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見難い火傷の子  作者: 清風
692/703

水から離す

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子692


水から離す


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


夜気は少しずつ冷え始めていた。

封鎖を受けた水路は、さっきまでのざわつきが嘘のように静まり返っている。

静まり返っている、はずだった。


音がないわけではない。


水はまだいる。

見える流れを失っただけで、暗い土の下、石の継ぎ目の奥、割れた管の腹の中で、

行き場を失ったものが細く鳴っている。

耳を澄ませば、止まったというより、押し殺されているだけだと分かる音だった。


カナタはしゃがみこんだまま、指先で泥の縁を軽く押した。

湿りが返る。

表は乾き始めているのに、少し剥げば下はまだぬめる。

三点で締めたことで表層の走りは切れたが、奥は死んでいない。


「……切れたのは上だけだな」


独り言のように言うと、少し離れたところで同じように水際を見ていたレイラが顔を上げた。

防護外套の袖口を締め直していた手が止まる。


「白珠のほうも、静まったって顔じゃなかった」


「あっち、また出たか」


「出たっていうより、出かけたがった」


レイラは短く答えた。

言い方が妙だった。

だが妙だからこそ、今の事態には合っていた。


歩き出した、ではない。

逃げた、でもない。

出かけたがった――自分の足で、自分の意思らしい顔をして、

水のある方へ寄っていこうとした者がいたのだ。


「二人?」


「一人は廊下で止めた。

もう一人は裏の戸口まで。

走ってはいない。

けど、呼んでも振り向きが遅かった」


レイラはそこで少し黙った。

黙ったまま、腰の横に提げた細い包みへ手をやる。

固定布の収まった包みだ。

無意識に位置を確かめる癖がある。


「足運びが変だった。転ぶ前の歩き方してた」


カナタは泥から手を離した。

レイラがそう言う時は、ただふらついていたという意味ではない。

どこに重みが逃げているか、どこで膝が折れるか、その先まで見ている言い方だった。


「熱か、渇きか」


「両方かもしれない。けど、それだけじゃない」


風が抜けた。

封鎖点の杭に結ばれた布が、かすかに鳴る。


レイラは夜目の利く者みたいに白珠の建物のほうを見た。

実際には何も見えない距離だが、

そこにいる者の崩れ方をまだ指先で覚えているような目だった。


「抱えた子の袖、濡れてた」


「水?」


「……血と、たぶん他も混じってる」


カナタの顔つきが変わる。

レイラ自身の外套には、暗い飛沫の跡が二つ、小さく固まりかけていた。

彼女は気づいている。気づいたうえで、まだ脱いでいない。


「触ったのか」


「布を挟んだ。直接は掴んでない」


答えながら、レイラは外套の表層だけをつまんで少し浮かせた。

怪異防護用の外層布だ。

浸み込みにくく、洗い流しやすい。

だが無敵じゃない。

継ぎ目もあるし、裂ければ終わる。

さっきまで白珠の裏手で子どもを支えていた時、袖に何が触れたかまでは保証できなかった。


「乗る前に替えろ」


「分かってる」


そう言ってから、レイラは少しだけ口を結んだ。

その返事は、自分に言い聞かせるみたいでもあった。


今はまだ乗っていない。

だからこそ問題がある。


徒歩で寄れる範囲にいる者を、徒歩で止め続けるには限界が来る。

封鎖で表の流れを切ったぶん、引かれる先を失ったものが別の形で滲み出す。

白珠の中へ、裏手へ、暗渠から少し離れた水たまりへ。

地面の上にいるかぎり、それを一つずつ腕で返さなければならない。


「上、使うか」


カナタが言った。


レイラはすぐには答えなかった。

その代わり、防護外套の前を片手で押さえたまま、

封鎖線の向こう――暗渠口のある暗がりを見た。


「使いたい」


それは願望ではなく判断だった。

使えるならそうする、ではない。

もう地上だけでは持たない、の声だった。


「でも、まだ近い」


「近いな」


暗渠口の赤は続いている。

表層水が止まっても、奥で何かが死んだ気配はない。

むしろ行き場を変えている。

こういう時に低く入りすぎれば、

水面から返る気配も、噴いた泥も、何を拾うか分からない。


レイラは肩を回した。

外套の下、背で留めている支持具がわずかに鳴る。

まだ本格の飛行装備ではない。

だが生命維持嚢を接続するための受け具は、もう常につけるようになっていた。

重い。

邪魔だ。

狭い場所では身体の返しが半拍遅れる。

それでも下ろしていないのは、必要になった時に間に合わなくなるからだ。


「白珠の子、次に落ちるなら早い」


「心肺か」


「そこまでは行ってない。けど行く時は、一気」


レイラの声は低い。

医者の断定ではない。

現場で何度も、落ちる手前の呼吸を見てきた者の声だった。


「上げれば少し切れると思う」


「地面からはな」


「うん」


「でも、触れば別だ」


今度はレイラが頷いた。

血や体液の付着が感染を運ぶなら、空は避難圏ではあっても清浄圏ではない。

地を歩く身体を飛ぶ身体へ移し替えられても、抱えた瞬間に別の危険が乗る。


「だから、私が行く」


その言い方に気負いはなかった。

自分が勇敢だから、ではない。

接触手順を知っている者が行く、というだけのことだった。


カナタは少しだけ眉を寄せた。


「一人で抱えるな」


「抱えない。布を使う。固定して、乗せるまで持たせる」


「機械が持てばな」


「持たなくても落とさない」


即答だった。


それでカナタは、ようやく少しだけ息を吐いた。

そうだ。

レイラはそういうやつだ。

装置があるから助けるんじゃない。

装置が死んでも、次の手で繋ぐことを前提に前へ出る。


夜の底で、どこか小さく金属が鳴った。

詰め所のほうだ。整備班が格納具を起こした音かもしれない。

まだ命令は降りていない。

だが誰もが、次に何を出すべきか薄々分かり始めている音だった。


封鎖で水を切った。

次は、水から人を切り離さなければならない。


レイラは袖口の留めをもう一度締め、暗い外套の上から胸元を軽く叩いた。

それから、白珠のほうを見たまま言う。


「先に一機、起こして。低空だけでいい」


カナタは立ち上がった。泥が靴裏から鈍く剥がれる。


「レイラ」


「なに」


「今度は、落ちる前に拾え」


レイラは一拍だけ黙って、

それから短くうなずいた。


「そのための翼でしょ」

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