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見難い火傷の子  作者: 清風
664/679

5. 沢に残るもの

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子664


5. 沢に残るもの


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


沢の空気が、少しだけ変わっていた。


朝の底冷えはまだ石の裏に残っているのに、頭上の光はもう青みを抜きはじめている。

木の葉の隙間から落ちる筋が、倒木の根元をわずかにずらし、濡れた苔の面を鈍く照らした。

長く張りつめていたせいか、そのわずかな明るさの変化だけで、

ミナには時がひとつ先へ進んだように思えた。


倒木の陰で、ヤスデ系ラミアの少女が浅く息をした。


ほんの少し前まで、その息は細かく乱れていた。

節のあいだが痙攣するようにひらき、目は落ち着きなく人の輪を追い、

触角は何かから身を守るみたいにきつく伏せられていた。

けれど今は違う。苦しそうなのに変わりはないが、呼吸の間に、

ほんのわずか、測れるだけの間が戻っている。


トウ婆は何も言わず、その変化を見ていた。

濡れ布の位置を直すこともしない。

ただ杖を両手で握り、目を細めて待っている。


少女の脚が、湿苔の上でかすかに動く。


誰かが息を呑んだ。

ハヤトが反射的に肩をこわばらせる。

だがトウ婆は振り返りもせず、低く言った。


「動くなよ」


その声だけで、沢辺にいた全員がまた石みたいに固まった。


少女は、まず前の脚を一本、慎重に伸ばした。

次に、その先で地面の具合を探る。

泥のゆるみ、石の冷たさ、苔の湿り。

確かめるように節がわずかにたわむ。


新しい殻に痛みが走ったのだろう、身体の奥がひくりと震えた。

唇がかすかにひらき、喉の奥から細い音が漏れる。

言葉に届く前に砕けた、我慢の音だった。

それを聞いたミナの胸まで、きゅっと縮むようだった。


それでも、少女は脚を引かなかった。


目が人間たちのほうを向く。

輪はもう開いている。

さっきまでのように、逃げ道をふさぐ半円ではない。

上流へ続く細い岩道だけが、暗く湿って残されている。

少女はそれを見ているのだ、とミナにはわかった。

人間を見ているようで、ほんとうはその向こうにある「行けるかどうか」を量っている。


二本目の脚が動いた。

腹を少し持ち上げる。

柔らかい節のあいだから、朝の湿気が逃げるような匂いがした。


ぐらりと身体が揺れた。


「あ……」


ミナの口から思わず声が漏れかけ、母親の手がすぐにその腕をつかんだ。

少女は倒れかけたまま、倒木の根に身体の脇を預けて踏みとどまる。

触角が大きく震え、それからぴたりと止まった。

痛みをやり過ごしているのだとわかった。

逃げるためではない。

まず立つために、じっと耐えている。


トウ婆が、ひとつだけ息を吐く。


「……そうさ。それでいい」


聞かせるための声ではなかった。

けれど少女の触角が、ほんのわずか動いた。


三本目、四本目。

一本ずつ、順に置き場を探しながら、少女は身体を起こしていく。

成体なら滑らかだったのかもしれない動きが、今はぎこちなく、ひどく慎重だ。

節と節のあいだがまだ頼りなく、脚先も石を強くつかめていない。

それでも彼女はやめなかった。


やがて、完全にではないにせよ、どうにか身体が地面から離れた。


沢辺の誰も、もう声を立てなかった。

恐れもあった。だがそれ以上に、何かを見届けるしかない静けさが場を支配していた。

人ではない形をした子どもが、自分の身体をひとつひとつ取り戻していく、その時間だった。


少女は立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。

目がまた左右へ揺れる。

人間たち。

沢。

倒木。

湿苔。

置かれたままの細葉草。

潰れた蔓籠。

自分がここで何をしていたのかを、確認するみたいに視線が触れていく。


それから、ゆっくりとミナの置いた湿草の束へ脚を伸ばした。

すくうように引き寄せ、脇へ抱えこむ。

もともと自分で集めていた苔束の残りと一緒に、器用とは言えない手つきでまとめ直す。

持ち帰るつもりなのだ、とミナは思った。

使えるものは、置いていかない。

痛みをしのぐために要るのだ。

もしかすると、向こうで待つ誰かのためでもあるのかもしれない。


ゲンゾウがごく低く、喉だけで言う。


「帰る気か」 「帰るさ」とトウ婆も低く返した。

「帰れなきゃ、あの子は立たないよ」


少女は道のほうへ身体を向けた。

上流へ抜ける、岩のあいだの細い筋道。

沢見村の者なら荷を背負っては通りたがらない、滑りやすく、

木の根が張り出した獣道のような場所だ。

けれど彼女にとっては、そこがいちばん人から遠い。


最初の一歩は、ほとんど落ちるようなものだった。

脚を出し、重みを預け、よろめく。

新しい殻が陽に触れるたび、細かく震える。

けれど二歩目で踏みとどまり、三歩目で身体の向きが安定する。

進み方を思い出していくようだった。


誰も追わない。

誰も「待て」とも「行け」とも言わない。

ただ道だけが、そこにある。


少女が一度だけ振り向いた。


本当に振り向いたのか、ただ目がこちらを向いただけなのか、ミナにはわからない。

けれど、その一瞬だけ、目が合った気がした。

怯えきった獣を見る目ではなかった。怒りでもない。

礼でもない。

もっと曖昧で、けれど確かにこちらを映した、人の目だった。


ミナは息を止めたまま、動けなかった。

手を上げることも、声をかけることもできない。

そんなことをすれば、せっかく保たれている距離がまた壊れてしまうと、もうわかっていた。


少女はそのまま前を向き直り、湿った岩道へ入っていく。

脚先が石を探り、腹節が根をまたぎ、柔らかい殻が木漏れ日に鈍く濡れる。

ところどころでふらつきながら、それでも止まらない。

止まればまた囲まれるかもしれないし、なにより帰る先がある者の歩き方だった。


やがて木の根と岩影がその身体を隠しはじめる。

触角の先が見えなくなり、淡い殻の光も消え、

最後に湿苔を抱えた脚の動きだけがひとつ、ふたつ、葉陰に揺れて――

それももう見えなくなった。


沢の音だけが残った。


誰もすぐには喋らなかった。

まるで、いま消えた道の向こうへ言葉までついて行ってしまうのを恐れるみたいに。


ミナは、自分の足元に落ちている細葉草を見た。

朝から何度も見てきたはずの草だった。

けれどもう、今までと同じものには見えない。

同じ沢で採れ、同じように痛みを和らげるために使われるものが、

人の籠にも、あの子の蔓籠にも入っていた。

そのことだけで、沢の景色は前とは違ってしまっていた。


トウ婆がようやく杖を鳴らす。


「……追うんじゃないよ」


念を押すような声だった。

若者たちは誰も返事をしなかったが、逆らう者もいなかった。


ゲンゾウが重たげに息を吐く。


「帰った、か」 「帰れたんだよ」とトウ婆は言った。

「そこを違えるんじゃない」


その違いが何なのか、ミナにはまだうまく言えなかった。

けれど、胸のどこかではわかっていた。


追い払っただけではない。

助けたと言い切ることもできない。

それでも、自分の脚で立ち、自分の道を選んで、あの子は向こうへ戻っていった。


沢に残されたのは、抜け殻の薄片と、踏み乱れた苔と、

誰にも片づけきれない気まずさだけだった。

そしてミナの中には、痛みに備えるための薬草を抱えて歩く、

あの小さな背のかたちが、消えずに残った。

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