深淵の奥へ続く道
見難い火傷の子696
深淵の奥へ続く道
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
白珠の裏手で組み替えられた人の流れは、すぐに二つへ割れた。
ひとつは建物の中へ戻る流れ。
患者を抑え、湯を沸かし、布を裂き、濡れを隔て、まだ来るかもしれない次へ備える流れ。
もうひとつは外へ伸びる流れだった。
灯り、縄、杭、布、そして口数の少ない人間を選び、
暗渠と副流路の方角へ向かうための細い列だ。
レイラはその後ろについた。
脚を前へ出すたび、疲労は消えていないのだと分かる。
腕の内側の熱も、汗の冷えた肌着も、そのままだ。
それでも止まる気にはなれなかった。
白珠の裏で石目から滲み始めた水を見てしまった以上、ここで座る方が気味が悪い。
匠ーが前を行く。
その少し後ろを蘇静蘭が急ぎ足でついていた。
受付衣の上から薄い外套を羽織り、胸元には第十七方面窓口の記録札が揺れている。
走ってきた時の息はもう整っていた。
ただの伝令ならここまでは来ない。
自分で見て、自分でつなぐ役なのだと、その歩き方だけで分かった。
「最終経路はどこまで引ける」
匠ーが振り返らずに問う。
「監視路の入口までは確実です」
静蘭はすぐに答えた。
「そこから先は杜殿の単独行です。
ただ、監視盤の異常記録は残っていました。
西側副流路、第三切替点の応答遅れ。
二度。
間を置いて、圧差計にも揺らぎが出ています」
「揺らぎ、ね」
カナタが短く言った。
彼は結局、入口まで見るためにこちらへ加わっていた。
白珠を完全には空けられず、途中で戻るつもりなのだろう。
それでも今の彼には、建物の中で待つより、外の流れを一度じかに見ておく方が必要だった。
「数字が揺らいだんじゃない。水の行き先が迷った揺れだ」
静蘭は一瞬だけ彼を見る。
専門用語ではない。
だが現場でしか出てこない言い方だ。
彼女は否定しなかった。
白珠の裏手を離れるほど、地面の湿り気はじわじわ増していった。
夜の冷えが落ちているはずなのに、低い位置の空気だけがぬるく重い。
足元の石は乾いて見えても、継ぎ目には黒い線が残っている。
誰かが先に打った杭へ回した縄が、進路の脇に低く張られていた。
封鎖のためでもあり、帰り道を見失わぬためでもある。
一度、ごく短く、また地の下が鳴いた。
今度は誰も声を上げない。
もう皆、あれをただの揺れとして受け取ってはいなかった。
「急げ」
匠ーが言う。
列の前方で灯りが持ち上がる。
細い通路は途中から土の露出が増え、石組みの壁も古くなった。
ここから先は白珠の裏手というより、深淵ダンジョンの古い維持路に近い。
人の手は入っている。
だが、長く使われぬ箇所まで常に整っているわけではない。
壁の継ぎ目には古い補修跡が走り、天井近くには水染みの輪が幾重にも重なっていた。
「止まれ」
先頭の匠ーが手を上げた。
全員が足を止める。
灯りが寄せられた先で、地面の泥が不自然に擦れていた。
靴底の痕だ。
一人分。
規則正しく進んでいたはずのそれが、途中から半歩だけ乱れている。
乱れて、また戻り、そして壁際へ寄っていた。
蘇静蘭が息を詰める。
「杜殿の巡察靴です。底打ちの並びが、管理局標準と一致します」
レイラはしゃがみかけ、すぐに匠ーの視線で止まった。
触るな、の合図だ。
彼女は手を引っ込め、代わりに鼻で空気を探る。
湿り気、古い泥、鉄、油。
その奥に、かすかに嫌なものが混じっている。
白珠裏や宿舎脇で嗅いだものと同じ、ぬめりを思わせる匂いだった。
「……いる」
自分でも小さすぎる声だった。
だが匠ーには届いたらしい。
「新しいか」
「分からない。けど、ここを通ってる」
カナタが壁際へしゃがみ込み、灯りを受けて石の継ぎ目を見る。
指先は触れず、目だけを寄せる。
「水がここで一度、脇へ逃げてる。上じゃない。壁の向こうだ」
「第三切替点は近いのか」
「この先、曲がりを二つ。監視盤が先で、切替点はその奥です」
静蘭の返答は速い。
管理局員でなくても、記録係として頭へ叩き込まれているのだろう。
匠ーは足跡を見下ろしたまま言った。
「杜景衡はここまでは正常に歩いてる。乱れたのはその先だ」
レイラも見た。
確かに、最初の足取りは迷いがない。
自分の職場を歩く人間の靴だ。
だが途中の半歩だけ、つま先が浅く滑っている。
ただ転びかけたのではない。
何かに気を取られたか、足元ではない別の違和に身体が引かれたような乱れ方だった。
「……振り向いた跡がない」
カナタがぼそりと言う。
「何?」
静蘭が問うと、彼は監視路の薄暗がりを顎で示した。
「異常に気づいて立ち止まったなら、普通は灯りを振るか、足場を探る。けどこれは、そのまま進んでる。見えてる危険じゃない」
見えてる危険じゃない。
その言葉は、全員の腹へ重く落ちた。
次の曲がりを折れたところで、壁の一部が崩れていた。
新しい崩れではない。
だが古くもない。
土と石材の割れ目がまだ鋭く、剥がれ落ちた破片が泥の上で濡れた光を返している。
本来の監視路の幅が、そこで半分近くまで削られていた。
匠ーが灯りを上げさせる。
崩れた壁の向こうは、空洞だった。
人の作った路ではない。
もっと古い、湿った腹の内側のような空間が口を開けている。
むき出しの土と岩、その隙間に走る黒い筋。
水が染みるたびに増え、減り、また別の筋が生まれる場所だ。
レイラの喉が詰まる。
そこからだった。
匂いが一段濃くなったのは。
「巣だ」
思わず出た声に、静蘭が顔を向ける。
「分かるのか」
「分かりたくなかったけどね」
乾いた答えになった。
だが冗談ではない。
あの湿り方、あのぬめった匂い、息を潜めているのに肌へまとわりつく気配。
水辺へ寄る患者を見た後では、嫌でも結びつく。
崩れ口のすぐ手前に、何かが落ちていた。
灯りが寄る。
半ば泥に埋もれた、金具付きの外装片だった。
管理局防護服の肩外壁。
縁が裂け、留め具が千切れかけている。
蘇静蘭の顔色が変わる。
「杜殿の装備……」
匠ーは誰より先に一歩出かけ、すぐ止まった。
足元の泥、その先の崩れ、空洞の湿り、全部を一度に見たのだろう。
「灯りを下げるな。崩れ口には近寄るな」
命令が飛ぶ。
レイラは肩外壁の裂け目を見た。
布ではない、硬い外装がまず割れている。
その下の柔らかい層まで破られていたなら、寄生の群れには十分すぎる入口になる。
「崩れに巻かれたのか」
誰かが低く言った。
「違う」
答えたのはカナタだった。
彼は監視路の端へ目を細め、壁と床の間を見ている。
「崩れたなら、もっと散る。これは止まってる。ここで何かを見て、寄って、足を取られたんじゃない」
「寄った?」
静蘭が反射的に聞き返す。
カナタは頷かない。ただ、崩れ口から外れた、監視路のさらに奥――本来なら進むべき切替点の方向ではなく、空洞の湿った影へわずかに寄った泥の擦れを見せた。
「引かれてる」
レイラの背に冷たいものが走る。
患者たちと同じだ。
水辺へ。
湿った方へ。
自分の意思とは別の、身体の癖みたいに見える寄り方。
匠ーが短く息を吐いた。
「杜景衡はここでやられた可能性が高い」
蘇静蘭は唇を引き結んだまま、崩れ口と装備片を見ていた。
受付窓口の女ではなく、記録を現実へ繋ぐ者の目になっている。
「防護服の認識阻害は……」
彼女は言いかけて止まる。
自分でももう答えが見えているのだろう。
「目で追う相手には効く」レイラが言った。
「でもこいつらは、たぶん違う。湿り、熱、血、裂け目。そういうので寄る」
誰も否定しなかった。
その時だった。
監視路のさらに奥――切替点の方から、がつん、と硬い音が返ってきた。
人が金属を蹴ったような音ではない。
どこかで半端に噛んだ機構が、圧に押されてもう一度ずれたような音だ。
静蘭が顔を上げる。
「切替盤……!」
続けて、地の下でまたあの鈍い軋みが走る。
今度は短くない。
監視路の壁がびり、と細かく震え、崩れ口の土がさらさらとこぼれた。
「下がれ!」
匠ーの声と同時に、全員が一歩退いた。
だが崩れそのものは大きく来なかった。
代わりに、奥から冷たい風ではなく、ぬるい湿気がひと息ぶん押し出されてきた。
水が流れを変えた時の、あの生きものじみた呼気だった。
カナタが低く言う。
「切替点がまだ死んでない。半端に生きてる」
「なら繋げる余地はあるか」
匠ーの問いに、カナタはすぐには答えなかった。
壁の震え、足元の水の寄り、崩れ口の巣、奥から来る機構音。
全部を秤にかけている。
「……ある。けど、このまま真っ直ぐ行ったら同じ目に遭う」
レイラは崩れ口を見た。
見えない。
だが見えないままそこにいる。
湿った空洞の縁、裂けた装備の残り、寄った足跡。
杜景衡がここで何を感じ、どこまで正気で進もうとしたのかを思うと、胃の底がひどく冷えた。
匠ーは即断した。
「静蘭、ここから先の見取りを口で出せ。切替点までの距離、横道、保守孔、迂回があるなら全部だ」
「はい。監視路正面を進めば、切替盤までおよそ三十歩。ですが左壁側に保守孔があります。人一人が屈んで通れる程度。通常は点検用で、水気は少ないはずです」
「はず、か」
「通常なら、です」
匠ーは頷く。
「十分だ。正面は捨てる。保守孔から入る」
「待って」レイラが言った。
皆の視線が一瞬集まる。
「その前に、ここへ縄を二本。帰り道じゃなくて、引き剥がすための線にする。寄られた時、力ずくで戻す線がいる」
言ってから、自分でも声の硬さに驚いた。
だが匠ーはすぐ頷いた。
「採る。二本だ。腰と胸で取れ」
「もうひとつ」カナタが続ける。
「布を濡らすなら、湯じゃなくて薬草灰を混ぜろ。臭い消しになるかは分からないけど、少なくとも白のままよりはましだ」
「やる」
短いやり取りのたび、対策が一つずつ形になっていく。
誰も完璧だとは思っていない。
それでも、何もしないまま巣の口へ入るよりは遥かにいい。
蘇静蘭は息を整え、崩れ口から目を離さずに言った。
「杜殿は……まだ」
生きているか。
その言葉を、彼女は最後まで出さなかった。
匠ーも安い慰めは返さない。
「回収できるものは回収する。生きていれば救う。駄目でも、ここで何が起きたかは持ち帰る」
静蘭は目を伏せ、短く頷いた。
それで十分だった。
また奥で、がつ、と機構が苦しむ音がした。
時間がない。
副流路はまだ半端に噛んだまま、地下の圧を別の場所へ押し返し続けている。
レイラは縄を受け取り、自分の腰へ回した。
濡れた繊維が服越しに食い込む。
腕の内側の熱がまたじわりと戻ってきた。
痛みがあるうちは、まだ動ける。
そう思うことにした。
白珠の方角はもう見えない。
ここから先は、灯りの輪の外がすぐ深淵だ。
匠ーが先頭で身を屈める。
保守孔は、言われた通り人ひとりがようやく通るほどの低さしかなかった。
古い整備用の抜け道だろう。
壁は乾いて見えるが、奥へ行くほど何が待っているかは分からない。
「行くぞ」
その一声で、列が再び動き出す。
正面には、杜景衡が引かれていった崩れ口。
その脇を避け、より狭く、より古い、人のために作られたはずの孔へ潜る。
水の息と虫の気配と、半端に生きた機構音に挟まれながら。
深淵は、ただ暗いだけではない。
そこで動いているものの都合で、道の意味まで変えてしまう。
杜景衡が途絶えた場所から先へ、
匠ーたちは今、自分たちの意志で入っていこうとしていた。




