幕間 隣村の脱皮室
見難い火傷の子669
幕間 隣村の脱皮室
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
沢見村にラミア幼体用の脱皮室ができた、という話は、
当事者たちが思っていたより早く、周辺へ広がった。
もっとも、広がったのは事の重みではなく、結果のほうだった。
湿りを保ち、暗く、静かで、外気をやわらげる部屋を作ったところ、
脱皮に入った若い個体が沢よりも安定して若殻期を越えた。
壁はやわらかく、床は滑りにくく、必要なものだけを外から渡せる。
人の手が届きすぎないように作られている。
そういう話だけが、工事を手伝った者や、荷を運んだ者や、
村に出入りする行商の口を経て、少しずつ遠くへ運ばれていった。
痛みや羞恥や禁忌の話は、そううまく運ばれない。
たいていの噂というものは、役に立つところから先に薄まっていく。
だから、一つ沢を隔てた隣村で最初に注目されたのは、
あの部屋が「湿りに強い」という点だった。
次に「静かで眠りやすいらしい」となり、
その次には「古傷や腰のこわばりにもいいらしい」となった。
言い出したのは、木地師だったとも、荷運びだったとも言われる。
沢見で作事を見た者が、自分の村へ戻ってから、
「あれは人間にも悪くない」とこぼしたのが始まりらしい。
山仕事をする者は、雨に打たれ、冷え、節々を痛める。
鉱夫や荷運びも同じだった。
蒸し風呂ほど熱くなく、湯を大量に沸かすほど贅沢でもなく、
ただ湿って暗く、静かで、身体をゆるめる場所。
そう聞けば、試してみようと思う者はいる。
隣村で最初に作られたそれは、沢見のものよりずっと雑だった。
土を浅く掘り、木で骨を組み、苔と布と泥で隙間を塞いだだけの、
低い湿室である。
中で横になれる者は二、三人。
入口は曲げてあるが、遮りは甘い。
暗さも湿りもあるにはあるが、ラミア幼体を守るための
切実な線引きまでは写し取られていない。
それでも人間たちは、入ってみると存外よいと言った。
息が詰まるほど熱くはない。
だが湿りは深く、外気よりずっと柔らかい。
腰の固まりが抜ける。
古傷がゆるむ。
汗が滲み、寝不足の頭が鈍くほどける。
そして、誰かが面白半分に言った。
「こりゃ、脱皮室ってやつだな」
笑いが起きた。
その場にラミアはいなかった。
いたとしても、その笑いの意味まではすぐ分からなかっただろう。
人間たちは別に、幼体の苦しみを笑ったつもりではない。
ただ、沢見で聞いた新しい名前を、そのまま借りただけだった。
少し変わった名には、人を寄せる力がある。
まして、効き目があるらしいとなればなおさらだった。
それからしばらくして、沢見村へ妙な噂が戻ってきた。
隣村で脱皮室が評判だという。
仕事帰りに入る者がいる。
古傷持ちの年寄りが通っている。
嫁たちのあいだでは、静かで一人になれるからと好まれている。
最初にそれを聞いた沢見の者たちは、うまく笑えなかった。
役に立つなら良いことのはずだった。
自分たちが試行錯誤して作った湿室の工夫が、
人間の暮らしにも応じるのなら、それ自体は悪い話ではない。
だが、名前がよくなかった。
「あれを、そう呼ぶのか」
と、誰かが言った。
その声は呆れにも、非難にも、少し届かなかった。
ただ、座りの悪さだけが残った。
匠ーがその話を聞いたのは、材の見積もりをしている時だった。
報せを持ってきた男は、半ば感心したように語った。
隣村のやつらは商売が早い、だの、
そのうち沢見より立派なのを作るかもしれん、だの。
匠ーは手を止め、しばらく黙っていた。
「家よりましだって話が、
保養小屋の評判になるのは、早いな」
それだけ言って、また木片に目を落とした。
声に怒りはなかったが、面白がってもいなかった。
必要から生まれたものが、必要の薄い場所へ行くにつれて
別の意味を帯びることくらい、匠ーにも分かっていた。
分かってはいても、気持ちよく飲み込める類の話ではなかった。
本当にまずかったのは、その名がラミア側の耳にも入った時だった。
沢見村へ薬材を届けに来た年長個体が、
村人の立ち話の端でそれを聞いた。
隣村の脱皮室が流行っている。
汗がよく出る。
腰に効く。
静かで寝やすい。
そういう断片を、長い沈黙のあとで拾い集めるように聞くと、
その個体はしばらく何も言わなかった。
表情の読みづらい顔だったが、
そばにいた沢見の者には、空気が少し冷えたのが分かった。
「……人間も、脱皮するのか」
真顔でそう問われて、村人たちは答えに詰まった。
冗談めかして笑うには、声が出なかった。
「いや、そういうわけではなくて」
「名だけ、というか」
「元の造りを真似て」
口々に言い足すほど、弁明はみじめになった。
年長個体はそのしどろもどろを遮らず、ただ聞いていた。
聞いたうえで、低く言った。
「脱皮室は、楽になるための部屋ではない」
短い言葉だった。
怒鳴りもしない。
責め立てもしない。
だが、その一言の奥にある重さは、人間たちにも十分に伝わった。
あれは汗を流してくつろぐ場ではない。
殻が裂け、身がやわらかくなり、
足音ひとつ、灯りひとつが苦痛になる時期をやり過ごす場だ。
静けさは、気分が落ち着くから必要なのではない。
これ以上、痛みと羞恥を増やさないために必要なのだ。
人間たちは、その時になって初めて気づいた。
借りたつもりだったのは構造だけではない。
その名に張りついていた、相手の苦しみの文脈まで、
無自覚のまま持ち出していたのである。
悪意はなかった。
だが、悪意がないことと、傷つけないことは同じではなかった。
その後、沢見村では人間向けの湿室を
なるべく脱皮室と呼ばないようにしよう、という話が出た。
蒸し室だの、静養湿室だの、沢蒸しだの、
言いやすい名はいくつか挙がった。
けれど、いったん広がった俗称はしぶとい。
隣村ではしばらくのあいだ、やはり脱皮室と呼ばれ続けた。
沢見の者も、ラミア側も、そのたびに少しだけ微妙な顔をした。
とはいえ、村を越えて口にされた言葉を完全に止めることはできない。
せいぜい、近しい者には事情を話し、
少なくとも沢見では軽々しく使わぬようにするのが精一杯だった。
技術は伝わる。
便利さはすぐ広がる。
だが、その技術がどんな痛みから生まれ、
どんな沈黙を守るために整えられたのかは、
便利さほど素早くは伝わらない。
沢見村に最初の脱皮室が作られた時、
人間はたしかに、相手の身体に合わせて場を作ることを覚え始めた。
けれど、場の意味まで学びきるには、
まだもう少し時間が要るのだった。




