幕間 国家資格・脱皮師
見難い火傷の子671
幕間 国家資格・脱皮師
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
その会議は、はじめから穏やかに終わる気配がなかった。
領主館の奥にある評定の間は、秋の冷えを避けるために火鉢がいくつも置かれていたが、
それでも空気は温まらなかった。
長机の片側に領主の政務官と書記、その向かいに薬師ギルドの代表、
治癒師会の立会人、そしてラミア側の長老筋から選ばれた女がひとり。
さらに末席ではあるが、発言を許された者として、伯爵夫人エルゼと、
もうひとり――社交界ではすでに名を知られた脱皮師が座していた。
あの沢の子、と、古い者は今なおひそかに呼ぶ。
だがこの場で、彼女をそう呼ぶ者はいない。
今日ここへ来ているのは、流行の象徴ではなく、制度の当事者としての脱皮師だった。
議題は単純に見えた。
美容脱皮と称される施術の流行に伴い、無資格の施術、偽油の流通、
身元偽装への悪用、ならびに重大事故が相次いでいる。
これを受け、脱皮補助・若殻保護・皮質剥離・瘢痕調整に関わる技術者へ、
公的な認可制度を設けるべきかどうか。
単純なのは議題の文面だけで、その中身は、誰もが自分の足を踏まれかねぬ話だった。
「まず申し上げる」
口火を切ったのは、治癒師会の立会人として来ていた女だった。
爆炎のハナ。
戦場でも市井でも名を知られた治癒師である。
華やかな異名に似合わず、声は低く乾いていた。
「私は、美容流行そのものの是非を論じる気はありません。
人が己の顔を惜しむのは珍しいことではない。
だが、今、市中で行われている“剥離”の幾つかは、
どう見ても医傷に踏み込んでいます。
爛れ、発熱、感染、光過敏、疼痛、呼吸阻害。
私はそれを何件も診てきた」
薬師ギルドの代表が、わずかに肩をすくめた。
「だからこそ、正しい処方を扱える者に門戸を開くべきでは?
すべてを治癒師会の裁量に寄せれば、現場は回りませぬ」
「門戸を開くのと、無秩序に増やすのとは違います」
ハナは即座に返した。
「皮膚を剥ぐ者が、熱の上がり方も、腫れの見分けも、
敗血の匂いも知らぬまま商いをしている。
これを放置して“需要があるから”で済ませるなら、
次に死ぬのは顔で済まぬ者です」
その言葉に、室内がわずかに沈んだ。
死ぬ。
誰もそこまで大仰に言いたくはなかった。
だが、言える立場の者がいるなら、
それは実際に瀕死の患者を抱え上げてきた治癒師だけだ。
領主側の政務官が咳払いをひとつした。
「ゆえに本日は、完全な禁止ではなく、認可の枠組みを――」
「その前に」
ラミアの長老が口を開いた。
人間に比べればずっと緩やかな瞬きで、卓上の面々を見渡す。
「おまえたち人間は、いつも名をつけ、札をぶら下げ、帳面に書き込めば、
それで何かを得た気になる。
脱皮は札で始まるものではない。
生まれと季と湿りと、身の理で起きるものだ。
それに触れる知恵は、商いの前に生存のためのものだった」
誰も割り込まなかった。
言葉の重みではなく、その背後にある年月が、口を挟ませなかった。
「それを人間が流行にした。
若返りだの、傷を薄くするだの、見映えを戻すだのとな。
ならば今さら“国家が管理する”と言い出すのは、盗人が鍵番を名乗るようなものだ」
薬師ギルドの代表が不快そうに眉を動かしたが、政務官が先に応じた。
「ご懸念はもっともです。だからこそ、ラミア側の監修と認証を――」
「監修では足りぬ」
長老は切った。
「誰でも脱皮師を名乗れるようになるなら、いずれ“ラミア抜きでも足りる”と言い出す。
おまえたちは便利さの方へ流れる」
沈黙が落ちた。
そのとき、末席の伯爵夫人エルゼが静かに言った。
「ならば、今のままで良いのですか」
皆の視線が向いた。
以前ならこの場で口を挟む貴婦人を、何人かは鼻で笑っただろう。
だが彼女の左頬に残る薄い痕を知る者は、誰も笑わなかった。
「私は、無資格の施術で顔を損ねました。
治ったのではありません。
治していただいたのです」
そう言ってエルゼは、対面に座る脱皮師へ一度だけ目をやった。
「もしあの方がいなければ、私は部屋から出られなかったでしょう。
ならば、この技術を禁じればよいとは言えません。
けれど、誰でも名乗れるままでよいとも思いません。
わたくしは貴婦人ですから、まだ取り返す手立てがありました。
侍女や職人の娘なら?
兵士なら?
異種族の子なら?
ひとたび損ねた顔や皮を、誰が“流行の代償”として受け入れよと言えるのです」
その問いは、議論というより告発に近かった。
薬師ギルドの代表が、やや強い口調で言った。
「では結局、誰に独占させるおつもりか。
ラミアだけか。
治癒師だけか。
さもなくば一握りの名士だけか。
民に行き渡らぬ技術は、また闇を育てますぞ」
「独占ではありません」
そのとき初めて、沢の子が口を開いた。
声は高くなく、よく通った。
会議の場で響かせるための声ではなく、痛む者へ無駄なく届かせる声だった。
「わたしが欲しいのは独占ではなく、境です」
薬師代表が片眉を上げた。
「境、とは」
「どこまで手を出してよいかを、知っている者だけが触れることです」
彼女は卓上の自分の手を見た。
白く長い指は、華奢に見えて傷跡ひとつない。
だがその手が、どれほど多くの爛れた頬や裂けた皮を触れてきたかを、エルゼは知っていた。
「剥がせることと、剥がしてよいことは違います。
熱のある皮に、強い油を重ねてはならない。
炎症の匂いと、回復の匂いは違う。
羞恥で息の浅くなった者に、灯りを向けてはならない。
見られたくない時の眼差しが、どれほど痛いかを知らぬ者に、脱皮室は扱えません」
最後の一文で、ハナがほんのわずかに目を細めた。
反発ではなかった。値踏みでもない。
ようやく本題が机の上へ置かれた、というような表情だった。
「ならばなおさら」と彼女は言った。
「そこまで言うなら、境は言葉ではなく規定にすべきです。美容と称して熱傷を悪化させる者を止めるには、“心得”では足りない。どこから先は治癒師へ引き継ぐか。発熱、感染、広範囲損傷、粘膜近辺、呼吸を妨げる腫れ――その線引きを明文化しなさい」
「治癒師会の支配下へ置け、と?」
薬師代表が棘を含ませる。
「いいえ」
ハナは首を振った。
「それでは脱皮の理を知らぬ者が上に立つ。
私が欲しいのは支配ではなく、責任の受け渡しです」
その言い方に、政務官の目がひそかに光った。
盤面が整い始めた時の顔だった。
彼は書記へ目配せし、ゆっくりと言った。
「では、こう考えてはどうでしょう。
脱皮師は、治癒師の下位ではなく、独立の国家資格とする。
ただし職域を限定する。
若殻保護、脱皮補助、軽度から中等度の皮質調整、美容脱皮、瘢痕調整。
対して、発熱、感染、生命に関わる急変、
広範囲損傷は治癒師の専権、もしくは立会い必須とする」
薬師代表が腕を組む。
「受験資格は」
「そこです」
と、長老が低く言った。
「人間が帳面を作るなら、ラミアは門の鍵を持つ。
少なくとも上位資格については、ラミア師の実地証明なくして与えてはならぬ」
「それでは人数が増えぬ」と薬師代表。
「急増させてどうする」とハナ。
「急増した結果が今でしょう」とエルゼ。
政務官は、言い争いが再び熱を持つ前に、静かに指を打った。
「初等は国家試験とし、上位は実地証明を要する。
調合については別枠の認証も設ける。
薬師ギルドには処方管理と原料監督の席を残す。
治癒師会には重症時の連携規定作成へ加わっていただく。
ラミア側には上位認証と脱皮室規定の監修権を」
薬師代表が目を細めた。
「ずいぶん綺麗に分ける」
「綺麗に分けねば、争いは終わりません」
政務官は微笑みもしなかった。
「国家が欲しいのは、技術そのものではありません。
事故を減らし、偽装を抑え、責任の所在を明らかにすることです。
皆が少しずつ譲れば、皆が最も失いたくないものは残る」
それは詭弁にも聞こえた。
だが優れた制度の言葉は、だいたい少し詭弁めいている。
全員に得をさせるためではなく、全員に“負けではない”と思わせるために。
しばしの沈黙のあと、ハナが口を開いた。
「ひとつ条件があります」
政務官が頷く。
「資格の条文に、“尊厳の保護”を入れなさい」
何人かが怪訝そうにした。
法文に載せるには曖昧すぎる言葉だ、と顔が言っていた。
ハナは続けた。
「脱皮と皮質施術は、傷だけを扱うのではない。
見られる苦しみ、晒される羞恥、無防備であることの恐怖に触れる。
そこを外した資格は、結局また流行屋を量産するだけです」
エルゼが、そっと息を呑んだ。
長老は目を閉じた。
沢の子は、その長い睫毛の影を伏せたまま、初めてわずかに頷いた。
「異議なし」
その一言は短かったが、場の重みを変えるには十分だった。
こうして条文はまとめられていった。
脱皮師は国家資格とする。
初等・正級・上級を設ける。
上級はラミア師の実地証明を必須とする。
重篤な損傷・感染・高熱・広範囲施術は治癒師との連携を要する。
調合油には認証を要し、施術記録は保管する。
罪人印や身元標の除去が疑われる場合は届出義務を課す。
そして――施術者は、施術対象の尊厳を守る義務を負う。
評定が終わるころ、外はもう暗かった。
人々が立ち上がり、書記が羊皮紙を束ね、
火鉢の赤が小さくなる中で、
ハナは帰り支度を整えていた沢の子へ歩み寄った。
「あなたの技を、私はまだすべて理解していない」
沢の子は静かに彼女を見た。
ハナは続ける。
「だが、傷をこれ以上ひろげぬために境を欲する、その考えは正しいと思います」
それは治癒師なりの最大限の歩み寄りだった。
沢の子はしばらく黙っていたが、やがて答えた。
「あなたの言う熱と敗血を、わたしはあなたほど知りません」
「知る必要はありません。知ったふりをしなければいい」
「ええ」
ほんのかすかに、沢の子の口元がやわらいだ。
「その代わり、見せたくない時に見せぬ方法なら、わたしが教えられます」
ハナは、そこで初めて笑った。
爆炎と呼ばれる女にしては、ごく小さな笑みだった。
数日後、布告が出た。
国家資格「脱皮師」創設。
施行は翌春。
初回の特認名簿には、調合監修としてラミアの長老筋の名があり、
医療連携規定の起草者として爆炎のハナの名があり、
そして筆頭施術監督者として、一人のラミアの名が記された。
華やかな異名ではなかった。
飾りも肩書も削ぎ落とした、短い実名だった。
だが市井の者たちは、もっと別の名でその布告を語り合った。
――あの沢の子が、とうとう国に手を認めさせた。
それは勝利の噂というより、長い回り道の末に、
ようやく傷へ触れる手に責任が与えられた、という安堵に近かった。




