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見難い火傷の子  作者: 清風
672/676

幕間 守る部屋

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子672


幕間 守る部屋


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


都では、言葉というものがよく磨り減る。


誰かの切実な名づけが、別の誰かの口へ渡るうち、響きだけを残して軽くなる。

はじめは祈りだったものが流行語になり、掟だったものが売り文句になる。

沢の子は、それを知らないわけではなかった。

知らないわけではなかったが、茶会帰りの貴婦人たちが馬車の窓越しに笑いさざめきながら、


「新しい脱皮室、もうお試しになって?」


などと話しているのを耳にした時には、さすがに歩みを止めた。


その横で、爆炎のハナが眉をひそめた。


「……また碌でもない名をつけたものね」


沢の子は返事をしなかった。

しなかったが、その尾の先が、外套の裾の内側でかすかに強ばったのを、ハナは見逃さなかった。


脱皮室。


それは本来、香を焚いて寛ぐための部屋ではない。

気取った女たちが寝椅子に身を預けるためのものでもない。

湿りを保ち、光をやわらげ、布の向こうに視線を遮り、

ひとが最も無防備になる時期を、せめて静かにやり過ごすための場所だ。

そこへあるのは美しさではなく、生理であり、痛みであり、ときに恥であり、

何よりも――守られるべき時間だった。


それを、都の者たちはまた、ずいぶん軽やかに使う。


「見に行く?」


とハナが言ったのは、その日のうちだった。

気遣い半分、面白がり半分の声音だったが、沢の子はうなずいた。


「見ておきます。名だけ借りた別物なら、せめて訂正は必要です」


「もし別物ではなく、そこそこ筋が通っていたら?」


「その時は……考えます」


考える、と言う時の彼女は、たいていもう半分、考えを変える準備をしている。

ハナはそのことを知っていたので、それ以上は何も言わなかった。


都の南区画、湯屋や香油店が並ぶ通りを一本入った先に、その店はあった。

守る部屋――都風・脱皮室

という控えめな木札が下がっている。

あまりに正直な名で、かえって胡散臭さがない。


沢の子は入り口の前で一度立ち止まった。

格子戸の隙間から漏れてくるのは、甘すぎない草の香りと、温んだ水気だった。

中で誰かが笑っている気配はあるが、大声ではない。

女たちの集まる場所には珍しく、笑いが響いてはすぐ吸われていく。

湿った布に音をくるまれたような、やわらかな静けさがある。


迎えに出た女主人は、人間だった。

四十前後だろうか。

髪をきちんと結い、衣の袖を邪魔にならぬよう留めている。

沢の子の姿を見ると、相手が誰であるかすぐにわかったらしく、少しだけ背筋を正した。


「本日は、お見分けに?」


「ええ」と沢の子は言った。

「その名を使うほどの理由があるのか、確かめに」


女主人は一瞬も怯まなかった。

「あります、と申し上げたいところですが……まずはご覧いただければ」


中へ入ると、そこは沢の子が思っていたものとも、思いたくなかったものとも、少し違っていた。


まず明るすぎない。

昼だというのに障子の外には薄布がもう一枚垂れ、白い光がさらにやわらいでいる。

灯りは壁際に低く置かれ、顔よりも足元をあたためる。

床板にはところどころ厚布が敷かれ、素足で歩いても冷えない。

部屋は幾つかに仕切られていたが、完全な個室ではなく、

半透明の布越しに人影がぼんやり揺れる。

その距離が絶妙だった。

近すぎず、遠すぎず、孤独にはしないが、見世物にもさせない。


湯気は濃すぎない。

むせるほどではなく、喉と肌がほどよく湿る。

香りは若殻保護油を真似たものだろう、草の青みと樹皮の甘さに、

ごく少しの土の匂いが混じっていた。

本家の処方には及ばない。

けれど、「似せよう」としたのではなく、「休まりやすく」整えたのだとわかる。


そして何より、誰も急かされていなかった。


若い女が寝椅子で目を閉じ、侍女風の者が足元へ温布を置く。

年かさの職人らしい女が、肩へゆるく油をなじませてもらいながら、うとうとしている。

産後まもないのか、腹帯を締めた婦人が、仕切り布の向こうで浅く息を整えている。

どの顔にも、流行の店にありがちな、もっと美しくなりたい、

もっと早く変わりたい、という焦りがない。


ハナが、低く口笛を吹いた。


「……思ったよりまともね」


「思ったより、というのが失礼ですが」


女主人は苦く笑った。

「最初は、もっと違うものを期待して来られるお客様もおりました。

“秘密の美容術”だの、“肌を一夜で変える”だの。

ですが、そういう方は長くは居つきません。

ここで売っているのは変化ではなく、休みですから」


沢の子は、その言葉に目を細めた。


女主人は、案内しながら静かに語った。

この店を開いたのは三年前。

もともとは乾燥肌や不眠を抱えた女たちのための蒸し湯殿だった。

だが、異種族の施術施設に勤める遠縁の女から、「脱皮室」という場の話を聞いたのだという。

光を弱めること。

湿りを保つこと。

無駄に見せないこと。

弱っている者へ“整えろ”と迫らぬこと。

そうした考え方に心を打たれ、湯殿へ取り入れてみたところ、予想以上に客が戻ってきた。


「皆さん、疲れておられるのです」


女主人は、仕切り布の向こうへ目をやった。

「あたりまえの顔で起き、あたりまえの顔で笑い、具合が悪くても働き、

眠れなくても朝になれば装って出ていく。

その途中で、どこかへ弱った顔を置いてくる場所が必要なのだと思います」


その言い方に、ハナがふと黙った。

治癒師として、同じような顔を何度も見てきたのだろう。

倒れるほどではない。

だが倒れないことに、本人も周囲も甘えてしまう顔。

薬を出すほどでもない、と追い返され、結局こじらせてから運ばれてくる類の疲れ。


沢の子は、奥の部屋で足を止めた。


そこは他よりさらに暗く、床が少し高くなっていた。

柔らかい籠もり台が壁沿いに並び、低い天井に温気がたまっている。

ひとりの若い娘が、衣をきちんと整えたまま横になって眠っていた。

眠る、というより、ようやく落ちた、という顔だった。

頬には薄い化粧の名残、指先には針仕事の小さな傷。

店の者が掛布を肩まで引き上げても、彼女は起きない。


「三日、ほとんど眠れていなかったそうです」


女主人が小声で言う。

「婚礼前の支度で、家中の女たちに気を遣って、笑って、

泣いてはいけないと言われていたとか」


沢の子は何も言わなかった。


布にくるまれ、湿りのなかで眠るその娘の姿は、彼女に別のものを思い出させた。

暗がりと水の匂い。

肌が痛み、空気がこわく、見られるだけで身を引き裂かれるようだった頃のこと。

あの時、自分に必要だったのは立派な施術ではなかった。

ただ、乾かされず、覗かれず、急がされずにいるための場所だった。


守る部屋。


口の中で、その名が少しだけなじんだ。


「名を借りたことについては」


沢の子がようやく言うと、女主人の肩がわずかに固くなった。

「ご不快でしたら、札は替えます」


「いいえ」


意外そうに顔を上げる女主人へ、沢の子は視線をまっすぐ返した。


「ただし、“脱皮”を売り文句にはしないでください。

本当に剥がす技と混同されると危険です。

ここは施術の場ではなく、休む場です。

その違いは、はっきりさせた方がいい」


女主人は深く頭を下げた。

「承知しました。名は残しても?」


沢の子は少しだけ考え、うなずいた。

「残すなら、意味も残してください。

ここは美しくする部屋ではなく、弱っていてもいてよい部屋だと」


それを聞いた女主人の目に、安堵がひろがった。

商売の許しを得たというより、自分たちのしてきたことに名前を与えられたような顔だった。


店を出たあと、通りには夕方の冷えが落ち始めていた。

湯気の気配が肌から離れると、外気は思ったより鋭かった。

ハナが外套を引き寄せながら言う。


「気に入った?」


「気に入った、というのは違います」


沢の子は歩き出す。

「でも……嫌ではありませんでした」


「上出来ね」


「本物とは違います」


「当然でしょう」


「ただ」


そこで彼女は少し言葉を探した。

尾の先が外套の内で、今度は硬くならず、静かに揺れている。


「本物と同じでなくても、あの部屋で救われる者はいるのでしょう。

剥がされるためではなく、何も求められずに包まれるために」


ハナは横目で彼女を見た。

あの沢の子が、自分の大事な言葉を他者に使われることを、

完全ではないにせよ受け入れたのだ。

それは小さな譲歩のようでいて、実のところかなり大きい。


「治す前に休ませる場所、ね」


ハナはひとりごとのように言った。

「悪くないわ。私の患者にも、ああいう部屋へ先に放り込みたいのが何人もいる」


沢の子は少しだけ笑った。

「放り込まれて喜ぶでしょうか」


「最初は怒るでしょうね。眠ったあとで礼を言うわ」


都ではその後も、「脱皮室」という言葉は相変わらず軽やかに使われつづけた。

流行好きの貴婦人は新しい店をそう呼び、気取った店主は札にその字を入れた。

中には意味も知らず飾りだけ真似るところもあり、沢の子が眉をひそめることは何度もあった。


けれど一方で、その名を掲げる部屋のいくつかは、たしかに疲れた者を守っていた。

乾いた者へ湿りを。

強ばった者へ温みを。

見られ疲れた者へ、ぼんやりとした布の向こう側を。

整えろとも、美しくあれとも、元気になれとも言わず、ただ少し横になっていろと許す空間を。


それは本来の脱皮室とは違う。

違うが、その根にはどこか同じものが流れていた。


最も弱っている時に、せめて傷つかずにいられる場所。


都の者たちは、その意味をきちんと理解してはいなかったかもしれない。

それでも、言葉が磨り減るばかりではなく、

ときに別の誰かを守る形へひろがることもあるのだと、

沢の子はその日、湯気の匂いの奥で少しだけ学んだ。

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