水脈
見難い火傷の子684
水脈
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
床の継ぎ目を、細い水が走っていた。
庇から落ちた雨が、入口の敷居を越えて入り込んだものだった。
泥を薄く引きながら、わずかに傾いた床板の間を伝っている。
工夫の眼が、その先を追った。
顔は横を向いたまま、眼だけが動く。
「白珠」
レイラはそれ以上、言わなかった。
白珠は工夫の手首に触れたまま、流れる水を見ていた。
指先が床をこする。寝台へ戻そうと体を持ち上げると、男は担架の縁をつかもうとした。
「待って」
白珠の声で、隊員たちが止まる。
「入口から水が入っています。敷居の外で止めて。ここは乾いた布を」
娘が布を持ってきた。
床の水を吸わせる間も、男の指は動いていた。
やがて濡れた筋が消える。
男はしばらく同じ場所を探り、それからゆっくりと腕を引いた。
レイラが眉を寄せる。
「消えたら、止まった?」
「そう見えた。覚えておいて」
白珠は男の手を取り、担架の内側へ戻した。
「確かめるために、もう一度流すのはやめましょう」
「うん」
娘が濡れた布を持ち上げる。
その時、男の顎がわずかに上がった。
眼が、布を追う。
娘はその場で動けなくなった。
「そのまま、ゆっくり外へ」
白珠に言われ、娘は布を抱え直した。
男は首を動かしかけたが、途中で力を失った。浅い息が漏れ、眼が閉じる。
レイラは担架の向きを見た。
「水なら何でも、ってことなのかな」
「まだ分からないわ」
白珠は男の呼吸を確かめる。
「ただ、近くに置かずに済むものは離せる。まずはそれから」
担架が持ち上がった。
白珠も立ち上がる。白衣の膝には、濡れた床の跡がついていた。
*
井戸の前では、空の桶がいくつも雨を受けていた。
集まった者たちは、病舎で何が起きているのか知らない。
知っているのは、仕事を止められ、いつもの井戸を使うなと言われたことだけだった。
「昼の飯をどうしろっていうんだ!」
「代わりの水を運んでいる。待て」
「さっきから、そればかりだ!」
隊員の前へ、男が一人進み出る。
岳震は、その肩に手を置いた。
男が振り向くより先に、井戸へ向かう足が止まる。
「桶を置け」
「俺は汲みに来ただけだ」
「だから止めている」
岳震は男を押し返さなかった。
ただ、肩から手を離さない。
男はその手を見て、次に岳震の顔を見た。濡れた頬の古傷に目を止め、ようやく桶を下ろす。
岳震は隊員へ顎を向けた。
「支給の場所へ案内しろ」
「まだ水が着いていません」
「列だけ作れ。ここで待たせるな」
人の塊が、少しずつ井戸から離れていく。
最後まで残った年配の工夫が、閉じられた井戸口を見た。
「この井戸まで駄目になったのか」
岳震が目を向ける。
「まで?」
「下の水場も、この前から使ってねえ」
男は切通しの方へ顎をしゃくった。
「泥臭くなったって、炊き出しの連中が嫌がってな。こっちへ汲みに来る奴が増えたんだ」
「いつからだ」
「三日前か、四日前か……雨が続く前だ」
岳震は隊員を一人呼んだ。
「今の話を張良へ。そのあと、この人を炊き出し場へ案内しろ。使う水を変えた日を聞け」
隊員が走る。
年配の工夫は、不安そうに井戸を見直した。
「何なんだ、いったい」
「調べている」
岳震は答えた。
「だから、分かるまで触るな」
*
カナタの図には、三つの印が増えていた。
井戸。
使われなくなった下の水場。
そして、切通しの底。
張良は紙の端を押さえた。
庇の内側に置いた机にも、風で細かな雨が吹き込んでくる。
「同じ水か」
「繋がっている可能性はあります。ただ、地面の下までは見えていません」
カナタは一本の線を指した。
「下の水場はここです。
切通しの掘削面より高い。
古い流れが工事で開いて、こちらへ抜けたのなら説明はつきます」
「水が抜けて、泥が出た?」
「それも一つです。逆に、別の流れが入り込んだのかもしれない」
書記が別の紙を差し出した。
「掘削の記録です。四日前、下段の岩盤に空隙が出ています」
張良が受け取る。
「報告は」
「水がにじんだため、仮の樋を入れたと」
「誰が確認した」
書記が記録を追う。
カナタは顔を上げた。
「その樋を見たい。今も水が来ているなら、流れの入口を絞れます」
張良は雨の向こうを見た。
切通しの下段は、ここからでは見えない。
「岳震を呼べ。二人とも、穴の中へは入るな」
*
下へ降りるほど、水音が大きくなった。
斜面に打ち込まれた杭を伝い、カナタが先を行く。
その後ろに岳震。さらに隊員が二人続いた。
黒い外套は上の詰所へ置いてきていた。岳震の肩や腕を覆う防具に、雨粒が当たって砕ける。
「ここです」
カナタが足を止めた。
掘削面の下に、板を組んだ細い樋が渡してあった。
岩の隙間から出た水を受け、排水溝へ落とすためのものだったらしい。
だが、片方の支えが沈み、樋は途中で傾いている。
受けきれなかった水が、黒い岩肌を薄く覆っていた。
岳震は周囲を見た。
道具は片づいている。足場の端に縄が巻かれ、工夫たちが休むための腰掛けが一つ残っていた。
争ったような跡はない。
カナタが樋の手前でしゃがむ。
「触るなよ」
岳震が言う。
「見ます」
水の上流へ目を移す。
割れ目は、人の肩が入るほどもなかった。
その奥は暗い。
灯りを近づけると、濡れた岩が鈍く光った。
カナタは灯りを持つ隊員に、少し下げるよう頼んだ。
「何がある」
岳震が尋ねる。
「樋の内側に、何かついてる」
泥ではなかった。
黒く細いものが、板の継ぎ目に沿って貼りついていた。
草の根にも見える。
流れてきた繊維が絡んだようにも見える。
カナタは姿勢を変え、横から見た。
水が、その上を通っている。
細いものの先端が、流れと逆へ曲がった。
「……動いた」
岳震が隊員二人を下がらせた。
自分も一歩退き、カナタの肩へ手をかける。
「十分だ」
カナタは逆らわなかった。
立ち上がり、灯りを遠ざける。
樋に残った黒い筋は、もう動いていなかった。
雨音と水音が重なる。
しばらく誰も口を開かなかった。
「生きものか」
岳震が問う。
「分かりません。ただの根なら、見間違いで済みます」
カナタは岩の割れ目を見た。
「ここで確かめるのは、やめた方がいい」
岳震は短くうなずいた。
「戻るぞ」
その時、上から小石が落ちてきた。
一つ。続いて、もう一つ。
岳震が顔を上げる。
見張り道の縁に、人影があった。
ほんの一瞬だった。
雨除けをかぶった肩が引き、草の向こうへ消える。
「上だ」
隊員が動きかける。
岳震の腕が、その前へ出た。
「追うな。二人で戻れ。上の詰所へ知らせろ」
「ですが――」
「こっちは足場が悪い。向こうは知ってる」
言いながらも、岳震の目は道の縁を離れなかった。
カナタが静かに言う。
「今の場所からは、ここが見えます」
「だろうな」
「私たちが来る前から、いたのかもしれない」
岳震は足元の樋を見た。
続いて、細い割れ目を見る。
「なら、誰が来るか待っていたのかもな」
*
病舎裏の作業小屋には、乾いた藁と寝台が運び込まれていた。
工具棚は空になり、床には新しい板が渡されている。
白珠は入口で手袋を替え、移された三人の様子を順に確かめた。
先ほどの工夫は、目を閉じていた。
別の一人は熱に浮かされ、途切れ途切れに家族の名を呼んでいる。
一番奥の男だけが、壁を向いていた。
「この人、向きを変えたんだ」
レイラが声を落とした。
「寝台を置いた時は、反対を向いてた。
水桶はない。
濡れたものも、できるだけ外へ出したんだけど」
白珠は寝台の脇へ立った。
男の眼は開いている。
壁の低いところを見つめていた。
「何か聞こえますか」
返事はない。
白珠は壁へ目を移した。
節の浮いた古い板。その向こうは斜面だった。
「レイラ。外を見てきて。壁の際に水がたまっていないか」
「分かった」
レイラが出ていく。
白珠は男の手に触れた。
指が冷えている。
額は熱いままだった。
「こちらを向けますか」
男の唇が動いた。
白珠は身をかがめる。
「……とおる……」
「何が」
男の喉が鳴った。
「したを……」
外からレイラの声がした。
「白珠。溝がある」
白珠は顔を上げた。
「雨水?」
「たぶん。でも変だ。水が流れ込んでるのに、先で出てこない」
男の手が動いた。
壁へ向かって、ゆっくりと持ち上がる。
白珠はその手を受け止めた。
男は白珠を見ない。
板壁の向こうを見ていた。
「……とおる……」
*
張良が作業小屋へ来た時、カナタと岳震も戻ったところだった。
報告は短かった。
岩盤の割れ目。
仮設の樋。
流れに逆らって動いた、黒い筋。
そして、上の道から消えた人影。
張良は最後まで聞き、カナタの図を開かせた。
白珠が壁際を指す。
「この裏にも、水が落ちる場所があります。患者がそちらを向いている」
カナタは小屋の位置を確かめた。
指が、紙の上で止まる。
「この建物は……」
書記が古い工区図を広げた。
新しい図にはない線が、小屋の脇を通っていた。
細く、途中から点線になっている。
張良が尋ねた。
「何の線だ」
「着工前の排水記録です。斜面の湧水を逃がしていた古い溝で、今は埋まっていると」
カナタは二枚の図を並べた。
岩盤の割れ目から、古い溝へ。
そこから、小屋の下へ。
線は、その先にも続いていた。
病舎。炊き出し場。工夫の宿舎。
カナタは顔を上げた。
「ここも、切通しの底へ繋がっているかもしれません」
張良は小屋の床を見た。
乾いた板が敷かれている。
その下までは、誰も見ていなかった。
白珠が先に動いた。
「移した三人を、もう一度外へ。雨を避けられる場所を空けて」
岳震が戸口の隊員を呼ぶ。
張良は書記へ命じた。
「この線の上にある建物を拾え。水場だけではない。床下も調べる」
奥の寝台で、男が低く笑った。
笑ったように、聞こえただけかもしれなかった。
白珠が振り向く。
男の眼から、一筋の涙がこめかみへ落ちていた。
唇が動く。
「……きた……」
その声のあとで、床下から音がした。
雨だれより重く、足音より鈍い。
何かが、板の裏をゆっくりと擦っていった。




