暗渠口
見難い火傷の子690
暗渠口
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
暗渠口へ向かう道は、昼より狭く見えた。
夜のせいだけではない。
片側の斜面は昼の雨を吸って重く沈み、もう片側には、
逃がしきれなかった水が細い筋を残している。
踏み外せば足を取られる。
だが、中央だけは妙に乾いていた。
人が何度も通った道よりも、もっと不自然に。
匠ーはそこで一度だけ足を止めた。
先を行くオートマタの肩灯は青い。
頭部の導視眼が、左右へ細かく振れている。
灯りは抑えてあった。
見張りへ余計な合図を送らないためでもあり、水面へ反射を散らさないためでもある。
「速度そのまま。
右は拾うな。
先に口を見る」
低く言うと、機体は歩幅を変えずに進んだ。
後ろには補助役が一人ついていた。
背負子に交換板と採水具、油紙で包んだ乾いた布、細い杭を差している。
そのさらに後ろ、少し距離を置いて、岳震が二人だけ連れて歩いていた。
近すぎれば視界を塞ぎ、遠すぎれば手が足りない。
そのぎりぎりの距離だった。
暗渠口は、斜面の陰に半ば埋もれるように口を開けていた。
古い石組みの縁は水を吸って黒ずみ、上を渡る木の板は湿って艶を持っている。
昼に見た時より、穴そのものが深く見えた。
闇が落ちたからではなかった。
そこへ続く水だけが、ほかよりもわずかに速い。
吸い込まれているのだと、目で分かった。
匠ーは手を上げて止まらせた。
「灯り、左へ」
補助役が覆いを絞った灯りを差し出す。
石組みの縁、流れの筋、板の裏。
水面だけを飛ばさない角度を選んで照らすと、オートマタの導視眼が一度だけ強く明滅した。
肩灯が、青から黄へ変わる。
誰もすぐには声を出さなかった。
匠ーだけが一歩出る。
「位置」
補助役が息を詰めたまま答える。
「暗渠口、正面左寄り」
「記録」
板へ走る筆の音がした。
黄。暗渠口左寄り。初回変化。
匠ーは機体の胸部へ手を添え、検知核の震えを指先で確かめた。
強い。
だが跳ねてはいない。
一点に濃くあるというより、薄いものが重なっている反応だった。
「採水針」
前腕の細い機構が、小さな音を立ててせり出す。
「浅く」
機体が膝を折る。
針先が水面へ触れ、わずかに沈む。
底泥までは届かせない。
表層の流れだけを拾わせる。
引き上げた針先には、透明ではない薄い膜が張っていた。
泥の色ではない。
灯りの下で、ぬめりが遅れて光る。
匠ーは眉を寄せる。
「布」
補助役が差し出した黒布へ、針先の採取物を落とす。
水だけなら広がる。
だが、落ちたものは一瞬丸く留まり、それから布目に沿って細く裂けた。
岳震が後ろから問う。
「出たか」
「まだ薄い」
匠ーは答えた。
「水そのものじゃない。
混じってる」
そう言ってから、暗渠口の石縁へ視線をずらす。
水が長く触れている部分に、白く乾いた筋が残っていた。
塩ではない。
泥の引き際とも違う。
薄い被膜が、剥がれて縁へ貼りついたような跡だった。
オートマタの肩灯が、もう一度だけ明滅する。
黄のまま。
だが今度は、正面ではなく、少し右へ振れた。
匠ーは顔を上げた。
暗渠口の脇、半ば崩れた土の際。
昼にはただの根の影にしか見えなかった部分に、黒い線が一本ある。
動いてはいない。
少なくとも、そう見える。
「そこ」
岳震の後ろにいた隊員が思わず身を乗り出しかける。
岳震の腕が、その胸を無言で押し止めた。
匠ーはしゃがまず、上から見下ろす角度を避けるように位置をずらした。
横から見る。
流れと平行に。
黒い線は、石の隙間から出ているのではなかった。
縁へ貼りついている。
細い。
だが、先端だけがわずかに太い。
泥の塊のようにも見えた。
「灯り、落とすな。寄せるな」
補助役の手が止まる。
次の瞬間、黒い先端が、ひく、と持ち上がった。
誰かが息を呑む。
それは石の縁を探るように半寸ほど進み、空を掻くように一度だけ揺れた。
そして、水へ戻ろうとはせず、今度は板の裏へ向かった。
匠ーの声が低くなる。
「記録。
索状部、露出。
縁接触。
上向き移動」
筆が追う。
オートマタの肩灯が、黄の中で赤く脈打った。
完全な赤ではない。
黄に赤が混じる、切り替わる手前の不安定な色だった。
「下がれ」
岳震が言うより早く、匠ー自身が半歩退いた。
その判断は早かったが、逃げ腰ではなかった。
距離を測るための後退だった。
黒い線は、板の裏へ触れたところで止まる。
叩くような動きはしない。
ただ、そこにあるものを確かめるように、ぴたりと付いていた。
匠ーは目を細めた。
「……板の位置を知ってる」
岳震が聞き返す。
「何だと」
「偶然当たったんじゃない。
探ってるんでもない。
そこへ行ってる」
言葉にした瞬間、オートマタの肩灯が赤へ切り替わった。
はっきりとした赤だった。
補助役の喉が鳴る。
だが匠ーは機体ではなく、水を見ていた。
暗渠口の表面が、風もないのに細かく揺れている。
下から押し上げているのではない。
違う。
狭いところへ、細いものが幾筋も擦れている。
そういう揺れ方だった。
「採泥はやめろ」
「はい」
「記録板、赤へ差し替え。
位置そのまま。
時刻を二重に打て」
補助役が慌てて板を替える。
セレネ・アストラが分けた束の中から、赤反応用の板だけがすぐに抜き出された。
混ざっていないから迷わない。
こういうための仕分けだった。
匠ーは、赤灯のまま静止するオートマタを見た。
感度は拾っている。
だが、まだ粗い。
どこが濃いのかは分かっても、何がどれだけいるかまでは切れない。
「岳震」
「何だ」
「ここは触るな。
封じるなら上と横だ。
口をいじると散る」
岳震は暗渠口を見たまま、短くうなずく。
「カナタを寄せる」
「いや、まだ呼ぶな」
匠ーは即座に言った。
「先に周りを洗う。
こいつが赤を出した場所だけじゃ足りない。
来てる筋を切らないと、意味がない」
岳震は一瞬だけ黙り、それから隊員へ顎を振った。
「見張りを一人戻せ。
張良に伝えろ。
暗渠口、赤。
索状部露出。
口はまだ触るな、と」
隊員が走る。
匠ーは暗渠口の右脇へ回った。
踏む場所を選ぶ。
乾きすぎた地面は逆に疑わしい。
湿りの残る縁を避け、草の寝ていない所へ足を置く。
オートマタがそれに追随する。
肩灯は赤のまま。
「待て」
匠ーは機体を止め、地面へ視線を落とした。
細い。
だが、あった。
泥の上を横切る、ごく浅い線。
縄を引いた跡に見えなくもない。
だが途中で消え、少し先でまた現れる。
重いものを運んだ線ではない。
濡れたものが触れて離れた、その繰り返しだった。
しゃがみ込み、指先ではなく木片で縁を払う。
出てきたのは、擦れた薄皮だった。
半透明で、内側は空。
昼に床下で見た淡い帯と、同じ質だった。
匠ーはそれを見たまま言う。
「抜け殻の筋が外まで来てる」
岳震の声が落ちる。
「じゃあ、中だけじゃないのか」
「中から出てる。
いや……違うな」
匠ーは言い直した。
「出入りしてる」
その時、遠くで笛が一つ鳴った。
見張り道の方角だった。
岳震が振り返る。
だが、匠ーは動かなかった。
暗渠口の赤は、まだ消えていない。
板の裏へ触れた黒い索状部も、水へ戻ったきり姿を見せない。
それでも、いる。
むしろ見えない今の方が、密度は濃いと感じられた。
匠ーは低く言う。
「記録。
抜け殻様被膜、暗渠外縁で確認。
出入り痕の可能性」
補助役の筆が追いつかず、一度止まる。
岳震が代わりに復唱した。
「抜け殻様被膜。出入り痕」
それでようやく筆が動いた。
匠ーはオートマタの肩へ手を置いた。
赤灯が、掌のすぐ上で静かに燃えている。
「次、右の排水筋」
暗渠口だけを見ていては足りない。
そこへ来るものを追う必要がある。
この赤は終点ではなく、通過点だ。
そう判断した時、暗渠の奥で、こつ、と小さな音がした。
木を叩くような音だった。
誰も動かなかった。
二度目はない。
水の擦れる音だけが戻る。
だが匠ーは、その一度で十分だと思った。
板の向こうに、いる。
しかも、水に流されて当たったのではなく、
叩く場所を選んで触れている。
「……残したな」
「何をです」
補助役が思わず聞き返す。
匠ーは暗渠口を見たまま答えた。
「合図だ」
その言葉の意味を、誰もすぐには飲み込めなかった。
だが、赤い肩灯の下で黒い水が静かに流れているのを見ると、
否定する方が難しかった。
今この場に必要なのは、踏み込むことではない。
記録し、繋ぎ、切る場所を間違えないことだ。
匠ーは最後に一度だけ暗渠口を見てから、身を翻した。
「戻る。
張良とカナタに先に見せる」
「封じないんですか」
岳震の問いは責める調子ではなかった。
確認だった。
匠ーは赤灯のままのオートマタを振り返る。
「封じるなら、ここだけじゃ遅い。
こいつらは通ってる。
通り道ごと押さえないと、別の口から出る」
岳震は短く息を吐いた。
「分かった。
なら道ごと閉じる」
その答えを聞いて、匠ーはようやく歩き出した。
オートマタが続く。
赤い灯が揺れ、暗渠口の石縁をかすめて遠ざかる。
背後ではまだ、水が流れていた。
細く、絶えず、何事もなかったように。
だがその下で、もう見えないものが確かに動いている。
それだけは、記録にも、人の目にも、はっきり残った。




