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見難い火傷の子  作者: 清風
683/684

分ける者たち

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子683


分ける者たち



深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


雨は、朝から止みきらなかった。


第七切通しの斜面を削った土は黒く濡れ、踏まれるたびに粘りを帯びて靴へまとわりついた。

仮設病舎の板屋根では細かな雨粒が鳴り続け、布の庇から冷えた滴が筋になって落ちている。


中にこもるのは、湿った熱気と薬草の匂い、汗の酸えた臭いだった。


粗板を渡した寝台の上で、工夫たちが毛布を握ってうめいている。

奥では湯を沸かす鍋の蓋がかすかに鳴り、

入口近くでは手伝いの娘が濡れ布を桶へ浸しては絞っていた。


レイラは寝台の間を歩き、一人ずつ顔を確かめた。


「……この人も」


額から手を離す。


その後ろを、白珠が静かに進んでいた。


黒髪を高くまとめ、白い医療コートの袖口を黒い手袋できっちりと留めている。

雨を含んだ裾には、すでに泥が細く跳ねていた。腰の薬剤瓶が、歩くたびに小さく触れ合う。


患者の顔を見る。寝台の間隔を見る。水桶と出入口へ目を移す。

最後に、白珠は娘の手元で視線を止めた。


「その布は、一人ずつ分けて」


娘が顔を上げる。


「桶も。足りなければ持ってこさせます。今の水は、ほかへ使わないで」


「は、はい」


娘が桶を脇へ寄せるのを待ってから、白珠はレイラに尋ねた。


「何人目」


「七……いや、今ので八。熱だけならまだしも、言ってることまで似てる」


白珠は寝台の脇に膝を折った。


浅い呼吸。汗に濡れたこめかみ。焦点の定まらない眼。

手首に指を添えると、乾いた唇が動いた。


「……みず……した……みず……」


「ほかの者も?」


「ほとんど。井戸の名を呼ぶ人もいた。寝かせ直しても、水路の方へ顔を向ける人も」


「背中は」


レイラの眉が、わずかに寄る。


「二人。皮膚の下で、何か動いた」


布を畳んでいた娘の手が止まった。


白珠は患者の襟元を確かめた。目立った傷はない。


「どんなふうに」


「筋が一本、滑るみたいに。背中を反らした時だけじゃない。じっとしてても動いてた」


白珠はうなずき、立ち上がった。


「付き添いは、いったん外へ出てもらいます」


「でも、家の人がいないと……」


娘の声が細くなる。


「名前と、いつから具合が悪いかを聞いておいて。着替えや持ち物も、誰のものか分かるように」


白珠は娘の目を見た。


「離すのは、見捨てるためではありません。あなたも、ここを出る時は私に声をかけて」


娘は唇を結び、うなずいた。


白珠が入口を振り返る。


「岳震」


布戸の脇に立っていた男が、すでにこちらを向いていた。


玄州治安隊隊長、岳震。


黒い外套の肩から雨粒が落ちる。

大柄な体が一歩入るだけで、入口がひどく狭く見えた。

頬を走る古傷も、険しい目つきも、病舎へ入ったからといって和らぎはしない。

ただ、腰の側刀には触れていなかった。


「聞いてる」


「出入りを絞ります。手伝いは二人。出た者と入った者を控えて。家族には外で待ってもらって」


「分かった」


「患者が動いたら止めて。傷つけないように」


岳震は奥の寝台へ目をやった。


「水路の死体と同じ動きをしてもか」


「まだ生きています」


短い返答だった。


岳震は白珠を見下ろし、それから一度だけうなずいた。


「なら、押さえる」


外へ出ると、すぐに低い指示が聞こえた。

入口を囲んでいた人影が離れ、戸口に一本、通れる幅ができる。


レイラはその背を見送った。


「話が終わる前に、もう閉めてる」


「聞いてはいるわ」


「聞くのと、待つのは別でしょ」


白珠が答える前に、奥で寝台が鳴った。


毛布が持ち上がる。


一人の工夫が、両肘を突いて身を起こしていた。

開いた眼は誰も見ていない。

喉の奥から湿った息が漏れ、伸ばした手が何もない空中を探った。


「おい、どうした」


付き添いの男が肩へ手を伸ばす。


工夫はそれを振り払い、寝台から足を下ろそうとした。

膝が支えを失い、体が前へ傾く。


「どいて!」


レイラが付き添いを引き離した。


工夫は床へ落ちかけながらも、入口へ腕を伸ばしていた。

足はもつれ、目は上がらない。

それでも、戸口の向こうへ進もうとする。


布戸が跳ねた。


岳震が踏み込み、工夫の上体を受け止める。

倒れる勢いを殺しながら床へ下ろしたが、工夫はその腕の中でも向きを変えようとした。


「手を貸せ」


呼ばれた隊員が駆け寄る。

二人で動きを止めても、工夫の指は床を探り続けていた。


「水へ行かせるな」


岳震の声に、入口の隊員が外を振り向く。


白珠はすでに隣へ膝をついていた。


「息ができるように。胸は押さえないで」


岳震が無言で位置を変える。


レイラは工夫の顔をのぞき込んだ。


「さっきまで話せたんだよ。名前も答えた。それが急に――」


「何を見ていた?」


「桶」


白珠の手が一瞬止まった。

レイラも、入口脇へ目をやる。


「布を絞った音で、顔を向けた。そのあと起きた」


「覚えておいて」


白珠は腰の検分道具入れを開いた。


「背中を見ます」


汗で張りついた衣を、必要なところだけ開く。


肩甲骨の内側に、細い盛り上がりがあった。


筋肉の動きとは違っていた。


男が息を吐いても、それは止まらない。皮膚の下をゆっくりと移り、腰の方へ沈んでいく。


付き添いが、喉を鳴らした。


「……何だ、それ」


白珠は衣を戻した。


「こちらへ。名前を聞かせてください。いつから熱が出たかも」


「こいつは、助かるのか」


白珠はすぐには答えなかった。

手袋をした指で、患者の手首をもう一度確かめる。


「まだ調べています。だから、今は水へ近づけません」


男の顔から、怒るための力が抜けた。

娘がそっと腕を引く。今度は振り払わず、男は戸口へ向かった。


レイラが声を落とす。


「水路で見たのと、似てる」


「ええ」


「同じもの?」


「そのつもりで備える。でも、同じと決めるのはまだ早い」


白珠は記録手帳を開いた。


「生きている者に、何が起きているのかを見ます」


その時、外で声がぶつかった。


「どけ! 弟がいるんだ!」


「今は入れん!」


「顔を見るだけだと言ってるだろう!」


岳震が顔を上げる。

患者を隊員へ任せ、戸口へ向かった。


庇の下で、二人の男が治安隊員と押し合っていた。

一人は年かさで、もう一人はまだ若い。泥だらけの手に、着替えらしい包みを抱えている。


年かさの男が、隊員の脇を抜けようとした。

岳震の手が先に出た。


男の腕をつかみ、病舎へ向かう勢いを横へ逃がす。

柱際で足を止めさせると、男は驚きより先に怒声を上げた。


「放せ!」


「中には入れん」


「俺の弟だ!」


「聞いた」


男がもう一度進もうとする。

岳震は動かなかった。

黒い外套の向こうに、病舎の入口はほとんど見えない。


「おまえを待たせている間も、中で手当てをしている」


「だったら、見せろよ……!」


声が最後だけ崩れた。


白珠が庇の下へ出てきた。


「弟さんのお名前は」


男は荒い息のまま名を告げた。

白珠は復唱し、手帳へ書き留める。


「いつから熱が出ましたか」


「昨夜だ。仕事から帰って、寒いって……今朝は、自分で歩いてきたんだぞ」


「飲んだ水は。食事は誰と」


男は白珠をにらんだ。

それでも、答えた。


若い方の男が、抱えていた包みを持ち上げる。


「これ、着替えで……」


「預かります」


白珠が手を差し出した。


「様子が変わったらお知らせします。お二人は、隣の庇で待っていてください」


岳震は男の腕から手を離した。

男は入口を見た。中から聞こえるうめき声に耳を澄まし、それから濡れた包みを白珠へ渡した。


二人が移動するのを見届けて、岳震が低く言う。


「今のうちに、待たせる場所を増やす」


「お願い。患者の通り道とは分けて」


「分かった」


そこへ張良が来た。


雨を弾く外套の後ろに、書記と治安隊員が二人続いている。

靴には斜面の黒土が厚くついていた。


張良はまず、戸口から離された家族たちを見た。

次いで病舎を見る。


「何人だ」


白珠が答えた。


「発熱が八人。

そのうち三人に、譫言か水場へ向かおうとする動きがあります。

皮下の索状運動を確認したのは、今ので三人」


書記の筆が動く。


「水路の件との繋がりは」


「疑っています。まだ断定はしません」


「分けられるか」


「裏の作業小屋を使います。

熱だけの者と、意識や行動に異常のある者を離したい。

寝具も、世話をする人も、できるだけ分けて」


張良は後ろの隊員へ目を向けた。


「小屋を空けろ。工具は資材置場へ。寝台と乾いた布を運べ」


隊員が走る。


「岳震、封鎖は」


「病舎前と井戸口に置いた。水汲み場には、まだ人が集まってる」


「止めろ」


「水がなくなると騒ぐぞ」


「代わりを出す」


張良は書記へ向き直った。


「飲み水の備蓄を確認。

別の水源を使えるか、白珠の側と相談しろ。

井戸と水汲み場は使用停止だ。

煮ればよいとは言わせるな。

何が起きているか、まだ分かっていない」


白珠がうなずく。

岳震は外套の襟を直した。


「工区が止まる」


「止める」


張良の返答に間はなかった。


「人を失ってからでは、工期の話もできん」


書記が顔を上げる。


「通達には、何と」


「水に関わる異常を調査中。立ち入りと取水を禁ずる。代わりの水は支給する」


張良は一度、病舎の奥を見た。


「分からんことを、分かったように書くな」


その奥で、床板がきしんだ。


押さえられていた工夫が、首を持ち上げようとしている。


「……みず……」


レイラがそばへ戻った。


「ここにいるよ。聞こえる?」


工夫の眼が、一瞬だけ彼女を捉えた。


「した……下の……」


唇が震える。


「……みず……」


レイラは入口を振り返った。


「下って、何?」


庇の雨だれをくぐり、カナタが姿を現したのは、その時だった。


肩まで濡れた外套に、泥と細い草が張りついている。片手に持った板へ、油布をかけていた。


「下へ集まっています」


張良が向き直る。


「水か」


「はい。

水抜き溝の先で、流れが地中へ落ちています。

掘削面にも、古い水の通り道らしい隙間がありました」


カナタは庇の下で油布を外した。

板に挟んだ紙には、切通しと排水溝の位置が描かれていた。

何本かの線が、底の一点へ寄っている。


「井戸だけを閉じても足りません。雨水もここへ入る」


白珠が図をのぞき込む。


「患者が向こうとしている方向と、合う?」


レイラは病舎の中を見た。

寝台の向き。工夫が伸ばした腕。戸口の先。


「……近い。でも、みんなが同じかは見ないと」


「確かめて」


白珠が言う。


カナタは紙の上に指を置いたまま続けた。


「もう一つ。上の見張り道に、新しい足跡がありました。一人分です」


岳震の視線が斜面へ動く。


「見張りか」


「そこまでは。

足跡の先に、草を倒して立ち止まった跡がある。

病舎と井戸が見える場所です」


「工夫じゃないのか」


「靴底の跡が、工区の支給靴とは違いました。

ただ、私物の靴を履く者もいる。外の人間とは断定できません」


張良は図から目を上げた。


「姿は」


「見ていません。雨で消えかけていました。今は水の流れの確認を優先しました」


「それでいい」


岳震の手が側刀の柄へ寄り、そこで止まった。


「人を置くか」


「二人一組。追わせるな。見つけたら知らせろ」


張良の指示に、岳震がうなずく。


レイラは床の工夫へ目を戻した。


「誰かが見てたとしてさ。この人たちがこうなったのを、見てたのか。それとも――」


「今は結びつけない」


カナタが静かに言った。


「水の異常と、人の跡。分けて確かめる」


白珠はその言葉を聞きながら、患者の開いた衣を整えた。

男の指が、彼女の袖に触れた。


つかむほどの力もない。

それでも白珠は立ち上がらず、呼吸が落ち着くまでそばにいた。


外で、鋭い笛が鳴った。

続いて井戸の方から声が上がる。


「縄を越えるな! そこから離れろ!」


岳震はすぐに戸口へ向かった。


張良が短く命じる。


「井戸口は任せる。患者が来ても、中へ落とすな」


「分かった」


「白珠、ここは頼む。必要な物は書記に出せ。

カナタは図を仕上げて、水の入口を洗え。調査には一人で入るな」


カナタがうなずく。


「レイラ」


張良に呼ばれ、彼女は顔を上げた。


「患者が何を見て、何に反応したかを残せ」


「分かった。水の音も、向きも」


岳震が雨の中へ出る。

黒い外套の背で、玄州治安隊の標章がひるがえった。呼ばれた隊員たちが、その後を追う。


白珠は白衣の裾をまとめ、運ばれてきた担架の脇へ膝をついた。


「こちらへ移します。ゆっくり」


レイラが反対側へ回る。

カナタは濡れた図を守るように抱え、書記と場所を空けた。


患者と付き添い。

使った布と、まだ使っていない布。

飲ませてよい水と、触れさせてはならない水。


分けるものが、次々に増えていく。


それでも、工夫の指先だけは同じ方を探っていた。


入口の向こう。

雨に煙る切通しの、その底へ。


床の継ぎ目から忍び込んだ細い水が、男の伸ばした指の先を横切った。


レイラが息を止める。

男の眼が、水を追って動いた。


「白珠」


呼ばれた白珠も、それを見ていた。


雨はまだ、止まなかった。

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