床下
見難い火傷の子685
床下
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
音は、床の裏をゆっくりと移っていた。
板を引っ掻くほど強くはない。
濡れた縄を引きずるような、低い擦れ音だった。
岳震が奥の寝台へ向かう。
白珠は患者の顔から目を離さず、片手を上げた。
「運び出して。寝具ごと」
隊員たちが担架を寄せる。
男の指は、まだ壁を指していた。
寝台から持ち上げられると、その腕だけが置いていかれるように伸びる。
白珠が手を添え、胸元へ戻した。
「もう、ここにはいられません」
男の唇が動く。
声は出なかった。
代わりに、床下で何かが止まった。
レイラは入口の脇に立ち、担架の通り道を空けた。最初の一人。次の一人。
最後の担架が床板の継ぎ目を越えた時、男の眼が大きく開いた。
首が横へ向く。
床の一点を見る。
その真下で、こつ、と音がした。
岳震の手が、担架の端をつかんだ。
隊員と一緒に持ち上げ、入口へ運ぶ。
白珠が後に続き、レイラも外へ出た。
残ったのは、岳震とカナタだけだった。
「出ろ」
岳震が言う。
カナタは床から目を離さなかった。
「今の位置だけ」
壁際から三枚目の板。
節の脇に、古い釘が二本。
確かめてから、後ろへ下がる。
岳震が最後に戸口をまたいだ。
外の雨音が、急に大きく聞こえた。
*
張良は、小屋から離れた場所に人を集めさせた。
病舎の庇では足りない。
資材置場に張っていた大きな雨除けを外し、支柱ごと運ばせる。
乾いた板と敷布を並べ、その上へ患者を移した。
その脇では、セレネ・アストラが濡れない位置を選び、急ごしらえの机に油布を敷いていた。
古い工区図、聞き取りの紙片、患者の移動順を書いた覚え書き。
散りやすいものを石で押さえ、書記の記録と混ざらないよう並べ替えていく。
匠一へ返すための記録も、別紙で取っていた。
白珠は三つの寝台の間を歩いた。
作業小屋から離れても、患者の熱は下がらない。
ただ、壁を見ていた男の腕は、もう動いていなかった。
「呼吸は」
「さっきより落ち着いてる」
レイラが答える。
「でも、眼が合わない」
白珠は男の瞼を確かめ、手帳へ短く記した。
セレネ・アストラがその横で、時刻を書き留める。
「移送後、腕の探索運動は減少。視線反応は鈍化」
白珠は一度だけうなずいた。
その後ろで、書記が張良に尋ねた。
「小屋は壊しますか」
「まだだ」
張良は雨に煙る建物を見た。
「下に何が通っているか、見てから決める。
崩して流れを変えれば、別の場所へ出るかもしれん」
岳震が戻ってきた。
「中は空だ。周りに人を置いた」
「誰も入れるな」
「床を開けるか」
張良はカナタへ目を向けた。
カナタは小屋の横へ回り、地面の傾きを見ていた。
「上から剥がす前に、下を見られる場所があります」
セレネ・アストラが紙を押さえたまま、顔を上げる。
「位置を示してください。病舎、小屋、炊き出し場の線と重ねます」
カナタは無言でうなずき、あとで図へ落とせるよう、手短に小屋の向きと斜面側を告げた。
彼女はそれをすぐ紙へ写し、張良の机の端へ滑らせる。
*
作業小屋は、斜面に沿って建てられていた。
山側は地面と近い。
谷側は石を積んで高さを合わせてあり、床と土の間に隙間がある。
普段は、雨除けの板がそこを覆っていた。
一枚の端が、内側へ押されている。
カナタが指した。
「ここです」
岳震は隊員を二人下がらせた。
自分は隙間の正面を避け、脇へ立つ。
「外すぞ」
釘の緩んだ板が持ち上がった。
湿った土の臭いが流れ出る。
腐った藁と、古い水の臭いもした。
灯りを差し入れる。
床を支える石。横に渡した太い材。その奥に、浅い溝が見えた。
水がある。
細い流れではなかった。
小屋の下を横切り、板で覆われた暗渠へ吸い込まれている。
「埋まっていないな」
岳震が言った。
カナタはうなずいた。
「図には、そう書いてあった。でも水は通ってる」
灯りが揺れる。
流れの途中に、何かが引っ掛かっていた。
淡い色の、細長いもの。
一見すると、剥がれた木の皮だった。
その端が、水に逆らって持ち上がった。
隊員の息が止まる。
岳震は灯りを持つ手を動かさなかった。
淡いものは、また水面へ伏せた。
長さは分からない。
見えている部分だけで、床下の支え石を二つまたいでいた。
カナタが声を落とす。
「先を照らしてください。右へ」
灯りが移る。
淡いものの向こうに、黒い筋があった。
一本ではない。
水に浸かった材へ、細い線が幾重にも巻きついている。
泥と見分けがつかなかった部分が、灯りの下で少しずつほどけた。
そのうちの一本が、材から離れる。
床板の裏へ伸びた。
こつ、と鳴った。
誰も動かなかった。
黒い先端が、同じ場所へもう一度触れる。
その上には、先ほどまで男の寝台があった。
岳震が灯りを引いた。
「閉じる」
板を戻す間、カナタは水の出口を見ていた。
何かが押し寄せてくることはなかった。
ただ、暗くなる直前、淡い帯の端がゆっくりと裏返った。
内側には、何も残っていないように見えた。
*
白珠は、報告を最後まで聞いた。
途中で質問はしなかった。
その少し後ろで、セレネ・アストラが記録板へ要点を書き分けていく。
淡色帯状物。
黒色索状物。
打音あり。
患者寝台直下へ接触。
聞き取った順ではなく、後で照合しやすい形へ並べ替えていた。
岳震が口を閉じると、白珠はようやく尋ねる。
「淡いものは、動いていた?」
「流れに逆らって持ち上がった。黒い方は、板を叩いた」
カナタが補う。
「淡い方は、水に押されて形が変わった可能性もあります。薄くて、管のように見えました」
「抜け殻か」
岳震の言葉に、白珠はすぐには答えなかった。
「そう見えるものは、ほかにもあるわ。今は、床下に二種類のものがあると記録して」
セレネ・アストラがその言葉を受ける。
「二種に分けます。患者反応との照合は別欄にします」
レイラが患者を見た。
「黒い方は、水路と、岩の樋と、ここ。背中で動いてるのも同じなら――」
言いかけて、やめる。
白珠は手袋の指を一本ずつ確かめた。
「同じであっても、出入りの仕方はまだ分かりません。
水を飲んだからなのか、触れたからなのか。それ以外なのかも」
近くにいた娘が、自分の手を見た。
白珠はそれに気づいた。
「あなたが触ったものも記録します。今、具合の悪いところは?」
娘は首を振った。
それから、ためらいながら口を開く。
「さっきの水……外へ捨てました」
レイラが顔を上げる。
「布を絞っていた桶?」
「はい。いつも、あの小屋の裏へ……」
娘の声が消えた。
誰も責めなかった。
白珠は書記へ目を向け、それからすぐセレネ・アストラへ向き直った。
「病舎から出た水を、どこへ捨てていたかも拾いたい。炊き出し場と宿舎も」
「聞き取りの欄を分けます。時刻も追えるだけ追います」
セレネ・アストラは即座に紙を引き寄せ、
使用した水、触れた水、捨てた水、流れ込んだ先――と見出しを書き分けた。
張良は、古い図を机へ広げ直した。
*
図の上に、印が増えていく。
水を汲んだ場所。
使った場所。
捨てた場所。
書記が聞き取ってきた話は、初めのうちはばらばらだった。
炊き出し場は、泥臭くなった下の水場を使うのをやめた。
宿舎の者は、雨が強い日に近い井戸へ切り替えた。
病舎では、入口の桶が足りなくなるたびに、手の空いた者が水を運んだ。
誰も、水の行き先までは気にしていなかった。
セレネ・アストラが別紙の記録を見比べる。
「切り替え時期が揃いすぎています。三日前から四日前に集中しています」
張良が目を上げる。
「拾えたのか」
「正確な時刻までは無理です。
ただ、下の水場を避け始めた時期と、病舎で異常が出た者の訴え始めが近い」
カナタは図に線を引いた。
「全部、ここへ戻る」
古い溝だった。
地面の下で途切れたと思われていた線が、病舎と作業小屋をつないでいる。
そこからさらに、炊き出し場の裏を通り、切通しの底へ下りていた。
張良が書記へ尋ねる。
「この排水を、今も使っていたのは誰だ」
「正式な管理はされていません。雨が続くと水が引くので、そのまま……」
「工事の時、誰も確認しなかったのか」
書記が言葉を詰まらせる。
カナタは図の端を押さえた。
「確認した人は、いるかもしれません」
岳震が目を向ける。
カナタは、下段で見た樋の位置を指した。
「新しい樋が入った先に、この古い溝がある。
水を逃がすなら自然な向きです。
でも、ここで一度、流れが曲げられている」
図の線ではなかった。
カナタが現場で描き加えた、小さな鉤形の印だった。
「石が積んでありました。
足場の補強だと思っていたけれど、水をせき止めて、横へ流していたのかもしれない」
セレネ・アストラがすぐにその印を別紙へ写す。
「意図的な改変の可能性あり、と付けますか」
張良は一瞬だけ考えた。
「可能性、までだ。断定は書くな」
「はい」
張良の指が止まる。
「いつの石だ」
「分かりません。今から見ても、誰が置いたかまでは」
岳震が短く言った。
「工事の指示書を出せ」
書記が駆け出す。
張良は図を見たまま、低く命じた。
「排水に手を入れた記録を全部。
樋を置いた者も呼べ。
責めるためではないと伝えろ。
隠されると困る」
セレネ・アストラは、その命令の要点をもう一枚へ抜き書きした。
外へ走る伝達役が、迷わず持っていけるようにするためだった。
岳震は雨の向こうへ目をやった。
見張り道は、ここからでも見えた。
今は誰もいない。
*
夕方になっても、雨は細く降り続いていた。
工区の音は途絶えている。
槌も、つるはしも鳴らない。
代わりに、運ばれてきた水桶を並べる音と、配給を待つ者たちの声が聞こえた。
岳震は封鎖線を一周し、作業小屋の前へ戻った。
入口の縄はそのままだった。
窓も閉じている。
ただ、谷側に置いた隊員が、しきりに床下を見ていた。
「どうした」
「さっきから、音がしません」
岳震は小屋を見た。
静かだった。
静かすぎる、とは思わなかった。
音がしないから安全になったとも、思わなかった。
「最後に聞いたのは」
「少し前です。水が流れる音だけになって……」
岳震はその場で足を止めた。
小屋の横の溝を見る。
雨水は来ている。
だが、床下へ入るところで、ほとんど動いていなかった。
「カナタを呼べ」
隊員が走る。
岳震は作業小屋へ近づかず、斜面の下へ目を向けた。
排水溝の先に、小さな水たまりができている。
昼にはなかったものだった。
その少し離れた机では、セレネ・アストラも顔を上げていた。
水桶の配給記録を書いていた手が止まる。
溝の流れと、水たまり、その向き。視線だけで確かめると、すぐに紙の端へ短く書きつける。
停滞。
逆流兆候。
新規滞水。
異変が、別の場所で形を変え始めている。
*
同じ頃、患者を移した雨除けの下で、レイラが寝台から顔を上げた。
一人の工夫が、横を向いていた。
眠っていたはずの男だった。
その隣でも、毛布が動いた。
さらに奥で、板がきしむ。
三人とも、同じ方へ顔を向けていた。
作業小屋ではない。
炊き出し場の方だった。
白珠が手帳を閉じる。
「いつから」
「今。ほとんど一緒に」
レイラは患者たちの視線を追った。
雨除けの端から、地面へ水が落ちている。
その筋を越えた向こうで、炊き出し場の娘が空の桶を持って立っていた。
娘もまた、足元を見ていた。
石組みの排水口から、泥水があふれ始めている。
流れていくのではない。
奥から、戻ってきていた。
セレネ・アストラがその声に振り向き、
炊き出し場、排水口、患者視線一致、とだけ素早く記した。
その一行は、あとで匠一へ渡る記録の中でも、赤線で囲まれることになる。
*
カナタは小屋の脇へしゃがみ、溝の水面を見た。
流れが止まっている。
細かな木片が一つ、同じ場所で回っていた。
岳震が尋ねる。
「詰まったか」
「下で、何かがせき止めている」
「石か」
カナタは答えなかった。
床下の暗渠から、鈍い音がした。
一度ではない。
重いものが、狭いところを少しずつ通るような音だった。
隊員が灯りを持ち上げる。
岳震は、その腕を押し下げた。
「近づくな」
小屋の下で、水面が盛り上がった。
そこから先は、見えなかった。
カナタが立ち上がる。
「張良へ。溝の上から人を離してください」
言い終わる前に、遠くで笛が鳴った。
炊き出し場の方だった。
岳震が振り向く。
雨に混じって、女の声が届いた。
「こっちへ来てる!」
岳震は走り出した。
その声に、セレネ・アストラも即座に記録を閉じた。
散った紙を押さえていた石を払い、必要なものだけを束ねて張良の机へ残す。
匠一へ返すべき記録は胸に抱えた。
現場が動くなら、記録もまた動かさなければならない。
背後で、古い溝の水が逆向きに動き始めた。




