異変の共通性
見難い火傷の子682
異変の共通性
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
病舎の中は、雨の匂いより先に薬草と湿った布の匂いで満ちていた。
幕の合わせ目から冷えた風が細く入り込み、吊るした灯の火をわずかに揺らす。
粗い寝台を並べただけの仮の病室には、横たえられた工夫たちの荒い息が重なっていた。
咳の音はまばらなのに、熱のある者の吐く息だけが妙に熱く、
布越しにもこもっているのが分かる。
レイラは入口で外套を脱ぐと、濡れを払う暇もなく袖をまくった。
白珠はすでに最も容態の悪い者の脇にしゃがみ込み、額の布を替えている。
その手つきに迷いはない。
だが目だけは鋭く、落ち着きすぎていて、かえってこの場の尋常でなさを際立たせていた。
「三人、熱が上がっています。さっきより速い」
白珠は振り返らずに言った。
「咳は?」
「強くはない。でも呼吸が浅い。胸というより、背で息をしている感じがします」
レイラは眉を寄せた。
妙な言い方だった。だが見れば、たしかにそうだった。
寝台の上の男は胸を大きく上下させる代わりに、肩甲骨のあたりだけを細かく震わせている。
そこへ何か見えない板でも差し込まれているように、動きがぎこちなかった。
「水は」
「欲しがる者が多いです」
「飲ませた?」
「少しだけ。飲んですぐ吐いたのもいます」
白珠がようやく顔を上げた。
「井戸の水か」
「はい」
その短い返答のあと、幕の向こうで誰かがうわごとを漏らした。
小さく、はっきりしない声だった。
けれどレイラの耳は、その濁った響きの中に引っかかるものを拾った。
――みず。
彼女は反射的にそちらを向いた。
二つ目の寝台の若い工夫が、目を閉じたまま唇だけを動かしている。
汗で貼りついた前髪の下で、まぶたが細かく震えていた。
「今、何て」
白珠が立ち上がる。
レイラは寝台の脇へ寄り、顔を近づけた。
「もう一度」
返ってきたのは、言葉になりきらない息だった。
喉の奥で濁った水をかき回すような音がして、そのあとで男はかすかに顔を背けた。
「……した、へ……」
下へ。
レイラは指先が冷えるのを感じた。
水。下へ。
熱に浮かされたたわごとと切り捨てるには、向きが揃いすぎている。
「他の者は?」
白珠はすぐ横の老いた工夫を示した。
「あれはさっきから“冷たいところへ”と繰り返しています」
「井戸端へ行く、と起き上がろうとした者も一人います」
レイラは視線を走らせた。
病舎の中は狭い。寝返りひとつで、隣の者の苦しみまで伝わるほど狭い。
だがその狭さのなかで、発熱者たちの訴えだけが不自然に似ていた。
喉が渇く。
冷たいところへ。
下へ。
水。
偶然ではない。
三つ目の寝台で、痩せた男が急に身をよじった。
咳き込むのかと思った瞬間、その手が自分の胸ではなく背へ回る。
爪が布越しに肩甲骨の下をかいた。
一度では足りないように、何度も、苛立った獣のように掻きむしる。
「押さえて」
白珠が短く命じ、脇にいた手伝いが慌てて男の腕を取る。
だが男は熱に浮かされた力で、なおも背へ手を伸ばそうとした。
「痛いの?」
とレイラが問うと、男は目を開けないまま呻いた。
「……せな……せなか……」
背中。
今度は白珠も黙らなかった。
「場所は」
レイラは男の衣を少しだけずらした。
汗に濡れた背の皮膚は赤く熱を帯び、掻き壊しの筋がいくつも走っている。
だが、それだけではない。
背骨の左脇、肩甲骨の下あたりが、呼吸とは合わない間隔でぴくりと跳ねた。
レイラの手が止まる。
「……見ましたか」
白珠の声が低くなる。
「ええ」
「痙攣?」
「違う」
言い切った瞬間、自分でも驚くほど確信があった。
痙攣なら、もっと散る。もっと無秩序だ。
今の動きは一点に集まりすぎていた。
内側から押した、としか見えない小さな盛り上がりだった。
幕の外で足音が乱れた。
誰かが濡れたまま駆け込んできて、入口で息を切らす。
「白珠さま!」
詰所付きの若い者だった。
顔色は、もともと悪かったのか、今見たもののせいで悪いのか分からない。
「騒ぐな。何があった」
「第七切通しで……張良さまから伝達です。水下へ人をやるな、井戸を閉じろと。
死体は、あの、死体は――」
そこまで言って、若者の喉が詰まる。
言葉にした途端、それが本当になってしまうのを恐れている顔だった。
白珠は一歩で間を詰めた。
「見たままを言え」
若者は唾を飲み込み、震える声で言った。
「背が裂けて、中から黒いものが……。
動いていました。死体を、動かしていたみたいに」
病舎の空気が、そこで別の意味で静まった。
咳も、吐息も、布ずれもあるのに、中心だけが凍るような沈黙だった。
レイラはゆっくりと、目の前の発熱者の背を見下ろした。
肩甲骨の下。
掻き壊し。
水を求めるうわごと。
下へ行こうとする衝動。
そして、背の内側から押すような不自然な動き。
線が、一本につながった。
死体だけの異常ではない。
あれは結果だ。
ここに寝ている者たちは、その前段階にいる。
「白珠」
自分の声が、思ったより乾いていた。
「井戸の水を止めてください。今すぐ。飲用も洗いも全部です」
「理由は」
「まだ断定はできません。でも、共通しています。
水を欲しがる。下へ行きたがる。背中を訴える。
そして、背で何かが動いている」
白珠は一瞬だけ目を細めた。
疑っているのではない。決める速さを測っている目だった。
「隔離は」
「熱のある者を分けるべきです。歩かせない方がいい。
縛れとは言いませんが、少なくとも一人にしないで」
「死者は」
レイラは息を吸った。
喉の奥に、雨の冷たさではないものが引っかかる。
「……死後も、終わりではない可能性があります」
若い伝達役が青ざめた顔で一歩退いた。
白珠だけは動じなかった。
むしろ、そこから先の言葉を待つように顎を引く。
「工区の者たちに伝えて。熱のある者を水場へ近づけない。
遺体は単独で置かない。背を壁につけて安置しても駄目です。
見張りをつけてください」
「理由まで言う必要は?」
「まだいりません」
レイラは答えた。
「でも、“なぜか分からないが従え”では、もう持たない。すぐ噂になります」
「なるでしょうね」
白珠はあまりにも平坦に言った。
それがかえって恐ろしかった。
噂になる。抗議が来る。井戸が閉じる。
病人は隠され、死者は怖れられ、雨はまだ止まない。
白珠は手伝いの者たちへ向き直った。
「聞いた通りです。井戸水は止める。桶も伏せる。
熱のある者は幕の東側へ移す。付き添いは二人一組。
寝台ごと離し、背を掻かせるな。爪を布で巻け」
命令が飛ぶと、ようやく場が動いた。
誰もが半ば理解しないまま、それでも従うしかない速さで。
そのとき、最初に「水」とうわごとを漏らしていた若い工夫が、不意に大きく息を吸った。
溺れる者が水面へ顔を出すときのような、必死な吸い方だった。
レイラは振り返る。
男の閉じた瞼の下で眼球が激しく動き、
開きかけた口の端から、唾液ではない細い黒い筋がひとすじ垂れた。
糸のようにも見えた。
濡れた髪の一本のようにも見えた。
だがそれは、落ちる前にかすかに震えた。
病舎の空気が、またひとつ段階を変えた。
レイラはその黒い細筋を見つめたまま、低く言った。
「……間に合ってほしい」
その言葉が何に向けたものか、彼女自身にももう分かっていなかった。




