半開きの喉
見難い火傷の子698
半開きの喉
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
ざわ、と動いた気配は、音よりも先に皮膚へ来た。
保守室の入口脇に立つレイラは、思わず灯りを低く引いた。
暗がりの向こうで何かがはっきり見えたわけではない。
それでも、割れ目という割れ目の奥で、湿った細いものが一斉に向きを揃えたのだと分かる。
見られた、ではない。
もっといやな種類の気づかれ方だった。
熱か、湿りか、血の匂いか。
どれにせよ、こちらはもうただの壁の染みではいられない。
「来る」
レイラの声は低かったが、全員に届いた。
匠ーは把手にかけた手を外さない。
「どっちからだ」
「全部だ。けど正面が先」
保守室の外、監視路本線の方から、ぬるい湿気がひと息ぶん押し寄せた。
すぐ後に、床の継ぎ目へ黒い筋が一本、する、と伸びる。
水ではない。
細い。
あまりに細く、最初はただの汚れに見える。
だがその先端だけが、生きもののようにためらい、探るように揺れた。
蘇静蘭が息を止める気配がした。
「見るな」
匠ーが短く言う。
「盤面を読め」
その一言で、静蘭は視線を切った。
いい反応だった。
怖れはしている。
だが目を奪われたまま固まらない。
カナタが切替盤の脇に膝をつく。
耳で聞き、床の響きを拾い、盤の中を走る見えない水の圧を読もうとしていた。
「いま一枚目に食ってる圧は、まだ右へ戻ってる。
二枚目を開けるなら、一気じゃなく半刻みだ。
戻りが強くなったら止める」
「半刻み、な」
匠ーは布を巻いた手で把手を握り直す。
筋肉の入れ方が変わる。
ただ力任せに動かすのではなく、機構の噛み合いへ自分の腕を合わせる構えだった。
レイラは入口脇から外を見張る。
さっきの黒い一本は、もう一本になり、三本になっていた。
壁の継ぎ目だけではない。
床の擦れ、石と鉄の境、工具掛けの影。
湿りのあるところから、細いものが少しずつ這い出してくる。
「増えてる」
「まだ距離はあるか」
「……ある。でも測ってる」
測っている。
自分たちまでの距離を。
どこが柔らかいかを。
どこが裂け目になるかを。
そう考えた瞬間、腕の内側の傷が熱く脈打った。
「動かすぞ」
匠ーが言う。
レイラは無意識に息を止めた。
次の瞬間、匠ーが把手をわずかに引いた。
固い金属音が保守室へ鳴る。
引けないわけではない。
だが素直にも動かない。
途中で噛み、擦れ、内部のどこかに食い込んだまま拒む感触が、音だけで伝わった。
「硬い」
「当然だ」カナタが返す。
「杜景衡もそこまでは開けた。
その先で止まったってことは、機構だけじゃない。
圧も寄ってる」
匠ーはもう一段、力を込める。
がつ、と盤の中で何かがずれた。
同時に保守室の外から、ごぼ、と水の腹が鳴る。
「止めるな、そのまま」
カナタの声が鋭くなる。
「今、逃げ道を探してる。戻る前にもう半刻み」
レイラは正面を見る。
這い出した細い筋のうち、二本が急に速くなった。
床を滑るというより、継ぎ目から継ぎ目へ跳ねるように寄ってくる。
「来た!」
その声で、後ろにいた一人が濡れ布を投げた。
布は床へ落ち、黒い二本の上へかぶさる。
じ、と嫌な音がした。
焼けるような音ではない。
湿ったものが急に乾いたものへ貼りつき、もがくような音だ。
「踏むな!」
レイラが叫ぶ。
誰も前へ出ない。
だが布の端が、ほんの少しずつ動いていた。
中でまだ生きている。
匠ーが二度目の半刻みを入れる。
今度はさっきより重かった。
筋で引くというより、機構の癖に身体を預けている。
盤の奥で、硬いものが長く擦れ、そして――
がこん。
重い噛み合い音が返った。
同時に、保守室全体が一拍だけ震えた。
壁の継ぎ目に走っていた湿りが、すっと細る。
正面の監視路から来ていたぬるい風が、逆に吸われるように引いた。
カナタが顔を上げる。
「二枚目、半分食った!」
「戻りは」
「まだある。でもさっきよりましだ。
このままもう少し開ければ、白珠裏へ返してる分が減る」
「その前にこっちが食われる」
レイラは入口を睨んだまま言った。
布をかぶせた二本だけではない。
その横、壁際、床の割れ目。
細い影がじわじわ増えている。
盤を動かしたことで水の向きが変わり、それに合わせて巣の側もざわめいているのが分かった。
まるで地下の血の流れに群れごと反応しているみたいだった。
蘇静蘭が盤面を見たまま、低く告げる。
「この副制御、完全開放まであと二段です。
ただし主盤側が噛んでいれば、こちらだけでは固定し切れません」
「主盤まで行く必要があるか」
「可能性はあります」
最悪だった。
ここで終わるならいい。
だが、副制御だけでは足りず、正面の監視路へ出なければならないなら、
杜景衡が倒れた場所のさらに先へ進むことになる。
匠ーは即断しない。
把手から手を離さぬまま、カナタを見る。
「読む。もう一段で保つか」
カナタは床へ片手をつき、震えを拾うように目を閉じる。
外のざわめき、盤の軋み、奥で返る水の腹鳴り。
全部を一つの地図へ重ねている顔だった。
「……保つ、じゃない。
息継ぎはできる」
彼は目を開ける。
「完全には止まらない。でも今ここで主盤まで出たら、こっちが先に崩れる。
白珠側へ戻る流れを弱めるだけなら、あと一段で足りるかもしれない」
「かもしれない、か」
「だから読むんだろ」
短いやり取りだった。
だが十分だった。
完璧な答えを待っていれば、その間に地下の方が先へ進む。
匠ーは頷いた。
「あと一段だけ取る。
その代わり、固定できたら引く。
杜景衡の回収は次の手だ」
蘇静蘭の肩がわずかに揺れた。
だが彼女は異を唱えない。
今は人を拾うより、まず水を止めねば、その拾う道ごと潰れると分かっているのだ。
レイラは腰の縄を握り直す。
濡れた繊維が指へ食い込む。
入口脇の布の下では、さっき押さえ込んだ二本がまだ小さく蠢いていた。
その向こうの暗がりでは、さらに多い何かがこちらの隙を待っている。
「右、壁際」
低く告げる。
一筋、早いのがいる。
壁と床の継ぎ目を使い、他より先に回り込もうとしている。
後ろの一人が灰混じりの濡れ布を追加で投げた。
今度はぴたりと進路を塞ぐように落ち、黒い筋がぶつかって止まる。
だが、止まっただけだ。
引いてはいない。
向きを変えて、別の継ぎ目を探り始める。
「学んでるみたいで気味が悪いな……」
誰かが喉の奥で呟く。
「学んでるんじゃない」レイラは答えた。
「数で試してるだけだ」
言ってから、自分でぞっとした。
試しているだけ。
つまりもっと来る。
「行くぞ」
匠ーが三度目の力を入れた。
今度は盤そのものが反発した。
ぎ、と嫌な金属音が響き、把手が一瞬戻りかける。
だが匠ーは離さない。
肩、背、腰、全部を使って噛み合いを押し切る。
盤の中で何かが外れ、次の瞬間、重い水の塊が遠くで向きを変える音がした。
ご、ご、ご、と低い腹鳴りが地の奥で続く。
保守室の床が震える。
継ぎ目の湿りが一斉に細り、逆に正面の暗がりの奥から冷たい引きが来た。
ぬるさが消える。
白珠裏へ戻っていた息が、別の喉へ引かれ始めたのだ。
「入った!」
カナタが叫ぶ。
「三枚目、噛んだ! 今だ、固定しろ!」
蘇静蘭が盤面の横を指す。
「固定爪、左下!」
匠ーが手をずらし、もう一方の留め具へ力をかける。
だがその瞬間、保守室の外で、ざわめきが一段高くなった。
来る。
レイラはそう思うより先に動いた。
入口の石際へ灯りを叩きつけるように寄せる。
明るみの中、黒い細線が何本も一度に持ち上がった。
糸より太く、蔓より細い。
水を滴らせながら、まっすぐではなく、探り合うように揺れている。
「正面!」
後ろの者が杭を突き出す。
濡れ布がもう一枚飛ぶ。
だが数が違った。
一本二本ではない。
割れ目の中に満ちていたものが、
水の向きの変化とこちらの熱に押され、一気に口を開けたのだ。
レイラは反射で腰の縄を引いた。
「締めて!」
後ろの者が縄を取る。
その時、最前の一本が布の端を越え、石の上へ半身を出した。
生きた糸の束みたいだった。
先端は細かく裂けるように震え、空気を嗅いでいるのか、
灯りの熱を読んでいるのかも分からない。
ぞっとするほど速かった。
だが、その一本が完全に保守室へ入り込む前に、固定爪が落ちた。
がちん、と乾いた重音。
切替盤の噛み合いがようやく定まり、同時に地の奥で大きく水が返った。
正面から押してきていたぬるい気配が、急に引く。
割れ目から顔を出しかけていた黒い線が、一瞬だけ揺れを失った。
「引け!」
匠ーの怒鳴り声が保守室を打つ。
全員が一斉に後ろへ退く。
レイラも縄を引かれながら一歩、二歩と下がった。
布の上で蠢いていた群れが、水を失った藻みたいにばらける。
完全に死んだわけではない。
だがさっきまでの勢いは消えていた。
カナタが保守室の床を見たまま、荒く息を吐く。
「……白珠裏へ返してた本流は、かなり削れた。
完全じゃない。でも、あっちの滲みは止まるはずだ」
蘇静蘭が震える手で盤面を見上げる。
「副制御、第三段まで固定。
主盤側未確認。
ですが応答は……応答は戻っています」
戻っている。
その一言が、どれだけ大きいかはこの場の全員に分かった。
まだ全部は終わっていない。
杜景衡も見つかっていない。
巣窟も生きている。
それでも、地下の機構が完全沈黙からは戻ったのだ。
匠ーは息を整えもせず言う。
「ここで終わりじゃない。
だが白珠を潰す流れは、いったん首を捻れた。
静蘭、戻った応答を書き留めろ。
カナタ、白珠側へ伝える。
レイラ――」
名を呼ばれて顔を上げる。
「まだ行けるか」
腕は熱い。
脚は鉛みたいに重い。
喉の奥には湿った臭いがこびりついている。
それでも、さっきよりははっきりしていた。
「行ける。
でも次は……杜景衡を拾う番だ」
匠ーが短く頷く。
保守室の外、監視路の暗がりはまだ静まり切ってはいない。
割れ目の奥には、退いた群れがなお潜み、
崩れ口の向こうには杜景衡が途絶えた現場が残っている。
副流路の喉は半開きのまま、どうにか息を繋いだだけだ。
本当に終わらせるには、まだ奥へ行かなければならない。
けれど今はひとまず、白珠の裏手を呑み込もうとしていた水の歯が、一本折れた。
その事実だけが、暗い保守室の中で確かな重みを持っていた。




