まだ地に引く
見難い火傷の子694
まだ地に引く
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
窓枠の内側へ白布が消えたのを見届けるより早く、レイラは機体の首を返していた。
息を整える暇はない。
背の生命維持嚢はさっきの受け渡しで一度沈黙し、そのまま完全には戻っていない。
灯は細く、頼りなく、点いているという事実だけを辛うじて示していた。
建物の裏手へ回る。
白珠の壁沿いは、表よりずっと湿っていた。
昼の名残りのように、暗い地面がまだぬらりと鈍く光る。
樋から落ちた水か、洗い場から流れた水か、それとも別のものか。
夜になると境が曖昧になる。
裏手の戸口近くに、灯りが二つ揺れていた。
一つは地面へ近い。もう一つはその傍で忙しなく上下している。
人がしゃがみこみ、もう一人がそれを照らしているらしい。
「レイラ!」
下から声が上がった。
さっき裏口で子どもを支えていた補助員とは別の声だ。
若い。
張っているが、端が震えている。
「もう一人、座り込んでる! 立たせたら行く!」
「歩けるの?」
「歩く、けど……自分で歩いてる感じじゃない!」
それで十分だった。
レイラは低く円を描きながら裏手の空間を測る。
戸口の前は狭い。
壁、樋、積み木箱、洗い桶。
人が集まるには足場が悪く、機体を寄せるには障害物が多い。
しかも濡れている。
地上へ降りれば早い。
だが早いことと正しいことは違う。
濡れた地面へ自分の靴底を置いた瞬間、次に拾うものが増える。
水、泥、体液、引きずられる足。
全部を機体へ持ち込むことになる。
「顔は見える?」
「見える!」
「目は?」
「開いてる、けど合ってない!」
「咳は!」
「さっき一回!」
レイラは舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。
まだ完全に落ちてはいない。
だが近い。
呼吸が乱れ、意識が揺れて、身体が水のある方へ偏っている。
今さっき運んだ子と同じ崩れ方だ。
機体を壁際へ滑らせる。
石壁に沿って脚を一本だけ預け、羽で浮きを残す。
機械が不満そうに軋んだ。
背の生命維持嚢が、その振動に合わせて鈍くぶれる。
接続が甘いのか、主機そのものが嫌がっているのか、もう判別している余裕はない。
下にいた補助員が灯りを高く上げた。
照らし出されたのは、小柄な少年だった。
年の頃はさっきの子とそう離れない。
裏口の敷居に膝を引っかけるようにして座り込み、肩で息をしている。
けれど顔だけは、戸口の外――水の気配がある方へうっすら向いていた。
「名前、呼んだ?」
「呼んでる、でも遅い!」
「返事は?」
「時々!」
少年の指が、敷居の端を探るみたいに動いていた。
立ち上がりたいのではない。
そちらへ行きたいのだ。
まだ歩ける身体が残っているせいで、余計に厄介だった。
「抱えるなよ」
レイラが言うと、補助員はすぐ頷いた。
「布は!」
「ここ!」
差し出された布は短かった。
応急用だ。
子ども一人なら足りなくはないが、持ち上げるには心許ない。
レイラは腰の包みから予備の覆いを抜いた。
洗浄布を兼ねた薄い長布だ。
本来なら汚染面を覆うためのものだが、今は長さが要る。
「それ、胸から回して。脇の下じゃない。息止まる」
「はい!」
「腰は私が取る!」
補助員が身を乗り出す。
その瞬間、少年が急に身体をひねった。
外へ出る方向へ、細い力が一気にかかる。
補助員の手が滑り、灯りが大きくぶれた。
「っ、待っ――」
声と同時に、少年の肩が戸口の柱へぶつかった。
鈍い音。
そのはずみで咳き込み、黒いものが唇からこぼれる。
レイラはもう待たなかった。
鞍の留めを半分外し、身体を吊ったまま深く身を乗り出す。
脚先は地につけない。
片手を壁の縁へ、もう片手で長布を投げるように回した。
布が少年の胸を掠め、補助員の腕に乗る。
補助員がそれをつかみ損ねかけ、もう一人の白珠の者が横から押さえた。
「そこ、持って!」
「はい!」
「腰、通す!」
レイラは長布の端を引き、身体の向きを無理やり変える。
外へ外へと開いていた肩と顎が、半ばねじられる形で内側へ戻る。
少年が嫌がるように脚をばたつかせた。
暴れているのではない。
ただ、向きだけが違う。
「聞こえる。今はこっち」
返事はない。
目だけが一瞬、レイラの方へ滑る。
焦点は合わないまま、でも完全に空ではなかった。
その時、背の生命維持嚢が高くひとつ鳴った。
短い警告音ではない。
もっと細く、持続する嫌な音だ。
「……やめてよ」
レイラは吐き捨てるように言ったが、機械は当然待たない。
主機の灯が片側だけ弱くなり、胸前の小板に走っていた細線が消える。
通電板が一枚、死んだ。
けれどまだ全部ではない。
全部でないなら使う。
「持ち上げる!」
補助員たちが下から押す。
レイラが布を引く。
オートメガネウラの羽組が唸り、壁に預けた脚が石を引っかいた。
持ち上がりかけた、その時。
少年の足が敷居を離れた瞬間、膝から下だけが妙に大きく外へ振れた。
地を失ってなお、水のある方へ行こうとする残り火みたいな動きだった。
「脚、押さえて!」
「届かない!」
「桶どかして!」
下の誰かが蹴る。
木桶が転がり、水だか洗い汁だかが石畳へ広がった。
嫌な匂いが上がる。
機体がそれに反応したように、一度大きくぶれた。
「……っ」
レイラの右腕に重みが集中する。
布だけでは抜ける。
固定帯を入れたい。
だが入れるには両手が要る。
今ここで両手を離せば落ちる。
その判断より先に、機体の後脚が半歩、滑った。
世界が一度、横へ傾ぐ。
灯りが流れ、壁が近づき、背の装置が骨に食いこむ。
補助員が悲鳴を上げた。
落ちる。
その半拍前に、レイラは布を巻き取るように手首へ絡めた。
腕一本でなく、肩と背で支える形へ変える。
皮膚が引き攣れる。
防護服の下で筋が軋む。
「機械が死んでも落とさない」
自分で前に言った言葉が、遅れて喉の奥へ返ってきた。
ならやるしかない。
「脚、こっちへ!」
補助員が理解するより先に、もう一人が動いた。
少年の膝裏へ腕を差し込み、外へ振れた足を無理に内へ返す。
直接触れた。
あとで洗うしかない。
だが今はそれでいい。
少年の身体がようやく縦に揃う。
レイラはその瞬間を逃さず、固定帯を噛ませた。
腹と腰のあいだへ通し、布の張りの内側へ滑り込ませる。
簡易すぎる。
雑だ。
それでもさっきよりはましだった。
「離して!」
下の手が一つ、また一つ外れる。
最後に補助員が少年の肩から指をどけた時、重みがまるごとレイラと機体へ来た。
オートメガネウラが沈む。
だが、落ちきらない。
薄膜が夜気を掴み直す。
後脚が壁を蹴り、機体がやっとのことで水平を取り戻した。
裏口から二尺、三尺。
それだけ浮いただけで、少年の身体からさっきまでの“行こうとする力”が少し抜けた。
完全ではない。
だが歩けなくなれば、引きも形を変える。
「正面へ回す!」
「裏からじゃだめか!」
下から声が追う。
「だめ! 濡れてる!」
それ以上の説明はいらなかった。
補助員たちが走り出す気配がする。
表へ先回りし、窓か戸を開けるつもりだ。
レイラは機体の首を返す。
だがそこで、背の生命維持嚢がついに灯を大きく落とした。
さっきまで残っていた青白い線が、糸みたいに細くなっている。
脈取りの小板が沈黙する。
呼吸の管も反応が鈍い。
「うそ……」
故障は覚悟していた。
していたが、今でなくていいだろ、と一瞬だけ思う。
思っても仕方がない。
数を見ていられないなら、顔色を見るしかない。
胸の上下を見るしかない。
喉が鳴るか、肩が跳ねるか、目が落ちるか。
昔から人が手でやってきたことへ戻るだけだ。
レイラは少年の口元へ顔を寄せた。
防護布越しでも分かる。
浅い。
速い。
そして時々、抜ける。
「まだいる」
今度ははっきり言った。
機械にではない。
腕の中の少年へでもない。
自分自身へだ。
白珠の正面が見える。
灯りが増えていた。
窓が一つ開き、白布が垂れている。
受け入れる準備はさっきより早い。
もう一人運ばれたことで、向こうの動きも整ってきたのだ。
その時、眼下で人影が一つ、正面から飛び出してきた。
カナタだった。
裏手から回りこんできたのか、泥を跳ね上げながら走っている。
こちらを見上げ、一度だけ大きく手を振る。
「上じゃなく、横から入れ!」
風に裂けながらも声は届いた。
「窓枠、右が割れてる!」
レイラは反射的に機体を引いた。
見れば確かに、開いた窓の右端が欠けている。
さっきは暗くて見えなかった。
布ごと通せば引っかかる。
引っかかれば終わる。
カナタは建物の壁へ手をつき、そのまま息も整えずに叫ぶ。
「左寄せろ! 足からじゃなく頭から!」
それだけ言って、今度は窓の下へ走る。
受ける側へ回るつもりだ。
レイラは短く息を吸った。
地上を読むやつがいる。
ならまだ繋がる。
機体を左へ滑らせる。
少年の頭を少し高くし、首が折れない角度を探る。
布の張り、固定帯、腕の位置。
全部を半拍で合わせる。
「受ける!」
窓の内側から声が返る。
白布の向こうに、さっきより多い手が見えた。
「頭から行く。首、見る!」
「見てる!」
「腰は布ごと!」
「分かった!」
機体が窓辺へ寄る。
羽音が壁へ返り、白布がはためく。
少年の足先が小さく跳ねた。
まだ地を探しているみたいだった。
「ここで終わり。もう歩かなくていい」
レイラはそう言って、今度は自分のためではなく、たぶん相手のために言った。
布ごと、渡す。
中の手が受ける。
カナタが窓の下から腕を伸ばし、垂れそうになった布端を押し上げる。
機械も人も万全じゃない。
その穴を、別の手が埋める。
重みが抜けた。
少年の身体が窓の向こうへ消える。
白布、手、灯り、呼び声。
すべてが中へ吸い込まれるみたいに消えていく。
その瞬間、背の生命維持嚢が完全に黙った。
灯が落ちる。
警告も鳴らない。
死んだ。
レイラはしばらく、そのまま窓辺に機体を浮かせていた。
もう渡した。
渡したのに、腕がまだ重みを覚えていて、すぐには離せなかった。
下からカナタが見上げる。
「レイラ!」
返事をしようとして、声が少し遅れた。
「……渡した」
「ああ」
「装置、落ちた」
「人は落ちてない」
その一言で、ようやくレイラは息を吐いた。
短く、擦れるみたいに。
白珠の中では、もう次の声が上がっている。
湯、布、薬、灯り。
建物の裏手では、まだ誰かが戸を押さえているかもしれない。
切ったはずの水は、見えないところでまだ鳴っている。
今夜はまだ終わらない。
けれど少なくとも、二人は地から引きはがした。
レイラは死んだ生命維持嚢を背負ったまま、機体の首を少し上げた。
高く飛ぶためではない。
次に降りる場所を探すための高さだった。




