どこへ最初の一歩を置くかを選んでいる。


杜景衡の指先は、主盤の把手まであと少し届いていなかった。


あと少し。

それだけの距離を残して、この男はここで止まったのだ。

副流路の喉を開き切る手前で。

白珠裏へ水が返るのを止める、その直前で。


匠ーが低く言う。


「拾うぞ。

だが先に、足元を見る。

寄ってるなら、引き剥がしてからだ」


レイラは頷き、灯りを少し下げた。

杜景衡の周囲の泥が、ただ濡れているだけではないのが見えた。

細い。

黒い。

まだわずかに、動いている。


生きている。

そして、まだ食われ切ってもいない。


それが、最悪の中では最良の知らせだった。

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