保守孔の先
見難い火傷の子697
保守孔の先
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
保守孔は、入った瞬間から空気が違った。
正面の監視路に満ちていた湿った重みが、ここでは少し薄い。
まったく乾いているわけではない。
だが、流れの表を人が通るための路と、機構の腹を這うための孔とでは、
染み込んでいるものの質が違うのだと分かる。
壁は古い石と鉄の継ぎをそのまま露わにしており、
ところどころに手の入った削り跡が残っていた。
人ひとりが屈んで進むのがやっとの幅。
灯りを高くも掲げられず、前の背を見失わぬよう、低く揺れる明かりだけが列を繋ぐ。
先頭を行く匠ーの背は、普段よりなお低く見えた。
ここでは身体の大きさそのものが邪魔になる。
広い場所での機動や力は意味を持たず、
ぶつからず、止まらず、無駄に触れずに進むことの方がずっと難しい。
レイラは片手を壁へつけかけ、すぐに思い直して引っ込めた。
触るな。
濡れたところに頼るな。
頭で唱えなくても、身体がそう覚え始めている。
後ろから、蘇静蘭の衣擦れが小さく続いた。
彼女もまた、文句一つ言わずに来ている。
記録を抱える窓口の女が入るには、明らかに向かない道だ。
それでも外に残ると言わなかったのは、ここで見たものを、
そのまま持ち帰れる人間が必要だと分かっているからだろう。
「止まるな。足元だけ見すぎるな」
前から匠ーの声が来た。
低いがよく通る。
「こういうところは、狭さそのものより、狭いと思った時の止まり方が危ない」
言われて、レイラは自分が無意識に息を詰めていたことに気づく。
一度、浅く吐いた。
腰の縄がわずかに張り、後ろの者と繋がっているのを思い出させる。
保守孔は、しばらく緩やかに下っていた。
進むごとに、地の下の音がはっきりしてくる。
水そのものの流れ音ではない。
もっと鈍い、奥で何か重いものが擦れている音。
ときおり混じる、金属が半端に噛んで戻るような、硬い息継ぎ。
副流路切替点がまだ生きている。
その事実が、音になって腹へ響いてくる。
カナタが途中で一度しゃがみ込み、耳を壁へ寄せた。
誰も急かさない。
彼が聞いているのは、ただの物音ではないからだ。
「……正面の流れはまだ右へ寄ってる」
小さく言って、彼は指先で石の継ぎ目を示した。
「けど、奥で返してる。だから鳴く」
「半開きのまま圧を食ってるのか」
匠ーが返す。
「たぶん。完全に閉んでたら、もっと別のところが先に噴く。
完全に開いてたら、こっちへはここまで戻ってこない」
静蘭がそのやり取りを背後で聞いている。
彼女は専門家ではない。
それでも、言葉の意味を一つも落とすまいとする気配がある。
保守孔の途中で、天井がさらに低くなった。
匠ーが先に身体を横へずらし、道を抜ける。
次にカナタ。
レイラも肩をすぼめて続いた瞬間、左腕の内側が石へ擦れた。
「っ……」
熱が走る。
声を噛み殺して、足を止めない。
傷そのものは深くない。
だが汗ばんだ布の下でじくりと痛みが返る。
この程度で動きが鈍るなら、先では役に立たない。
自分にそう言い聞かせながら、それでも一拍だけ呼吸が乱れた。
「レイラ」
後ろの静蘭が、小さく呼ぶ。
「平気」
即答した。
本当に平気かどうかは別だ。
だがここで列を詰まらせる方がまずい。
静蘭もそれ以上は言わなかった。
代わりに、背後の縄の張りを少しだけ緩めてくれたのが分かった。
やがて保守孔はゆるく左へ折れ、先にわずかな広がりが見えた。
孔そのものの終わりだ。
匠ーが手を上げ、全員を止める。
灯りが絞られる。
先の空間は、監視路の脇腹に設けられた小さな保守室のようだった。
人二、三人が作業できる程度の広さ。
壁には古い工具掛け、床には固定具、そして正面の石壁に埋め込まれた鉄の箱――
切替盤の副制御部らしきものがあった。
「当たりだ」
匠ーが低く言う。
だが、安堵は誰の顔にも浮かばなかった。
保守室の床は乾いていない。
壁際に沿って、黒い湿りが細く這っている。
しかもそれは外から流れ込んだというより、
石の継ぎ目の内側から滲み出しているように見えた。
「……ここまで来てる」
レイラが息のように言う。
切替盤そのものは半ば開いた状態で止まっていた。
大きな把手のひとつが途中まで引かれ、固定爪が完全に噛み合わないまま浮いている。
人の手でやめたのではない。
やめさせられた形だった。
蘇静蘭が一歩前へ出かける。
だが匠ーが腕で制した。
「見るだけだ」
彼女は頷き、灯り越しに盤面を見つめた。
刻印、番号、切替位置。
彼女の目が、それらを必死に拾っていく。
「第三切替点……副流路西枝、閉鎖解除途中。
圧逃がし板、一枚目のみ解放。
二枚目が未固定です」
カナタが舌打ちに近い息を吐く。
「最悪だな」
「分かるのか」
「一枚だけ開いてるなら、水は逃げる。
でも逃げ切らない。
細い喉を無理にこじ開けたのと同じだ。
圧は減るけど、流れが荒れる。
戻る水も出る」
白珠裏の滲み出し。
地揺れ。
地下で擦れ合う鈍い音。
全部がそこへ繋がった。
杜景衡は、ここまでは来たのだ。
来て、少なくとも一枚目までは開けた。
その先で何かが起き、二枚目を固定できなかった。
保守室の隅に、もう一つ何かが落ちていた。
灯りを寄せると、それは短い記録板だった。
端が泥で汚れ、片側に爪で引っかいたような筋が残っている。
静蘭の喉が動く。
「杜殿の携行板です」
匠ーはしゃがみ込み、直接は触れず、布を巻いた杭の先でそっと裏返した。
文字がある。
急いで書いたものだ。
震えた線で、いくつかは滲んで読みにくい。
静蘭が灯りを寄せ、声を落として読む。
「『監視路外壁崩落。
西枝応答遅れ確認。
切替手動一枚目まで――』」
そこまでで線が乱れていた。
次の文字は掠れ、ほとんど判別できない。
だが末尾に、ただ一つだけ妙にはっきり残った字がある。
「……『水』」
誰もすぐには喋らなかった。
その一字だけで十分だった。
彼は最後まで、何が異常の中心にあるかを見誤っていなかったのだ。
少なくとも、機構だけの問題ではないと気づいていた。
レイラは保守室の入口から、さらに先の暗がりを見た。
ここは副制御部だ。
本来の主盤か、監視路本線の切替点は、この先のどこかにある。
そしてその途中に、杜景衡が引かれた崩れ口と巣窟がある。
「回収できるものは、まだある」
自分に言い聞かせるように呟く。
匠ーは切替盤へ近づき、把手の状態を目で追った。
「これを繋げば、戻りは弱まるか」
「うまくいけば」カナタが答える。
「でも二枚目を動かす時に、どこへ圧が逃げるか読み切れない。
巣の方へ抜けたら、逆にあっちを活性化させる」
「閉じる方は」
「今さら一枚目を戻すのはもっと危ない。
半端に逃げ始めた水が、今度は逃げ場をなくす」
つまり、選択肢はどちらも安全ではない。
ただ、何もしないままでも、地下はもう悪い方へ進んでいる。
その時だった。
保守室の外――正面の監視路側から、かすかな擦れ音がした。
全員の身体が止まる。
水音ではない。
機構音でもない。
もっと軽く、湿ったものが壁や床を撫でるような音。
一つではない。
いくつもだ。
レイラの背筋が総毛立つ。
「……来てる」
囁くと同時に、匠ーが灯りを一つ下げさせた。
明るすぎると寄るかどうかは分からない。
だが、輪郭を晒しすぎる利もない。
カナタが保守室の床を見た。
さっきはただの湿りに見えた黒い筋が、ほんのわずかに位置を変えている。
流れたのではない。
にじり寄っている。
「床じゃない」
彼が低く言う。
「割れ目の中だ」
静蘭が息を呑む。
だが悲鳴は上げない。
それだけでも大したものだった。
匠ーの判断は早かった。
「ここで切替をやる。正面には出ない」
「この副制御部だけで足りますか」
静蘭の問いは震えていない。
「足りるかどうかはやってみるしかない」
匠ーは把手に布を巻きながら答えた。
「カナタ、読む。レイラ、臭いと寄りを見ろ。動いたら言え。
静蘭、盤面の刻印を読む役だ。間違えるな」
三人が、ほとんど同時に頷いた。
役割が決まると、人は少しだけ恐怖から距離を取れる。
やることがある限り、まだ崩れない。
レイラは保守室の入口脇へ位置を取り、灯りを低く構えた。
壁の割れ目、床の継ぎ目、正面の暗がり。
見えるものより、見えないものの動きを拾うつもりで息を浅くする。
腕の痛みはもう消えていた。
いや、痛みより先に、別の冷えが全身を締めているだけだ。
匠ーが把手へ手をかける。
「行くぞ」
カナタが耳を澄ませるように目を細める。
静蘭が盤面の刻印へ灯りを寄せる。
レイラは暗がりの割れ目から、ぬめるように伸びようとする細い影を見た気がした。
その瞬間、保守室の外で何かが一斉にざわ、と動いた。
水ではない。
風でもない。
巣が、こちらに気づいた音だった。




