拾う翼
見難い火傷の子693
拾う翼
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
詰め所の裏手は、油と湿りと金属の匂いがした。
夜の冷えが降りてきているのに、格納具のまわりだけはまだ昼の熱を残している。
人の手で何度も触られ、締め直され、持ち上げられた道具の熱だ。
吊り具の下で、オートメガネウラが脚を畳んでいた。
眠っているようにも、獲物を待っているようにも見える姿だった。
薄い外殻は夜気を鈍く返し、節ごとに留められた補助索が風にかすかに鳴る。
整備班の一人が、レイラの外套を見るなり眉をしかめた。
「それ、替えてから乗れ」
「今替える」
レイラは即答して、留め具を外した。
怪異防護用の外層布は、濡れと飛沫を拾って重くなっている。
袖の暗い染みを見た若い整備員が一瞬だけ息を止めたが、何も言わなかった。
言わなくても、汚れの意味は分かる。
脱いだ外層は、待っていた補助員が長柄の挟みで受け取った。
直に触らない。床へ落とさない。
洗い場へ回す前に、まず隔離箱へ入れる。
もう現場の手順になりつつある動きだった。
そのあいだにレイラは新しい外層を羽織る。
内側の支持具に合わせて素早く締め、手首、首筋、脇の継ぎ目を順に確かめる。
飛ぶための服ではない。
近づき、触れ、汚れを持ち込まず、戻って脱ぐための服だ。
けれど飛べなければ話にならないから、重さは限界まで削られている。
布の下で留め具が骨のように鳴った。
「生命維持嚢、右掛けでいけるか」
「右で」
「通電まだ不安定だ。さっき一回、灯が飛んだ」
整備班の年嵩の男が言う。
謝罪ではなく確認だった。
使う側も整える側も、機械が完璧ではないことを前提にしている声だった。
「飛んだら手で持たせる」
レイラが答えると、男は短く頷いた。
「落とすなよ」
「落とさない」
背負い具ごと持ち上げられた生命維持嚢が、レイラの背に沿って収まる。
薄い箱形の主機に、脈と呼吸を見る管、簡易通電板、固定帯、薬液筒。
全部を積めば重い。飛べる重さに削った結果、できることも限られている。
死にかけた命を治す装置ではない。
ただ、白珠へ渡すまで落としきらせないための嚢だ。
肩紐が締まる。
胸前で交差する留め金が鳴る。
整備員が脇の接続子を差し込み、淡い灯が一度、二度、頼りなく明滅した。
「……灯が弱いな」
別の整備員が呟く。
「起動中だろ」
「いや、遅い」
その言葉のあと、ほんの半拍遅れて、主機の端に青白い線が細く走った。
息を吹き返した、というより、目を開けるのを渋っているような灯り方だった。
レイラは肩越しにそれを見もせず、腰の布包みを確かめる。
固定布、予備の覆い、洗浄筒。
最低限だけ。
足りないものは現場で諦めるしかない。
格納具の横では、カナタがオートメガネウラの脚まわりを見ていた。
節の付け根、爪の開閉、補助索の張り。
あれが空へ上がる脚であると同時に、
泥や飛沫を拾って戻る脚でもあることを知っている目だった。
「低く入りすぎるなよ」
「分かってる」
「暗渠側は取るな。白珠裏から入って、そのまま持ち上げろ」
「取れるならそうする」
レイラが返し、吊り具の下へ潜る。
整備員が腹帯を引き、機体側の固定具と彼女の支持具を噛ませた。
金属が合う、小さく硬い音がした。
オートメガネウラの複眼灯が、闇の中でひとつずつ淡くともる。
完全な生きものではない。
だがただの荷車でもない。
匠一が組み、整備班が癖を覚え、乗り手が身体で慣らした結果、
ようやく飛ぶものになった機械だ。
前肢が少し持ち上がる。
腹の下で風切りの羽組がゆっくり開き、薄膜が夜気をひやりと弾いた。
「起こすぞ」
整備班が一声かけ、横木が外される。
機体が体重を移し、脚先で地を探る。
鳴きはしない。
ただ、節と索と薄膜が擦れ合う音だけがして、それが妙に生きものじみて聞こえた。
レイラは前に身を預け、手綱ではなく姿勢で機体へ合図を送る。
脚がひとつ、またひとつと組み替わり、吊り具の影からオートメガネウラが抜け出した。
その時だった。
白珠の方角から、短い笛が二つ鳴った。
間を置かず、もう一つ。
長くはない。
だが迷いのない吹き方だった。
現場からの急変合図だ。
レイラの背で、生命維持嚢の灯がひとつ強くなった。
気のせいではない。
誰かが後ろから叩いて起こしたように、遅れて機嫌を直した灯りだった。
「来たな」
カナタが低く言う。
「子どもか」
「たぶん」
「行け。上げてから触れ」
「分かってる」
レイラは機体の首を白珠へ向けた。
オートメガネウラが脚を縮め、次の瞬間、地を蹴るというより、離した。
大きく跳ねるでもなく、重みを剥がすような上がり方だった。
二度、三度と短く脚を返し、風を掴む。
薄膜が夜の湿りを払って、低い高さで機体が前へ滑った。
地面が少しずつ遠のく。
ほんの人一人ぶん、家一軒の軒先を越えられる程度。
高くはない。
だが歩いて届く高さではもうなかった。
下を流れる封鎖線は暗い。
切られた水路、泥の縁、打ち込まれた杭、張られた布。
上から見ると、人が夜の地面へ細い意志を一本通した跡みたいだった。
その外側に、小さな光がばらばらに動いている。
歩哨、伝令、洗い場、見張り。
地上はまだ止まっていない。
白珠の裏手が見えた。
戸口の前に灯りが三つ、慌ただしく揺れている。
一人が寝台の端を押さえ、もう一人が肩を支え、
もう一人が戸口の敷居で行く手を塞いでいた。
寝かされているのは小柄な子どもだった。
身体を起こしかけるたびに、まっすぐ裏口の外へ向こうとする。
暴れているわけではない。
ただ、行かなければならない場所がそこにあるような動き方だった。
レイラは機体を寄せる前に、一度だけ上で円を描いた。
風向き、足場、逃げ道。
戸口の前は狭い。
しかも濡れている。
飛び降りれば支えられる。
だが降りた瞬間に、自分の足も地上へ取られる。
だから先に、上から持ち上げられる形を作る。
「裏口、聞こえる?」
降下しながらレイラが叫ぶと、下の女が顔を上げた。
白珠の補助員だ。
「聞こえる!」
「抱かせないで、布を通して! 脇じゃなく胸と腰!」
「もうやってる!」
声に切迫はあるが、崩れてはいない。
いい。まだ渡せる。
オートメガネウラの脚先が、戸口脇の石塀へ軽く触れた。
完全着地ではない。
片脚だけ預け、あとは羽で持つ。
機体が嫌なふうに震えたが、保った。
レイラは降りきらない。
鞍の位置を半分だけ外し、身体を吊ったまま下へ伸びる。
腰の布包みから固定布を抜き、ひと振りで広げた。
その時、子どもが急に咳きこんだ。
赤黒いものが口端から糸を引いて落ちる。
支えていた補助員が息を呑み、半歩だけ引いた。
「引くな!」
レイラの声が飛ぶ。
怒鳴り声ではない。
だが相手の脚をその場へ打ち留める硬さがあった。
「目ぇ逸らさないで、腰持って! こっちへ傾ける!」
布が子どもの胸を回る。
もう一端を腰へ。
直接抱かない。
挟む。
支える点を増やす。
身体の向きを水のある外ではなく、上へずらす。
子どもの目は半分開いていた。
焦点は甘い。
だが完全に落ちてはいない。
呼びかければ返るか返らないか、その境目にいる。
「聞こえる? 今から持ち上げる。落とさない」
返事はない。
代わりに、喉の奥がひくりと鳴った。
レイラは布の張りを確かめ、片手で胸前の留めを叩く。
背の生命維持嚢が応じ、細い灯が走った。
管の先を首筋へ入れる時間はない。
今は通電と呼吸の監視だけでいい。
落ちる徴候を拾えれば、それで十分だ。
だが次の瞬間、灯がひとつ、ふっと消えた。
「……っ」
完全停止ではない。
けれど一系統、死んだ。
背でかすかに警告音が鳴る。
短く、嫌な高さの音だった。
下の補助員の顔が強ばる。
だがレイラは表情を変えない。
「大丈夫。持ち上げる」
言って、自分にも言い聞かせる暇なく、布ごと子どもの重みを引いた。
補助員たちが下から押し上げる。
オートメガネウラが軋んだ。
脚先の石が削れる。
機体が一度、落ちかけるように沈み、それから持ち直した。
子どもの身体が戸口の敷居を離れる。
足先が空を切る。
その瞬間、それまで裏口の外へ外へと向かっていた力が、ほんの少しだけ鈍った。
完全に消えたわけではない。
だが地を失ったことで、引かれる向きが迷った。
歩いて行けない身体になった途端、水へ向かう意志みたいなものが一拍遅れる。
「今」
レイラが低く言い、補助員が手を放す。
布と固定帯とレイラの腕、そして半分死にかけの機械が、その小さな身体を受け止めた。
重い。
子ども一人なのに、装備ごとのしかかると途端に機体が嫌がる。
背で警告音がもう一度鳴る。
通電板の片側は死んだままだ。
それでもレイラは、布の角度を変えた。
子どもの顔を胸側へ寄せ、水のある外ではなく、自分と機体の内側へ向ける。
「白珠へ戻す。正面開けて」
「戻すって、どこへ」
「上から入れる。裏はだめ」
裏口は水気に近い。
戸口の向こうにある引きが切れていないなら、そこから離すべきだった。
レイラは機体へ合図を送る。
オートメガネウラの羽組が震え、石塀から脚を離した。
沈む。
だが落ちない。
もう一度だけ風を噛み、今度は建物の角に沿ってゆっくり高度を取り直した。
背の装置が、遅れて脈を拾う。
不安定だ。
飛ぶか飛ばないかの線を何度も跨いでいる数字だった。
まともじゃない。
だがゼロではない。
「まだある」
レイラは誰にともなく呟いた。
自分へか、機械へか、腕の中の子へか、分からないまま。
下では白珠の者たちが正面へ走る気配がする。
灯りが回る。
呼び声が交差する。
地上の足が、空の一機に合わせて導線を組み替えていく。
封鎖で水を切った。
空へ上げて、人を水から離す。
それでも血は付くし、機械は死にかけるし、間に合わない命もある。
だが今は、まだ落としていない。
オートメガネウラは建物の正面へ回り込み、開け放たれた窓際へ低く寄った。
内側には担架と白布が待っている。
蘇静ではない、白珠の下働きたちだ。
それでも受ける手つきに迷いはない。
もう教わった。
もう見た。
もう今夜じゅうに覚えるしかない。
「受けるよ!」
「胸から。首、折らないで」
「分かってる!」
布ごと渡す。
直接は触れない。
固定帯を切るのは中へ入ってから。
レイラは最後まで布の張りを離さず、向こうの手に重みが完全に移ったのを確かめてから、
ようやく指をほどいた。
子どもの足が窓枠を越えて消える。
白い布がそのあとを追う。
中で誰かが、湯と灯りを、と叫んだ。
レイラはその場で息を吐こうとして、うまく吐けないことに気づいた。
背の生命維持嚢が、今さらみたいに短く震える。
警告音はもう鳴っていない。
鳴る力も切れたのかもしれなかった。
眼下で、建物の裏手へ向かう別の灯りが動く。
一人ではない。まだいる。
窓辺から身を乗り出した補助員が叫んだ。
「もう一人、裏に寄ろうとしてる!」
レイラは答える前に、機体の首を返した。
夜の湿りの向こうで、切ったはずの水がまだ細く鳴っている。
その音から、今夜じゅうに何人離せるか。
まだ、終わっていなかった。




