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見難い火傷の子  作者: 清風
687/692

開けた者

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子687


開けた者


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


宿舎裏の石の下から、水が流れ出していた。


泥を含んだ水は道の縁へ広がり、低い所を探して細く分かれる。

その一本が、坂を下り始めていた。


岳震は隊員を振り返った。


「この下に誰がいる」


「荷運び道です。避難に使っています」


「止めろ。上で待たせろ」


隊員が走る。


岳震は水をまたがず、乾いた側を大きく回った。

道の先へ縄を張らせ、宿舎から来た者を引き返させる。


「荷は置いていい。人だけ戻れ」


寝具を抱えていた男が立ち止まる。

岳震はその背後へ目をやった。


「後ろを詰めるな。順に戻す」


声を張り上げるより早く、隊員たちが列の脇へ入った。

坂の下から、子どもの泣き声が聞こえる。

それでも、走り出す者はいなかった。


少し離れた荷台の脇では、セレネ・アストラが板に挟んだ紙へ動線を書き足していた。

宿舎裏封鎖。荷運び道停止。避難列反転。

人の流れが変わる時刻を押さえておかなければ、あとで水の動きと照らせない。


*


張良が来た時、カナタは浮いた石から数歩離れていた。

足元に図を置かず、板に挟んだまま見比べている。


「人が開けた跡か」


「石は、ずらされています。泥にも手を掛けたような跡がある」


カナタは足跡を指した。


「こちらから来て、石の脇で止まっています。

そのあと上へ。

ただ、いつのものかは分かりません」


張良は見張り道を見上げた。

木と雨除けの柵が重なり、道の全ては見えない。


「岳震。上へ二組。互いが見える間隔で動かせ。見つけても、一人で追わせるな」


岳震が隊員を呼ぶ。


その途中で、レイラが坂を下りてきた。


「またいた」


張良が顔を向ける。


「見張り道。患者を移した所を見てた。顔は分からない。すぐに隠れた」


「どの辺だ」


レイラが指した場所を、岳震は隊員に確かめさせた。


カナタは患者のいる高台を見た。


「患者は?」


「白珠がついてる。それと、あの人が言った」


レイラは一度、息を整えた。


「『あけた』って」


誰もすぐには答えなかった。

石の下で、水が鳴る。


セレネ・アストラの筆が、その言葉で止まる。

患者発語「あけた」。見張り道人影の再出現と同時刻。

意味はまだ結ばず、並べてだけ書く。今は、それでいい。


張良は視線を戻した。


「何を開けたか、聞けたか」


「返事はなかった」


「なら、その言葉だけ残せ。今の石と同じとは限らん」


カナタもうなずいた。


ただ、レイラはもう一度、見張り道を見た。

男の眼が上がった時。

その先に、人影があった。


二つの出来事が重なった感触だけが、まだ消えなかった。


*


白珠は、男の手から力が抜けるのを待っていた。

握っていた指がほどける。

呼吸は浅いが、乱れてはいない。


「聞こえますか」


男の眼が動いた。

今度は、白珠の顔の辺りで止まる。


「お名前を」


乾いた唇が、かすかに開く。

付き添いから聞いた名とは違う音が漏れ、それきりになった。


白珠は水差しへ手を伸ばさなかった。

口元を湿らせるために用意した布を取り、少しずつ唇へ当てる。


男の喉が動いた。


「……ふた……」


白珠の手が止まる。


「蓋?」


男は眼を閉じた。


白珠は返事を急がせず、布を離した。

しばらくして、また唇が動いた。


「……はずせ……って……」


隣で記録していた娘が顔を上げる。

そのさらに後ろで、セレネ・アストラも別紙へ語句を抜き出していた。

患者発語は、そのまま残す。

解釈は後だ。順番が逆になると、記録はすぐ濁る。


白珠は娘へ小さくうなずき、男に尋ねた。


「誰に言われましたか」


眉間に、深い皺が寄った。

男の指が寝具をつかむ。


「……みずが……」


声が途切れる。

背がわずかに反った。


白珠は質問をやめ、呼吸を確かめた。


娘が不安そうに手帳を見る。


「書いて、いいんですか」


「聞こえたとおりに。間の言葉を足さないで」


男は再び眠ったようになった。

白珠はその額に触れた。

熱は、まだ高かった。


セレネ・アストラは、娘の手元の記録と自分の紙を見比べた。

『ふた』『はずせって』『みずが』。

三つの語をそのまま並べ、前後に空白を残す。

空白もまた記録のうちだった。


*


工事の記録は、一枚ではなかった。


日々の作業帳。

資材の受け渡し。

工夫の組ごとにつけた人数と、仕事の割り振り。


書記はそれらを雨のかからない荷台へ並べていた。


「排水の手直しは、四日前にあります」


張良が紙を受け取る。


「下段の樋とは別か」


「別です。宿舎裏の古溝。蓋石を上げて、泥をさらったと」


岳震が近づいた。


「誰がやった」


書記が組の名を読む。


その横で、セレネ・アストラは白珠の手帳写しを開いていた。

患者名、発熱開始、搬送時刻、発語断片。

作業帳の名と並べて、照合欄に印をつける。


傍らで話を聞いていた工夫頭が、顔を上げた。


「それなら、病舎へ運んだ者がいます」


レイラの指が、荷台の縁で止まった。


「三人の中に?」


「ええ。今朝まで働けると言い張っていたんですが、途中で倒れて」


セレネ・アストラが目を上げる。


「名を、もう一度」


工夫頭が告げる。

彼女は作業帳と白珠の記録を見比べ、ずれなく一致することを確かめた。


「あけた、と言った人です」


声は低く、短かった。


張良は紙を置いた。


「仕事を命じたのは」


工夫頭が自分の胸を指す。


「私です。水が宿舎の方へ染みると聞いて、溝を見ろと」


「誰から聞いた」


「見回りの者が、そう言って来たと……」


工夫頭はそこで口を閉じた。


岳震が尋ねる。


「自分で会ったのか」


「いいえ。組の者から聞きました」


「どんな服をしていた」


「そこまでは」


雨除けの布を、風が押し上げた。

書記が慌てて紙を押さえる。


張良は工夫頭を責めなかった。


「当日、そこにいた者を集めろ。別々に話を聞く。病人は無理に起こすな」


「はい」


「それと、作業の前後で何が変わったか。

水が引いたのか、増えたのか。覚えている者を」


工夫頭はうなずきかけ、ふと手を止めた。


「水は、引いたはずです」


カナタが顔を上げる。


「全部ですか」


「そう聞いています。蓋を外したら、急に下へ抜けたと」


セレネ・アストラはその文言を別欄へ移した。

蓋を外したら、急に下へ抜けた。

患者の「あけた」と並べる。だが線は引かない。まだ早かった。


カナタは宿舎裏を見た。

浮いた石の下で、今は水が戻ってきている。


*


夕暮れが近づき、見張り道から二人の隊員が戻った。

人は見つからなかった。

足跡は柵の切れ目まで続き、そこから先は岩場になっていた。


岳震は報告を聞き、残した隊員の位置を確かめた。


「暗くなる前に交代を送る。道の両端を閉じろ。山へは入るな」


隊員が去ると、カナタが図を持ってきた。


「石を、少し離れた所から見直したい」


「蓋を上げるのか」


「上げません。外側だけです」


岳震は灯りと、柄の長い作業道具を持たせた。

だが、カナタはどちらにも手を伸ばさなかった。


浮いた石から距離を取り、膝を折って隙間の高さへ眼を合わせる。

水の面が見えた。


その奥に、もう一つ、平たい面がある。

石ではない。

濡れて黒ずんだ木だった。


「岳震。灯りを、左へ」


光が差し込む。

木の端に、縄が掛かっていた。


擦り切れた古縄とは違う。

泥をかぶっていても、撚り目がはっきりしている。


カナタはゆっくり立ち上がった。


「中に板が入っています」


「溝を塞いでいるのか」


「途中まで。水が下を通ってる」


岳震は隙間を見た。

板の向こうで、黒いものが一筋、灯りを避けるように沈んだ。


「蓋を外しただけじゃないな」


カナタは答えず、縄の延びる先へ目を移した。

石の下から出た縄は、宿舎の土台際へ隠れていた。


そこに、新しい杭が一本ある。

表面の削り跡が、まだ白かった。


離れた場所で、セレネ・アストラがその位置を図へ写した。

蓋石。内部板。縄。新杭。

別々の記録では意味が薄い。並べた時に、初めて形になる。


*


張良は報告を受けると、作業帳をもう一度開かせた。


蓋石を上げる。

泥をさらう。

それだけだった。


板を入れた記録も、杭を打った記録もない。


「後から誰かが触ったか」


岳震が言う。


「あるいは、書かれていない作業があったか」


カナタは縄の位置を図へ記した。


「引けば板が動くように見えました。

今、抜くのは危険です。

板の向こうの水量が分からない」


張良は宿舎を見た。

その裏を、人が通っていた。

避難する者も、荷を運ぶ者も。

誰かが立ち止まっても、不自然ではなかった。


「ここも閉じる。縄と杭には触れさせるな」


岳震がうなずく。


張良は続けた。


「工事の指示を受ける時は、名を確かめろ。今夜から、口伝えだけで水路を動かすな」


書記が書き留める。

セレネ・アストラも別紙へ同じ内容を抜き出した。

通達文に落とすなら、ここが核になる。


その脇へ、白珠の使いが来た。

男が短く話したという。


書かれた紙を、張良が受け取る。


『ふた』

『はずせ、って』

『みずが』


三つの言葉の間には、空白があった。


張良はそれを埋めずに、作業帳の隣へ置いた。


セレネ・アストラは、そこへ新しく小さく書き添える。

患者発語。意味未確定。作業記録との直接接続保留。

決めすぎないための印だった。


*


夜に入る前、雨が弱まった。


炊き出し場の水は引き始めていた。

誰も、元の場所へは戻されなかった。


空の鍋が並び、消した竈から湿った灰の臭いがする。

高台では、別の場所から運んだ食事が配られていた。


レイラは患者の寝台を回り、最後にあの男の脇へ戻った。

男は眼を開けていた。


昼ほど遠くを見てはいない。

自分の右手を、じっと見ている。


「痛い?」


問いかけると、男の指が動いた。

親指の付け根に、擦り傷があった。

古い傷ではない。


レイラが白珠を呼ぶ。

男はその間も、手を見ていた。


「……俺が……」


白珠が膝をつく。


「無理に話さなくていい」


男は首をわずかに振った。

息を吸う。

その音が、喉で引っ掛かった。


「……板……」


レイラと白珠が目を合わせる。


「……抜くなって……」


少し離れた机で、セレネ・アストラが顔を上げた。

今度は語を抜くだけでなく、手の擦過傷にも印をつける。

言葉だけではなく、身体にも痕が出始めていた。


白珠は顔を近づけた。


「誰が言いましたか」


男の眼に、涙が浮かんだ。

指が、何かを握る形になる。


「……下から……」


その先は、声にならなかった。


白珠は男の手を包み、娘へ記録を頼んだ。


レイラは雨除けの外を見た。

宿舎裏には灯りが二つ置かれ、隊員が立っている。

その向こうで、岳震の背が動いた。


誰も縄には触れていない。


それでも、杭に結ばれた縄が張った。

緩み、また張る。


岳震は灯りを持つ隊員を下がらせた。

石の下から、水の音が消える。


代わりに、木のきしむ音がした。


板の向こうで。


何かが、一度だけ引いた。

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