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見難い火傷の子  作者: 清風
695/721

小康状態に起きた異変

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子695


小康状態に起きた異変


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


患者を受け取った白珠の中では、すぐに次の手が始まっていた。

濡れた敷布が剥がされ、煮え立つ湯気の向こうで短い指示が飛ぶ。

誰も声を荒げてはいないのに、建物じゅうが張り詰めている。

窓の外に取り残されたレイラは、止まったオートメガネウラの縁に手を置いたまま、

荒い息を一つ吐いた。

腕の内側がじくじくと熱い。

防護外套の下で、汗が背を冷たく伝っていた。


「……搬入、完了」


言ったところで、誰に向けた確認でもない。

自分の耳へ落とすような声だった。


窓の内側では、カナタがまだ身を乗り出し、下を見ていた。

白珠の灯りがその頬の線を細く照らしている。

彼は礼も安堵もすぐには口にしなかった。

ただ、裏手の地面と、柵の向こうの暗がりと、そのさらに奥にある見えない水路へ、

神経を伸ばし続けている顔だった。


「レイラ」


呼ばれて見上げる。


「まだ終わってない」


「分かってる」


返した瞬間だった。


足の裏へ、鈍いものが来た。


最初は、疲れで膝が笑ったのかと思った。

だが違う。

白珠の壁に掛けられた小灯りが、かすかに揺れ、窓枠の隅からぱら、と乾いた砂が落ちた。

遅れて、地の下から低い呻きのような音が這い上がってくる。

地面そのものが、奥歯を噛み直したような震えだった。


「……っ」


レイラは咄嗟にオートメガネウラの機体へ肩を寄せた。

止まったはずの機体が、きし、と不快な音を返す。

荷重を逃がしきれないまま傾ぎかけ、彼女は反射的に窓下の石を踏み換えた。

白珠の内側で誰かが桶を取り落とし、水音と短い悲鳴が重なる。


「地揺れだ!」


誰かが叫ぶ。


だがそれは、大地が大きく暴れるような揺れではなかった。

むしろいやだった。

短く、低く、身体より先に水と壁が知る揺れ。

桶の水面が細かく震え、裏手の溝の暗がりで、見えないどこかがごぼ、と息を吐いた。


カナタの目つきが変わった。


「水が死んでない」


その一言だけで、レイラは喉の奥が冷たくなるのを感じた。


封じた。

塞いだ。

切った。

そう思っていた流れが、地の下でまだ動いている。

いや、押し返され、細いところへ追い込まれて、別のどこかを探している。


白珠の裏手で、見張りについていた者が柵越しに声を上げた。


「灯り寄こせ! さっきまで乾いてた石目から、水が――」


最後まで言い切る前に、また、ごく短く地が鳴った。

今度は揺れというより、地面の下の継ぎ目がずれる音だった。

石畳の際、古い継ぎ目の一つが黒く濡れ、じわ、と細い筋を作る。

そこへ灯りが寄る。

濁った水だった。

月明かりにも灯火にも鈍くしか返さない、

いやな色の湿りだった。


「触るな!」


レイラの声が飛ぶ。

見張り役の手がはっと止まった。


カナタは窓から身を引くと、すぐに内側へ何事かを指示した。

人の動く気配が一斉に変わる。

さっきまで患者を受け取るために集まっていた手が、

今度は布、杭、灯り、湯、縄へと散っていく。

白珠の中にいたはずの静けさが、違う種類の緊張に切り替わった。


「裏手の封鎖、組み直す。さっきの位置はもう駄目だ」


「そんなに変わるのか」


窓下からレイラが問うと、カナタは一度だけこちらを見た。


「変わる。止めた水は、止まったんじゃない。逃げ道を探す」


その時、表の方から駆けてくる足音がした。

石を打つ靴音は軽くない。

迷っている足でもない。

急いではいるが、転ばぬよう抑えた走り方だった。

裏へ回り込んできたのは、深淵冒険者ギルドの受付衣をまとった女だった。

夜気を裂いてきたせいで肩で息をしているが、髪も襟元も大きくは乱れていない。

白珠の裏手へ踏み込む前に、

一瞬だけ周囲の濡れた石と立つ人間の数を見、危険を測った目をした。


「匠ー様は」


その声で、レイラは匠ーが少し離れたところ、

柵際の見張りへ指示を飛ばしていたのを思い出す。

彼もすぐにこちらへ向き直った。


「ここだ」


女は深く礼をする余裕も惜しむように、一歩詰めた。


「深淵冒険者ギルド、第十七方面窓口の蘇静蘭です。

管理局より照会と、可能であれば救助協力の依頼が来ています」


その場の空気が、また一段階冷えた。


匠ーの眉がわずかに寄る。


「内容は」


「深淵ダンジョン管理局、第十七エリア巡察官補佐、暗渠圧監視官

――杜景衡殿が未帰還です」


名前と役職が、夜気の中で硬く鳴った。


カナタが白珠の内側から顔を上げる。

レイラも、壁にもたれていた身体を起こした。

巡察官補佐。

暗渠圧監視官。

その肩書きの意味が分からぬ者はこの場に少ない。

地下の流れを見る者。

副流路に触れられる者。

今のこの揺れと、裏手に滲み始めた水に、一番近い位置にいたはずの男だ。


蘇静蘭は手にしていた濡れぬよう包んだ板片を差し出した。

簡易の記録票らしい。

匠ーが受け取る。


「最終確認は一刻少し前。

第十七エリア西側の副流路監視路です。

水圧監視盤の異常と、切替反応の遅れを見て、先行確認に入った記録があります。

同行者なし。

定時報告が途絶えました」


「単独か」


匠ーの声は低かった。

責める響きではない。

事実の重みだけを確かめる声だ。


「はい。通常であれば不自然ではありません。

杜殿は現場確認を単独で許される方です」


その一言で、レイラには見えた気がした。

装備を整え、灯りを持ち、狭い監視路を迷いなく進む男の姿が。

危険を知らぬ下役ではない。

むしろ逆だ。

何度も戻ってこられた者だけが身につける、余分のない判断で進む人間だ。


だからこそ、戻ってこない。


匠ーは記録票から目を上げた。


「杜景衡が戻らないと、どこが止まる」


蘇静蘭はほとんど間を置かなかった。


「副流路の手動切替確認。

監視盤異常の一次確証。

必要であれば、封鎖と圧抜きの進言です。

管理局本隊は編成に入っていますが、到着にはまだかかります」


「その間に地下が鳴いた」


カナタが内側から言う。

静蘭は彼を見る。

その表情に感情は大きく乗らない。

ただ、言葉の意味をすぐ秤にかける顔だった。


「今、裏手の継ぎ目から新しい滲み出しが出ています」レイラが補った。

「さっきの揺れの直後だ。濁り水。触れてない」


蘇静蘭の唇がきつく結ばれる。

取り乱しはしない。

だが事態の線と線が繋がったのを悟った顔だった。


「……では、杜殿の失踪と同時期に、副流路側の制御も崩れている可能性があります」


「可能性じゃないな」


匠ーが短く言った。


誰も反論しない。


裏手の暗がりで、また、ごぼりと水の含み音がした。

今度はさっきより近い。

柵の向こうで灯りを持つ者が一歩退く。

濡れた石目が一本ではなく、二本、三本と黒く筋を増やし始めていた。


「白珠の裏へ回る流れが変わったか……」


カナタの声は独り言に近かったが、全員が聞いた。


匠ーは一度、白珠の窓、裏手の水筋、止まったオートメガネウラ、

そして蘇静蘭の持ってきた記録票を順に見た。

判断の早い人間の沈黙だった。迷っているのではない。

選ぶために、要るものを一瞬で並べ替えている。


「レイラ」


「動ける」


返答は自分でも驚くほど早かった。

腕は重い。

脚もだるい。

それでも、いまここで休むという言葉だけは出なかった。


「無理はさせん」匠ーは即座に切る。

「だが、お前はさっきまで汚染帯の縁にいた。臭いと流れを拾えるなら借りたい」


「行ける」


「カナタ、白珠を離れられるか」


窓の向こうで、カナタは一瞬だけ奥を振り返った。

中ではもう次の患者処置が動いている。

自分がいなければ困る手もあるだろう。

それでも彼は、裏手へ滲み出し始めた新しい線から目を逸らさなかった。


「長くは無理だ。だが入口までは見る。どこが生きてるかだけでも拾う」


「十分だ」


匠ーは蘇静蘭へ向き直る。


「管理局本隊が来るまでの穴を埋める。

だが条件がある。

お前は記録係に戻るんじゃない。

ここで情報線を握れ。

杜景衡の最終経路、監視盤の位置、副流路切替点、全部引っ張れ」


「承知しました」


「それと、管理局へ返せ。

杜景衡は単なる失踪じゃない。

水路異常と地揺れが先に来てる。

救助隊を“人探し”の編成で寄越したら足りない」


静蘭の目が、ほんのわずかに見開かれた。

そこまで踏み込んで言うのか、という驚きではない。

そこまで言われて初めて、管理局向けの言葉として整う種類の現実がある。

その理解だった。彼女はすぐに頷く。


「災害制御案件として上げます」


「そうしろ」


白珠の中で、新たな悲鳴が短く上がり、すぐに抑え込まれた。

処置は処置で、まだ綱渡りの最中だ。

こちらも立ち止まれない。


裏手の地面が、今度は揺れではなく、深いところで軋んだ。

聞いた者にだけ分かるほどの低い音だ。

だがレイラには、それがさっきより悪い音に思えた。

どこか一箇所が鳴ったのではない。

もっと細い、もっと多い、見えない筋が地の下で擦れ合っているような音だ。


カナタが窓枠へ手をかける。


「……これ、封じた流れが押し返してるだけじゃない。どこかで半端に開いてる」


匠ーが顔を上げる。


「副流路か」


「たぶん。開き切ってない。閉じ切ってもいない。いちばん悪い形だ」


蘇静蘭が息を呑む気配がした。

杜景衡が向かった理由と、戻らない意味が、そこでようやく一つになったのだろう。


手動切替の途中で、何かが起きた。


いや、何かではない。


レイラの脳裏に、宿舎裏で見た患者の目と、濡れた袖口と、

水へ寄ろうとする脚が、ひどく鮮明に蘇った。

もしあの巡察官が、崩れた監視路のどこかで、防護の継ぎ目を破られ、

見えない群れにまとわりつかれていたとしたら。

認識阻害も、階層の知識も、手順も、何一つ間に合わずに。


「……行こう」


自分の口からこぼれた声は、思ったより低かった。


匠ーが頷く。


「行く。

だが回収だけじゃない。

切替点が生きてるなら繋ぐ。

駄目なら閉じる。

どっちにしろ、地下の息をこれ以上こっちへ寄せない」


誰も軽くは返事をしなかった。

軽く返せる場ではなかったからだ。

だが、動く者はもう動き始めている。

縄が取られ、灯りが選ばれ、濡れ布が巻かれ、

白珠の裏手からさらに奥、暗渠と副流路へ通じる細い導線のために、

人が再び組み替えられていく。


蘇静蘭はその場で既に次の伝達文を組み立てている顔をしていた。

カナタは窓の内外の境で、白珠を捨てずに外を見る位置を探している。

匠ーは、誰を行かせ、誰を残し、どこで線を保たせるかを一息で割り切っていく。

レイラは止まったオートメガネウラの機体を見上げ、その沈黙が腹立たしいほど重く感じた。


空を飛べないなら、脚で行くしかない。


地の下で、また深淵が鈍く鳴いた。


白珠の裏手に立つ全員が、それを聞いた。

止まっていない。

まだ、地下で生きている。


だからこそ、次は人を水から引き剥がすだけでは足りない。

水そのものがどこへ逃げようとしているのか、

その喉首を掴みに行かなければならなかった。

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