作戦開始
見難い火傷の子689
作戦開始
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
会議の空気は、解散の声を待たなかった。
張良の指示が最後まで言い切られる前から、部屋のあちこちで人の動く気配が立ち上がっていた。
決められた方針が、もうそれぞれの手順へ分かれ始めている。
白珠は壁から患者一覧と検分メモを抜き取ると、すぐに入口側へ向かった。
「熱の高い者から先に集めて。
水を欲しがった者、夜のうちに出歩いた者、手足に新しい擦過傷がある者は分ける。
自分で歩ける者と、支えて動かす者も分けて」
待っていた補助役たちが頷き、記録板と布、縄、煎じ薬の包みを抱えてあとに続く。
白珠は振り返らない。
もう彼女の頭の中では、会議の壁に並んでいた情報が、症状の順と診るべき順番に並び替わっている。
患者を怖がらせず、しかし水場から遠ざけるにはどう言うべきか。
隔離と保護の境目をどこで引くか。
足を止めるような迷いは、もう歩きながら処理している顔だった。
その背へ、セレネ・アストラが薄い紙束を差し出した。
「選別票です。
高熱、渇き、擦過傷、水辺への指向。欄は四つに分けてあります。
追加の発語欄も下へ」
白珠は受け取りながら一瞥し、短くうなずく。
「助かるわ」
「戻りの記録は、時刻だけでも入れてください。こちらで繋ぎます」
白珠は返事の代わりに、そのまま紙束を補助役へ渡した。
言われなくてもやる、という動きだった。
岳震は別の壁際で、すでに封鎖要員の名を呼び上げていた。
「槍はいらん。
長棒を持て。
板、縄、杭抜きの鉤、灯りを優先しろ。
斬るな、押し返せ。
人相の怪しいのを追う前に、水の筋へ入れるな」
「封鎖はどこからです」
「宿舎裏を先、次いで炊き出し場の排水脇、最後に井戸だ。
一本化した出入り以外は塞ぐ。
暗渠口は二人増やせ」
声を受けた者たちが散り、壁際に立てかけられていた板や長棒を次々と担いでいく。
戦の備えではない。
だが、岳震の出す指示には、戦場の陣を敷く時と同じだけの速さがあった。
相手が見える兵でなくとも、止めるべき線は引ける。
それを知っている者の声だった。
セレネ・アストラは、その横で封鎖班用の紙を二つに折って渡していた。
「進入禁止線は赤。
見張りとの共用点は青で打っています。
更新が出たら、戻さず伝令で」
岳震が紙を受け取り、ざっと目を通す。
「十分だ」
それだけ言って、もう次の名を呼んでいた。
カナタは水路図を壁から剥がすと、丸めもせず片手に持ったまま床へ膝をついた。
木片と炭でその場に簡単な見取りを描き、封鎖班の二人に短く説明する。
「板を抜くのはここから。
いきなりこっちを外すな、水が宿舎裏へ戻る。
先にこの細い筋を潰す。
杭は二本目だけ抜け。
一本目まで抜くと崩れる」
「夜目で分かるか」
「印を付ける」
彼はそう言って立ち上がると、道具箱から白土を掴み、水路図の要所に素早く印を打った。
その手つきには迷いがない。
水の動きは目で追うものではなく、癖で読むものだというふうに。
「俺が先に行く。
遅れるな。
流れを変えた跡は、流れに訊くのが一番早い」
そう残して、彼もまた戸口へ向かった。
その前へ、セレネ・アストラが細長い写しを差し出す。
「改変点だけ抜きました。
縄、杭、板、浮石の位置を別欄にしてあります」
カナタは受け取って、ほんの少し眉を上げた。
「……見やすい」
それが礼の代わりだった。
レイラは部屋の中央で見張り役を二つに割っていた。
井戸裏へ回す組と、炊き出し場脇へ伏せる組。
人数は少ないが、少ないなりに目の置きどころを絞っている。
「追うのは二の次。
見たら位置と時刻を残して。
姿があっても、単独で追い込まない。
合図を優先」
「合図は灯りですか」
「灯りは近すぎる。
笛を使う。
短く一つで影、二つで水、三つで人を呼ぶ」
彼女はそう言って、自分でも笛を確かめるように握った。
夜目の利く者の鋭さというより、暗がりの中で何を見落とすかを知っている者の言い方だった。
見つけるより、消える前に伝える。
その役に徹している。
セレネ・アストラは見張り班へ、時刻欄の大きい紙を渡した。
「姿だけでも残してください。
人影、水の戻り、患者の動き、全部同じ欄に入ります」
レイラは受け取りながら言う。
「同じ欄に?」
「あとで重ねます。ずれてる方が役に立つこともあるので」
レイラは一瞬だけ彼女を見て、それから口元をわずかに動かした。
「なるほどね」
匠ーは最後に残ったオートマタの前へ立った。
肩の符号灯、胸部の検知核、前腕の採水針、背の記録結晶。
ひとつずつ指で触れて確かめていく。
脇では補助役が小箱を開き、交換用の記録板と乾いた布、予備の細線具を整えていた。
その補助役の手元へ、セレネ・アストラが記録板の束を置く。
「反応点ごとに分けてあります。
赤、黄、採泥、採水、現場注記。
混ぜないで戻してください」
匠ーは一度だけそちらを見た。
「倍率環、三で止めろ。
夜露で曇ったらすぐ拭く。
採泥は浅く取れ、底まで突っ込むな。
濁りを拾いすぎる」
補助役が緊張した顔で頷く。
「肩灯の切り替えは」
「青は平、黄は要確認、赤は濃い。
赤が出てもそれだけで触るな。
必ず記録を残せ」
自分で言いながら、匠ーは一度だけ壁を見る。
赤印の打たれた三点は、もう図の上の印ではなくなりつつある。
白珠が向かう先であり、岳震が塞ぐ線であり、カナタが流れを追う筋であり、レイラが目を置く暗がりだ。
会議で決まった方針が、人の動きとして分解されていく。
その分だけ、機械に求められるものもはっきりする。
セレネ・アストラは、壁に残った原本を押さえ直していた。
持ち出すのは写し。
原本はここへ残す。
戻ってくる記録があるなら、最後にまた全部を重ねる場所がいる。
彼女はそのために残るつもりだった。
「……行けるな」
誰に向けたともつかないその声のあと、匠ーはオートマタの起動鍵を捻った。
低い駆動音が、胸の奥でひとつ息をするように鳴る。
肩灯が青く点り、頭部の導視眼が細く明滅した。
その光を見て、張良が入口から振り返った。
「匠ー」
「分かってる」
「分かってるならいい。初手は暗渠口だ。赤を一つずつ潰せ」
「潰すんじゃない。拾うんだ」
思わずそう返してから、匠ーは小さく息を吐いた。
張良は口元だけで笑ったようにも見えた。
「なら拾って、潰せる形にしろ」
それだけ言い残し、彼はもう外へ出ていた。
指示を出し終えた者から先に、自分の持ち場へ向かう。
張良自身も例外ではない。
その背を見ていると、この場に残っていた会議の気配まで、外の闇へ運ばれていくようだった。
部屋にはもう、準備の最後の音しか残っていない。
壁に貼られた紙が、まだ乾ききらない糊の匂いを放っている。
だが、その前を行き交っていた人影は、ひとり、またひとりと減っていく。
記録の壁だけが残され、決められたことは、それぞれ別の足で現場へ持ち出されていった。
白珠は患者のもとへ。
岳震は封鎖線へ。
カナタは水の筋へ。
レイラは見張り道へ。
匠ーはオートマタとともに、赤反応の最初の一点へ。
そしてセレネ・アストラは、残された壁の前に立つ。
空いた卓へ新しい記録板を並べ、戻ってくる報告の欄を先に作る。
時刻。場所。反応。採水。発語。移送。
散った情報が、戻ってきた時にまた一つへ戻れるように。
同じ方針の下で、全員が別々の暗がりへ散っていく。
それは退くようでも、ばらけるようでもなかった。
むしろ逆に、一つに定まった意志が、必要な数だけ手足に分かれていくようだった。
外へ出ると、夜気は冷えていた。
湿りを帯びた風が、宿舎裏の方から流れてくる。
遠くで誰かの呼ぶ声がし、別の方向で板のぶつかる乾いた音がした。
もう始まっている。
会議のあとではない。
会議そのものが、そのまま現場に形を変えて続いているのだ。
匠ーはオートマタを先に立たせた。
青い肩灯が、闇の中で小さく揺れる。
「前へ」
命じると、機体は迷いなく歩き出す。
その後ろを追いながら、匠ーは胸の内で同じ言葉を繰り返した。
見つけろ。
拾え。
残せ。
人が次に動ける形で。




