作戦会議
見難い火傷の子688
作戦会議
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
匠ーの説明が終わっても、誰もすぐには口を開かなかった。
胸部に検知核を増設されたオートマタは、灯りの下で静かに立っている。
肩の符号灯は今は消えていたが、その沈黙の方がかえって不穏だった。
見えないものを拾うための道具が、とうとう形になってしまったのだと、
その場にいる全員が理解していたからだ。
やがて張良が短く言った。
「貼れ」
待機していた者たちが、すぐに動いた。
丸められていた紙が広げられ、壁へ、柱へ、空いた板へと次々に留められていく。
その中心にいたのは、セレネ・アストラだった。
濡れた紙と乾いた紙を分け、重ねる順を決め、視線が一巡で繋がるよう位置を入れ替えていく。
匠ーの走査図は中央。
白珠の患者一覧はその右。
レイラの見張り記録は時刻線が照合できるよう隣へ。
カナタの水路図は下段に広げ、宿舎裏から炊き出し場までを一本の視線で追えるよう留め直した。
宿舎裏から炊き出し場へ抜ける簡易地図。
井戸、排水路、古い暗渠、杭と板の位置を書き込んだ水路図。
発熱者の名前と発症時刻、最後に水へ近づいた時間を並べた一覧。
白珠の検分メモ。
レイラの見張り記録。
カナタが走り書きした地面の湿り方と流れの癖。
導視顕像検知器で採った卵紐の拡大像。
泥と水の比較図。
オートマタ初回走査の反応点。
壁一面が、ばらばらに見えていた異変の欠片で埋まっていく。
セレネ・アストラは最後に、患者発語だけを抜いた細長い紙片を中央下へ差し込んだ。
『あけた』
『ふた』
『はずせ、って』
『みずが』
『板』
『抜くなって』
意味づけはまだしない。ただ、ほかの紙と照らせる位置に置く。
白珠は貼られた顕微像の一つに歩み寄った。
淡い被膜の中に、粒がほとんど一定の間隔で並んでいる。
「ただの泥筋ではありません」
彼女の声は静かだったが、よく通った。
「この被膜は生き物のものです。
繊維や藻の崩れ方ではない。
内部の粒も偏っていない。
産卵、もしくはそれに準じた構造と見ていいと思います」
岳震が腕を組んだまま問う。
「つまり、水路に巣がある」
「あるいは、水路そのものを通り道にしてる」
カナタは壁の別の紙、水路図の前に立っていた。
指先で青墨の線を追り、井戸脇から宿舎裏へ、さらに炊き出し場の排水溝へと結ぶ。
「水はここで曲げられてる。
自然に溜まる流れじゃない。
板と杭で向きが変えられてる箇所がある。
流したい先を知ってるやつの手だ」
「人の手ってことか」と岳震。
レイラが壁の端から声を挟んだ。
「見張り道で見た人影、出たのはその筋です。
井戸裏から消えて、炊き出し場の脇でまた出た。
同一かは断定できない。
でも時間は合う」
彼女が示したのは、時刻を書き込んだ見張り記録だった。
白珠の患者一覧と並べてみると、発熱者が水を求めていなくなった時刻と、
人影が現れた時刻が、不気味なくらい近い。
セレネ・アストラは二枚の紙の間へ細い線を引いた。
実線ではなく、薄い破線だった。
「時刻一致。因果未確定」とだけ脇へ添える。
匠ーはそれを一瞥し、何も言わなかった。訂正が入らないことが、そのまま了承だった。
匠ーはそれを見てから、壁の中央に貼られた初回走査図へ目を向けた。
赤い印が三つ、黄の印が五つ。
赤のうち一つは宿舎裏、もう一つは古い暗渠口、最後の一つは炊き出し場の排水脇だ。
「初号機の赤反応も重なってる」
「偶然ではないな」と張良。
誰も否定しなかった。
白珠は視線を落とし、患者一覧の下半分を見た。
熱、高い渇き、ふらつき、浅い擦過傷。
共通点は出ている。
だが全員が同じ段階ではない。
「まだ切り分けられます」
そう言ってから、彼女は振り返った。
「少なくとも、全員を同じ扱いにするべきではありません。
水辺へ向かおうとする衝動が強い者、熱が高い者、擦過傷が新しい者、
この三つが重なる者を優先して隔離すれば、見落としは減らせます」
セレネ・アストラはすぐに別紙へ三条件を書き出し、横に空欄を設けた。
この場の判断を、そのまま現場の選別票に変えるためだった。
岳震の顔が険しくなる。
「減らせる、か。ゼロではない」
「ゼロにはできません」
白珠は即答した。
「だから段階を踏むんです」
その言葉に、匠ーが低く続けた。
「こいつも同じだ」
彼は親指でオートマタを示した。
「断定はしない。
拾うだけだ。
赤が出たから終わりじゃない。
赤が出た地点を、人間が見落とさないために積んだ」
「見つけた後は誰が見る?」
張良が問う。
「患者は白珠。
水路はカナタ。
封鎖線は岳震。
見張り道はレイラ。
俺は装置の補正と記録を見る」
そこで匠ーは、壁の中央下に並べられた紙片へ視線を落とした。
患者発語の抜き書きだった。
その脇に立つセレネ・アストラが、必要なものだけを次の板へ写している。
「……セレネは照合と配布だ。
記録を散らすな。班ごとに渡せる形へ分けろ」
「はい」
返答は短かった。
だが、彼女はもう手を動かしていた。
患者班、封鎖班、見張り班、水路班。
見るべき紙が違う。必要な時刻も違う。
同じ情報を持たせればいいわけではない。
匠ーは間を置かず言った。
「最初からそういう前提で作ってる」
その言い方に、道具が万能ではなく、
最初から分業の中の一つとして設計されていることがはっきり出ていた。
張良は壁の前をゆっくり歩いた。
紙から紙へと視線を移し、最後に壁全体を見渡す。
そこに並んでいたのは、恐怖そのものではない。
地図、記録、観察、試作、見張り、仮説。
恐怖に食い込もうとする人の手だった。
まだ完全ではない。
だが、もう手探りだけではない。
「呼び名を決める」
その一言で、部屋の空気が締まった。
「現場では水引き虫で通せ。記録には誘水索虫と書け。呼び方が割れると命令も割れる」
紙端で控えていた書記役が、すぐに墨を取り直した。
セレネ・アストラも別紙の見出しを書き換える。
現場用には太い字で《水引き虫》。
保管用には小さく《誘水索虫》。
班へ回る紙で名がぶれれば、それだけで混乱が出る。
張良は続ける。
「優先は四つだ。
第一に生者を水から切り離す。
第二に排水路と暗渠を押さえる。
第三に遺体を速やかに処置する。
第四に、検知機で未確認地点を洗う」
岳震が口を開いた。
「封鎖線は広く取る。
宿舎裏、炊き出し場、井戸脇、それと暗渠口。
出入りは一本化だ」
「広すぎると人手を食う」とレイラ。
「狭すぎると漏れる」と岳震が返す。
そこでカナタが水路図に新しく一本線を引いた。
「ならこうだ。
水の筋に沿って切る。
人の通りじゃなく、水の通りを止める。
ここ、ここ、それからここ。
板を抜けば流れが変わる」
岳震が図を覗き込む。
「……できるな」
「やるなら夜のうちです」
白珠が言った。
「明け方は水を欲しがる者がまた出るかもしれない」
匠ーも頷いた。
「初号機はもう動かせる。だが雨が来たら像が荒れる。出すなら今のうちだ」
張良は決めた。
「よし。
白珠は選別班を組め。
岳震は封鎖班を出せ。
カナタは水路の改変点を先導しろ。
レイラは見張りを二手に分けて、井戸裏と排水脇に置け。
匠ーはオートマタを前へ出せ」
セレネ・アストラはその指示を待っていたように、紙束を四つに分けた。
選別班には患者一覧と三条件票。
封鎖班には地図と進入禁止線。
水路班には改変点の図と杭・板・縄の位置。
見張り班には人影出現時刻と視認地点。
匠ーの手元へは、赤反応点と患者発語の抜粋を残す。
短く区切られた指示が、壁の資料を一つずつ実動へ変えていく。
それでもなお、部屋の隅には言葉になりきらないものが残った。
遺体をどうするか。
生者のうち、どこまで助けられるか。
まだ姿を見せていない巣が他にもあるのではないか。
そういう重さだ。
張良はその沈黙ごと受け止めるように、最後に言った。
「推測は後で詰めろ。
今は手順を揃える。
怖がるのは後でいい。
今は回せ」
その一言で、全員が動いた。
壁に貼られた紙が、まだ乾ききらない糊の匂いを放っている。
その前を、人が行き交う。
指示が飛ぶ。
装備が渡される。
オートマタの肩灯が試験点灯し、青から黄へ、黄から青へと戻る。
白珠は患者一覧を抜き取り、
岳震は封鎖要員の名を呼び、
カナタは木杭を抜くための道具を選び、
レイラは見張り交代の順を決める。
セレネ・アストラは壁の前に残り、剥がしてよい紙と残す紙を一瞬で仕分けた。
原本は残す。持ち出すのは写し。
誰かが濡らしても、踏んでも、戻れるように。
そのうえで、班ごとの紙束を自ら手渡していく。
「患者班、更新欄は下です」
「封鎖班、見張りと混線しないよう色を変えています」
「水路班、縄と板は触れる前に時刻を入れてください」
声は低く、急かさず、しかし止まらない。
匠ーだけが一瞬、その場に残った。
壁の中央、赤反応の打たれた三点を見上げる。
宿舎裏。暗渠口。炊き出し場脇。
まだ足りない、と彼は思った。
拾える反応は増えた。
だが、人に渡せる精度にはもう半歩いる。
だからもう一段、詰める必要がある。
感度か、倍率か、それとも採水針の先端か。
その横で、セレネ・アストラが患者発語の紙片をもう一度見直していた。
『あけた』
『ふた』
『はずせ、って』
『みずが』
『板』
『抜くなって』
彼女は順を並べ替えなかった。
まだ、その権利は誰にもないと思っていた。
考えながら匠ーはオートマタの胸部留め具に触れた。
「行くぞ」
それが機械に向けた言葉だったのか、自分に向けた言葉だったのかは、誰にも分からなかった。




