幕間 沢の子
見難い火傷の子670
幕間 沢の子
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
伯爵夫人エルゼは、三十をいくつか越えたころから、鏡を見る時間が長くなった。
年齢を恥じていたわけではない。
むしろ彼女は、自分が若いころから整いすぎた美貌で見られてきたぶん、
歳月がそれを少しずつ変えていくことを、半ば当然のものとして受け入れていた。
だが、当然で済ませない女たちが社交界には多すぎた。
頬の薄い影、目元の乾き、口辺に残る疲れ。
そうしたものを拾って囁き合う声は、本人に届くより先に侍女に届き、
侍女から隠され、隠されたことによってかえって本人に伝わる。
そこへ、「剥ぐ」という噂が入った。
古い皮をやわらげ、傷んだ皮膜だけを浮かせて落とし、新しい肌を出す。
ラミアの若殻保護から転じた秘伝の油で、痘痕が薄れ、火傷痕が和らぎ、くすみが抜ける。
刺青ですら、浅いものなら消えるらしい。
最初は笑い話だった。
だが、湯殿でささやかれ、茶会で伏せた声になり、
ついには顔なじみの侯爵夫人が、意味ありげに頬へ手をやってみせた時、
エルゼの胸は不意にざわついた。
「ほんの少し整えるだけですの。誰にも気づかれない程度に」
その「誰にも気づかれない」が、いちばん危うい言葉だと知るのは、ずっと後のことだった。
正規の施術は予約が詰まり、紹介状もいる。
なにより、最近はラミア側の監修だの、施術資格だのと面倒が増えていると聞く。
その点、侯爵夫人が耳打ちした施術師は手早かった。
名は伏せられ、看板もない。
けれど「本家より強い処方を持っている」という評判があった。
強い、というのは、たいていろくでもない意味だ。
薄暗い施術室で、甘い香と薬草の苦みが混じる油を顔へ塗られた時、
エルゼはすぐにおかしいと思った。
熱かった。
温かいなどというものではない。
皮膚の内側へ針を差し込まれるような、じわじわとした灼けが頬からこめかみへ這った。
「効いております」
施術師はそう言った。
「少し我慢を」
その「少し」のあいだに、エルゼの頬では何かが取り返しのつかない形で剥がれていた。
翌朝、鏡台の前で侍女が息を呑んだ。
布を取らせる前から、その沈黙でわかった。
左の頬からこめかみにかけて、皮膚はまだらに赤く光り、
薄く剥けた箇所と、逆に焼きついたように硬く縮れた箇所が入り混じっていた。
口元はわずかに引きつり、笑おうとすればひりつき、外気に触れるだけで痛んだ。
それから伯爵夫人は人前へ出なくなった。
来客はすべて断られ、鏡には布がかけられた。
侍女は朝夕の灯りを弱め、窓辺の厚布を閉ざし、部屋の香も薄くした。
噂は閉じた扉を通り抜ける。
女たちは哀れみと好奇心を半分ずつ混ぜて囁いた。
あの伯爵夫人が。
美貌で鳴らしたあの人が。
欲をかいたのだ。
強い処方に飛びついたのだ。
もう社交界へは戻れまい。
エルゼは怒る気力もなく、そのどれもが事実のように思えた。
欲をかいた。
急いだ。
誰にも気づかれぬよう、ひそかに美しくなろうとした。
その結果がこの顔だ。
ならば笑われても仕方ない。
ただ、笑われるよりつらかったのは、侍女が自分を見る時に一瞬だけ目を伏せる、
その微かなためらいだった。
ある夕暮れ、家令が、ひとりの施術者を呼んでよいかと申し出た。
「例の、ラミアの……」
「いりません」
エルゼは寝台のほうを向いたまま答えた。
「見世物になるくらいなら、このままで結構です」
家令は退かず、しばらく黙ってから言った。
「その方は、むりには見ないそうです」
エルゼはその言葉だけで、少しだけ振り向いた。
翌日、来たのは若いラミアの女だった。
若いと言っても、少女ではない。年の頃は人間なら二十代の半ばほどに見える。
上半身は端正で、動きに無駄がなく、まとう布は飾り気が薄いのに目を引いた。
肌には奇妙な艶があったが、それが派手に見えないのは、
本人の視線が少しも自分を誇っていないからだろう。
伯爵家の侍女たちですら、その姿を前にすると囁きを忘れた。
それが、社交界で半ば伝説のように語られる脱皮師だった。
若返りの奇跡をもたらす者。
痕を消す者。
貴婦人たちが予約の順を争う、美容脱皮の第一人者。
エルゼはそういう噂を聞いていた。
だが部屋へ入ってきた女は、客を品定めする商人の目も、
奇跡を売る見世物師の笑みも持っていなかった。
「お顔は、見せられる時で構いません」
最初の言葉がそれだった。
慰めでも励ましでもなく、急かしもしない。
エルゼは返事をしそびれた。
ラミアの女はそれ以上なにも言わず、窓辺の厚布の隙間を確かめ、
香炉を遠ざけさせ、水差しの位置を変え、灯りをひとつ消した。
光と匂いと乾きが、傷んだ皮膚にどれほど刺さるかを知っている動きだった。
「……あなたは、見ても驚かないのですか」
ややあって、エルゼは尋ねた。
「驚くために参ったのではありません」
淡々とした声だった。
その平坦さが、かえって残酷ではなく感じられた。
エルゼはしばらくためらった末、自ら布を外した。
女は近づいたが、いきなり触れはしなかった。
まず目で見て、それから侍女にぬるい水を持たせ、香りのほとんどない油壺を開けた。
草と土と、ごく微かな雨の匂いがした。
「……治りますか」
女はすぐには答えなかった。
沈黙は残酷にもなり得るのに、その沈黙は秤のようだった。
軽々しく希望を載せないための時間に思えた。
「元通りには戻りません」
エルゼは息を止めた。
けれど次の言葉は、思ったより静かに胸へ入った。
「ですが、熱は引かせられます。
引きつりもやわらげられます。
痕は今よりずっと目立たなくできます。
光を怖がるほどの痛みも、なくせるでしょう」
「……時間は?」
「かかります」
即答だった。
「急いで剥がせば、また傷みます」
その一言で、エルゼは初めて、この女が売っているものの正体を知った気がした。
美しさではない。
早さでもない。
傷めないことだ。
施術は、噂に聞く華やかな美容術とはまるで違っていた。
まず灼けた皮膚を鎮め、湿りを保ち、ひびのように縮れた箇所をやわらげる。
剥がすより先に、守る。
熱が引いた数日後、ようやく薄く浮いた古い皮膜だけを、ごく狭い範囲ずつ整える。
赤みの強いところは触らない。
痛みが増す日は進めない。
侍女には、灯りと湿度、布の当て方、洗い流す水の温度まで細かく言い含める。
「まるで病人あつかいですのね」
最初の数日、エルゼは皮肉を言った。
ラミアの女は顔も上げずに答えた。
「傷んだ皮は、気位では治りません」
あまりに身も蓋もなくて、エルゼはかえって笑ってしまった。
笑うと少し痛んだが、その痛みすら、前より生きたもののように思えた。
施術に通ううち、エルゼはその脱皮師が社交界で語られているような、
媚びた美貌の魔女ではないと知った。
客の噂話には乗らず、見物を嫌い、紹介で来た婦人たちにも、
無理な処置ははっきり断る。
若返りたい、白くなりたい、もっと削ってほしい、
とせがむ声には冷ややかで、だが傷を負った者の沈黙には妙に辛抱強かった。
ある日、エルゼはたずねた。
「あなたは、どうしてそのように……見られることを嫌うの」
女の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「嫌うのではありません」
そう言ってから、少し遅れて言葉を継いだ。
「知らぬ者に勝手に奪わせぬだけです」
それだけだった。
だがその一言の底に、エルゼには触れてはならない暗さと、
触れた者しか持ちえない確かさがあった。
後日、家令から聞いた話で、エルゼははじめて知る。
この女は昔、まだ幼いころ、沢で半ば死にかけていたところを見つかったのだと。
脱皮のさなかで、暗がりと湿りがなければ皮が割れ、
無遠慮な視線すら苦痛となる時期に、人間の生活圏へ迷い込んでしまったラミアの幼体。
その一件をきっかけに、人間側はようやく脱皮室を整え、
立ち入りの線引きを学んだのだという。
あの沢の子。
侍女が囁いたその呼び名を、エルゼは胸の内でそっとなぞった。
なるほど、と彼女は思った。
この女は、ただ肌を剥ぐ技を持つから人を救うのではない。
見られたくない時に見られる苦しみを、知っているから救えるのだ。
季節がひとつ巡るころ、エルゼの頬の赤みはやわらぎ、
口元の引きつりも目立たなくなっていた。
近くで見れば痕は残っている。
完全ではない。
だが彼女はもう、鏡台に布をかけさせなかった。
薄い化粧を自分の手でのせ、窓辺の光を少しだけ受けても目を背けなくなった。
久しぶりの茶会へ出る朝、侍女が震える声で「お綺麗です」と言った時、エルゼは首を振った。
「違うわ」
そうして鏡の中の自分を見た。
戻ったのではない。
失ったままのものもある。
だが、もう隠れるしかない顔ではなかった。
「生きていける顔になったのよ」
その茶会で、女たちは当然のように尋ねた。
どこで治したのか。
何を塗ったのか。
どんな処方か。
どれほど剥がしたのか。
エルゼは杯を置き、少しだけ間を置いて答えた。
「剥がしたのではありませんわ。守ってもらったのです」
その言葉はやがて、思いがけない広がり方をした。
闇施術への取り締まりを求める声が高まり、
施術者の氏名と処方の記録を残すべしという議論が起こり、
ついには領主とギルド、ラミア側の長老筋を交えた認可制度の話し合いへ発展する。
脱皮油はもはや秘密の流行では済まなくなった。
扱う者には知識と責任が要る。
痛みと羞恥に触れる技術だからこそ、名乗るだけの者に任せてはならない。
そうして、公認脱皮師という資格が定められた時、
その名簿の筆頭に置かれたのは、華やかな通り名ではなかった。
古い記録を知る者の間では今なおひそかに、彼女は別の名で呼ばれる。
――沢の子。
それは流行の女王の名ではない。
苦しみを見世物にされかけた幼体が、
自らと同じ苦しみを負う者たちのために、
剥ぐ技ではなく守る技を極めた証の名であった。




