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見難い火傷の子  作者: 清風
686/687

戻る水

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子686


戻る水


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


炊き出し場の排水口から、泥水が戻っていた。


初めは、石の隙間に小さな泡が浮いただけだった。

それが一つ消え、次が膨らむ。

やがて泥を含んだ水が縁を越え、踏み固めた地面へ広がり始めた。


「離れろ!」


岳震の声が飛んだ。


空の桶を持っていた娘が振り返る。

足元を見たまま動けずにいた娘の腕を、岳震は通りすがりにつかんだ。

水の届いていない方へ連れ出し、隊員へ預ける。


「炊き出しを止めろ。鍋も桶も、今は触るな」


「火はどうします!」


「消せるところだけ消せ。水を汲みに戻るな」


隊員たちが人を動かす。

配給を待っていた列が乱れ、後ろから不満の声が上がった。


何が起きたのか、前の者にしか見えていない。


「飯まで取り上げるのか!」


岳震は振り向いた。


「足元を見ろ」


泥水が、並べてあった空の椀へ届きかけていた。

怒鳴った男が口を閉じる。


岳震はその先にいる者へ手を上げた。


「坂の上へ。走るな。子どもを先に通せ」


*


雨除けの下では、三人の患者が同じ方を見ていた。


白珠は最も近い男の肩へ触れた。


「聞こえますか」


男の眼は動かない。

その指が、毛布を少しずつたぐっている。


寝台から起きようとしているのではなかった。

体は横たわったまま、手だけが先へ行こうとしていた。


レイラは雨除けの外を見た。

炊き出し場に人影が集まり、すぐに散っていく。

その足元を、薄茶色の水が横切った。


「ここにも来る」


白珠が地面を見る。

患者を移した時には乾いていた場所へ、雨とは違う筋が伸びていた。


「寝台を上へ。全員、もう一度移します」


手伝いの娘が息を呑む。


「また、ですか」


「ええ。持ち物は後でいい。人から」


白珠は担架の端を持った。

娘も慌てて反対側へ回る。

レイラが次の隊員を呼んだ。


「こっち。足元の水を踏まないで」


最初の寝台が持ち上がる。

男の腕が、毛布から滑り落ちた。


白珠が受け止めると、その手が彼女の手袋を握った。

弱い力だった。


初めて、男の眼が白珠へ向く。


「……いく……」


白珠は顔を近づけた。


「どこへ」


男の唇が震える。


「……いかないと……」


その声は、懇願するようだった。


白珠は握られた手を離さず、隊員へ言った。


「運んでください」


その少し後ろで、セレネ・アストラが記録板へ走り書きを加えていた。

逆流発生。患者三名、同方向反応。移送時、発語あり。

白珠の問いと患者の返答を、言い回しまで落とさないように短く留める。

あとで匠一が読むなら、曖昧なまとめより、生の言葉の方が役に立つと分かっていた。


*


張良は、炊き出し場の坂上に立っていた。


足元へ図を広げる余裕はない。

書記が板に挟んだ紙を持ち、カナタがその端を押さえている。

その脇では、セレネ・アストラが濡れた紙を油布の下へ差し込み、

古い溝の線と患者移動先を別紙へ写していた。


「上から来た水が、下で詰まっただけか」


張良が問う。


「それなら、低い所からあふれるはずです」


カナタは炊き出し場を指した。


「ここは作業小屋の下より高い。

あちらの出口が塞がれれば、古い溝を満たして戻ることはあります」


「だが?」


「戻るのが早い。雨水だけなのか、別の水が入ったのか、まだ分かりません」


岳震が坂を上がってきた。


「炊き出し場は空けた。宿舎も出すか」


張良は図を見た。

古い溝の線が、宿舎の角をかすめている。


「溝沿いの二棟を先に。他も荷をまとめさせろ。移動先は資材置場の上だ」


「道が一つしかない」


「入口と出口を分けろ。裏の荷運び道を使う」


岳震が隊員へ指示を飛ばす。


セレネ・アストラがその横で、移動先と動線を別紙へ書き分けた。

病舎側から来る者、宿舎から出る者、炊き出し場から退く者。

混じれば遅れる。混じれば踏む。そういう場所だった。


カナタはその間も、排水口を見ていた。


泥水の表面が、時折盛り上がる。

泡ではない。

何かが、水のすぐ下を通っていた。


「岳震」


声に気づき、岳震が戻る。

カナタは排水口の右側を指した。


「石の間です」


黒い線が一本、縁へ掛かっていた。

水が押し出した草の根にも見える。

だが、その先は地面を探るように曲がり、濡れた石へ貼りついた。


岳震は隊員たちを見た。


「縄を下げろ。あそこへ近づけるな」


「抜けてきますか」


「分からん。見えなくなるまで、見ていろ」


刀を抜く者はいなかった。


黒い線は石の表をわずかに進み、それから水の中へ戻った。


セレネ・アストラは視線を上げずに、

黒色索状物、排水口縁に一時出現、再潜行、と書いた。

その一行の横へ、小さく時刻を添える。


*


宿舎から出てきた工夫たちは、濡れた寝具と荷物を抱えていた。


働けと言われれば働く。

休めと言われれば休む。

だが、寝場所まで空けろと言われては、皆が素直に従うわけではなかった。


「中は濡れてもいねえぞ」


「隣が空いてるだろう。そこじゃ駄目なのか」


岳震は戸口に立った。


「下に古い水路がある。炊き出し場で水が戻った」


「こっちまで来るとは限らねえ」


「だから、今出られる」


男は返事を探した。


岳震はその肩越しに、中へ声をかける。


「残ってる者は」


「奥に一人。腹を壊して寝てる」


岳震の顔が変わった。


「いつからだ」


「今朝からだが……」


「白珠を呼べ」


近くの隊員が走った。


岳震は中へ入った。


薄暗い奥で、若い工夫が布団をかぶっていた。目は開いている。汗をかき、唇が乾いていた。


「歩けるか」


男はうなずいた。

起きようとして、途中で腹を押さえる。


岳震はその場に膝をついた。

男の眼が、岳震の脇をすり抜ける。

部屋の隅に置かれた水差しを見ていた。


「……それ……」


「待て」


岳震は水差しを男から離した。


「具合を見る者が来る」


男は岳震を見た。

ひどく怯えた顔だった。


「俺も、あっちへ連れてかれるのか」


岳震はすぐには答えなかった。

外で、荷物を運ぶ足音が続く。


「まず、ここを出る」


岳震は男の上着を取った。


「話は、濡れていない所で聞く」


*


白珠が着いた時、男は宿舎の外で待っていた。

岳震が支えている。


レイラが顔色を確かめ、白珠が短く質問を重ねた。

熱は高くない。

受け答えもできる。

水を欲しがったのも、喉が渇いていたからかもしれなかった。


白珠は書記を呼んだ。

だが、その前にセレネ・アストラが一歩寄る。

すでに別紙を用意していた。


「この人は、先の三人とは離して。症状が違います」


男が白珠を見る。


「同じじゃ、ないんですか」


「今、見えている症状は違います」


白珠は答えた。


「だから、分けて診ます」


男の肩がわずかに下がった。


セレネ・アストラはそのやり取りをそのまま控え、欄外へ小さく記した。

宿舎一名、腹部症状、発熱軽度、精神混乱なし。

混ぜないための記録だった。


岳震は手伝いへ引き渡し、その後ろ姿を見送った。


白珠が手袋を替える。


「ほかにも、我慢している人がいるかもしれない」


「連れ出されるのが怖いんだろう」


「ええ」


白珠は空になった宿舎を見た。


「熱がなくても申し出るように伝えて。叱らないとも」


岳震はうなずいた。


セレネ・アストラはすぐに書き足した。

隔離ではなく選別。申告可。叱責なし。

言い方ひとつで、隠れる者が減ると知っていた。


*


水が止まったのは、それから少し後だった。

止まったように見えただけだった。


炊き出し場の排水口からあふれる量が減り、石の縁が再び姿を現す。

隊員の一人が、ほっと息をついた。


カナタは坂を下りなかった。

地面に広がった泥水を見ている。


水たまりに落ちた雨の輪が、片側だけ崩れていた。


水が引いている。

排水口へ戻るのではなく、炊き出し場の奥へ。


「別の出口が開いた」


カナタが言った。


張良はすぐに尋ねる。


「どこだ」


紙の上を指が動く。

炊き出し場から、宿舎の裏へ。

そこで、古い図の線は途切れていた。


「この先は記録がない」


書記の声が上ずる。


セレネ・アストラは古図と新図、さきほどの聞き取りを見比べた。


「途切れているのは記録です。流れ自体は続いているはずです」


張良が短くうなずく。

カナタは実際の地面へ目を移した。


宿舎裏には、資材を運ぶための細い道がある。

その脇に、平たい石が並んでいた。

泥に埋もれ、ただの足場にしか見えなかったものだった。


端の一枚が、わずかに浮いている。


岳震も、それを見つけた。


「人を離せ」


隊員たちが道を空ける。

近づかずに見ている間にも、石の隙間から水がにじんだ。


押し上げられたのではない。

石そのものが、斜めにずらしてあった。


カナタの足が止まる。

表面の泥に、手でぬぐったような筋があった。

その横へ、濡れた足跡が一つ。


雨に崩れかけていたが、爪先の形は残っていた。

工区の支給靴ではなかった。


セレネ・アストラの筆先が止まる。

浮石。人為痕。非支給靴跡。

書いてから、紙を持つ指に力を入れた。

偶然の崩れでは片づけにくい線が、また一つ増えた。


岳震は石を見た。

続いて、足跡の向きを追う。

宿舎裏の道から、上の見張り道へ。


昼に人影が消えた方だった。


「追うか」


カナタは水を見た。

浮いた石の下で、黒いものがゆっくりと曲がる。


「先に、ここです」


岳震は笛を口へ運んだ。

短い音が二度、雨の中へ響く。


張良が来るまで、誰も石には触れなかった。


*


患者を移した高台からも、その笛は聞こえた。


レイラが顔を上げる。

三人の男は、今はばらばらの方を向いていた。


一人は眠り、一人は譫言を繰り返している。

白珠の手を握った男だけが、眼を開けていた。


その視線が、ゆっくりと上がる。

地面から、坂の上へ。


レイラは振り返った。

雨除けの向こう。

見張り道の、折れ曲がった先。


そこに立つ人影が、こちらを見ていた。


顔は雨除けに隠れている。

呼びかけるより早く、人影は一歩退いた。


男の手が、毛布の上で持ち上がる。

唇が動いた。


今度の言葉は、はっきり聞こえた。


「……あけた……」


レイラは男を見た。


「何を?」


男の眼は、もう彼女を見ていなかった。


少し離れた机で、その言葉を聞いたセレネ・アストラが、顔を上げた。

問い返しはしない。

ただ、患者発語「あけた」――見張り道人影視認と同時、と記す。

あとで照らすべき線が、増えていく。


遠くで三度目の笛が鳴る。


宿舎裏の石の下から、水が流れ出していた。

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