水を切る
見難い火傷の子691
水を切る
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
張良が暗渠口へ着いた時、匠ーはもう二度目の説明に入っていた。
一度目は岳震へ。
二度目は走って戻ってきた伝令へ。
そして今、三度目を張良とカナタへ向けている。
「赤はここだけじゃない。
口の左で黄、板の裏で赤へ切り替わった。
索状部が一度出て、板の位置へ寄った。
あと、外縁に抜け殻の筋がある。
中にいるだけじゃない。出入りしてる」
張良は暗渠口を覗き込まず、まず周囲を見た。
道の幅。
石組みの高さ。
上から流れてくる細い筋。
人が立てる場所と、立たせてはいけない場所。
「叩いた音は」
「一度だけ」
「板か」
「たぶん。
でも流れ当たりじゃない。
触る場所を選んでる」
カナタはそこでしゃがみ込み、匠ーが避けたのと同じ場所へ視線を落とした。
暗渠口へ吸われる水は細い。
だが、周囲の湿り方が一定ではなかった。
右側は乾きすぎている。
左側は泥が薄く延びている。
その差が、目で見るよりはっきり地面に出ていた。
「戻ってる」
誰にともなく言って、指で地面の白土印をなぞる。
「水だけじゃない。
上から来たのがそのまま落ちてるなら、ここはもっと均一に濡れる。
でも左にだけ擦れてる。
中からも触ってる」
岳震が眉をひそめた。
「じゃあ、ここを塞いでも」
「別へ回る」
匠ーが答える。
カナタもうなずく。
「塞ぐなら口じゃない。
来る前を切る」
張良が二人を見る。
「切れるか」
カナタは立ち上がり、水路図の写しを開いた。
夜露で紙が柔らかくなっている。
だが、白土で打った印と、セレネ・アストラが写した杭・板・縄の位置はまだ読めた。
「宿舎裏の板。
炊き出し場の戻り筋。
それと井戸脇の古い分岐。
三つあります」
「全部か」
「一つだけだと押し返されます。
二つでも、逃げます。
三つ同時なら、水の道が細る」
張良は答えず、紙から暗渠口へ目を移した。
そのわずかな沈黙の間にも、水は流れている。
止まっていない。
つまり向こうも、生きている。
「同時にやる」
岳震がすぐに後ろを振り返る。
「人が足りるか」
「足りなければ、足りる形に切れ」
張良は短く言った。
「ここへ余計に置くな。
見る者だけ残せ。
手を使う者は宿舎裏と炊き出し場へ回せ」
岳震が隊員を呼ぶ。
灯りの陰から三人、さらに二人。
封鎖に当たっていた者たちが走ってくる。
張良は指を折るように命じた。
「暗渠口は監視二人。触るな。
宿舎裏へ四人。
炊き出し場へ三人。
井戸脇へ二人。
残りは道を切れ。人を通すな」
「板を抜くのは誰がやる」
岳震が問う。
「俺が見る」とカナタ。
「宿舎裏から始める。
あそこを誤ると全部戻る」
張良はうなずき、伝令へ向き直った。
「本部へ走れ。
セレネ・アストラに伝えろ。
封鎖は三点同時。
記録欄を分けろ。
宿舎裏、炊き出し場、井戸脇、暗渠口。
時刻を揃えて受けるように」
伝令はすぐに踵を返した。
匠ーが一瞬だけ目を上げる。
報告を受ける場所が、もう次の判断の形へ切り替わっている。
会議で決めた中継基点が、ちゃんと生きていた。
*
宿舎裏へ戻る道すがら、カナタはほとんど前しか見ていなかった。
灯りで足元を照らされるたびに、湿りの残り方と泥の割れ方だけを拾っていく。
「ここは踏むな」
「そっちは沈む」
「白土が消えてる方へ寄れ」
後ろの隊員たちは、理由を聞かず従った。
説明されても分からない類の判断だと、声の調子で知れたからだ。
宿舎裏の浮石へ着くと、岳震が左右へ人を散らした。
誰かが近づきすぎれば、それだけで崩れる。
誰かが慌てれば、それだけで水を呼ぶ。
カナタは石の脇へしゃがみ込む。
昼より流れは細くなっている。
だが消えてはいない。
「二本目だけ抜く」
確認するように自分で言い、白土の印を指した。
「一本目は土台。
触るな。
縄が張ったら、すぐ手を放せ」
杭抜きの鉤が差し込まれる。
木がきしむ。
ほんの少し動く。
その時、石の下で水音が急に高くなった。
「止めろ」
カナタの声で全員の手が止まる。
耳を澄ます。
流れは切れていない。
だが向きが変わった。
下へ落ちていた音が、横へ擦れる音に変わっている。
「今だ。半分」
鉤がもう一度引かれる。
杭が半寸抜ける。
途端に、浮石の下からあふれていた筋が細くなった。
岳震が道の先を見る。
「減った」
「まだ」
カナタは即答した。
「炊き出し場が先に返す」
*
その頃、炊き出し場では泥の戻り筋を挟んで、隊員たちが板を構えていた。
人を近づけないためではない。
流れを横へ逃がさないためだった。
張良が着くと、白珠の補助役の一人が待っていた。
手には、セレネ・アストラから回された更新紙がある。
「宿舎裏、杭一本半。流量やや減。
井戸脇、これから着手。
患者班より、水を欲しがる者二名追加」
張良は紙を受け取り、すぐ岳震へ渡した。
「時刻が揃ってる」
岳震が短く言う。
「揃えさせた」
張良も短く返す。
紙一枚で、離れた場所の動きが同じ時刻の上に乗る。
現場にいる者ほど、その意味は大きい。
カナタが追いつく。
排水脇の地面を一目見て、すぐ板の位置を決めた。
「ここは抜かない。
押し上げる」
「抜かない?」
隊員が戸惑う。
「抜くと一気に返る。
下にまだ残ってる。
こっちは隙間だけ作る」
彼は細い棒を取り、泥の縁へ差し込んだ。
押す。
戻す。
押す。
三度目で、泥水の表面に細かな泡が連なった。
流れが、横へ逃げる。
その先へ待たせていた板が差し込まれ、即席の堰ができる。
「今」
二人が同時に板を押し込む。
泥水が跳ねる。
だが戻り筋はそこで折れ、炊き出し場から離れるように向きを変えた。
張良はそれを見て、すぐに記録役へ命じる。
「時刻」
「打ちました!」
「井戸脇へ送れ。
宿舎裏も続けさせろ。
今なら噛み合う」
*
井戸脇の古い分岐は、いちばん見えにくかった。
表から見れば、ただの踏み固められた地面にしか見えない。
だが、石の並びが半端で、片側だけ苔が薄い。
カナタのいない場所では、誰もそこを水路だと思わなかっただろう。
そこへ着いていた二人の隊員は、まだ手をつけずに待っていた。
命じられていたからだ。
分からない所ほど、勝手に触らない。
後から追いついた岳震が、まず周囲を見回す。
人影なし。
水音は小さい。
だが小さいから安全とも限らない。
少し遅れて届いた紙には、セレネ・アストラの細い字でこうあった。
宿舎裏 減少
炊き出し場 折返し成功
井戸脇 着手待ち
暗渠口 赤持続
岳震は紙を折り、隊員へ渡した。
「見ろ。
今しかない」
そこへカナタも追いつく。
息は上がっていたが、言葉は短かった。
「石を一枚返すだけでいい。
下を開けるな。
逃がすだけ」
二人が棒を差し入れ、平たい石の端を浮かせる。
泥が垂れる。
次いで、細い水が一筋、井戸脇から外れた草地へ走った。
止まっていた水ではない。
迷っていた水だった。
それが道を得た途端、宿舎裏から伝令の声が飛んだ。
「止まりました!」
続いて炊き出し場の方からも。
「こっちも引いてる!」
岳震はようやく息を吐いた。
だがカナタは、まだ地面を見ていた。
「完全じゃない」
「何だ」
「流れは切れた。でも、中は残ってる」
その言葉の意味を確かめるように、遠く、暗渠口の方角で笛が二つ鳴った。
水。
岳震が顔を上げる。
張良も、少し遅れてそこへ着いた。
報告はもう道で聞いている。
宿舎裏減少。炊き出し場折返し。井戸脇解放。
数字ではなく、流れとして繋がる報告だった。
「切れたか」
「表は」
カナタが答える。
「でも奥が残ってる。
今、水が動き直した」
張良は暗渠口の方を見る。
夜の向こうで見えないはずの場所が、今ははっきり重さを持って感じられた。
「なら次は、中を飢えさせる」
岳震が問い返す。
「水を断つのか」
「そうだ。
人を切り離し、水路を切り、残ったものを浮かせる」
匠ーの赤反応。
白珠の患者選別。
カナタの流路変更。
岳震の封鎖線。
それぞれ別の手で始まったことが、ここでようやく一つの形になる。
張良は命じた。
「今夜は戻らせるな。
井戸も、炊き出し場も、宿舎裏も、朝まで封鎖を維持。
暗渠口は監視を続ける。
白珠には、水を欲しがる者の動きが変わるか見させろ。
匠ーには次の赤の移り先を洗わせる」
岳震がうなずき、隊員へ走らせる。
カナタは井戸脇の草地へ逃がした細流を見ていた。
ほんの少しずつだが、流れの向きは確かに変わっている。
それでも、安心にはほど遠い。
切ったのは水路だ。
まだ、水そのものではない。
張良は更新紙の余白へ、自ら短く書きつけた。
三点封鎖 成
暗渠口赤 継続
次段階 水断ちへ移行
その紙は、すぐに本部へ走る者の手へ渡る。
セレネ・アストラが受け取れば、壁の記録はまた更新されるだろう。
散った判断が、もう一度一つの壁へ戻る。
そうしてようやく、次の手が間違わずに出せる。
夜気はさらに冷えていた。
だが、湿りを帯びた風の匂いは、さっきまでと少し違う。
流れが変われば、匂いも変わる。
カナタだけが、それに先に気づいていた。
「……腐り水が下がった」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、その一言で、封鎖がただの気休めではなかったことが初めて分かった。
遠く、見えない暗渠の奥で、また何かが木を擦るような音を立てた。
だが今度は、それがこちらへ近づいてくる音ではなかった。
水を失ったものが、行き場を探している音だった。




