4. 隣接村とラミア集落の過去の接触史
見難い火傷の子663
4. 隣接村とラミア集落の過去の接触史
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
「騒ぐなと言ってるだろう」
トウ婆がそう叱りつけたあとも、沢辺のざわめきはなかなか完全には消えなかった。
誰もが声を潜めてはいる。だが潜めたぶんだけ、かえって怯えが滲む。
倒木の根元で身を縮めるヤスデ系ラミアの少女が、ひときわ小さく身じろぎするたびに、
輪の外側の誰かが息を呑んだ。
村長のゲンゾウは額の汗をぬぐい、落ち着かぬ足取りでトウ婆のそばまで来た。
歳のわりに頑丈な男だが、こういう場で肚を決めるのは得意ではない。
視線は少女ラミアと、トウ婆と、村人たちの顔のあいだを何度も往復している。
「おまえさん、どう見る」
低く問われて、トウ婆はすぐには答えなかった。
沢水で湿らせた布の具合を確かめ、道をあけさせた先の岩陰まで目を走らせてから、ようやく鼻を鳴らす。
「どうもこうもないよ。
脱皮のさなかだ。
皮が若すぎる。
下手に触れば裂けるし、追い立てりゃ沢へ落ちる」
「そうじゃない」
ゲンゾウは声をさらに落とした。
「……向こうの連中だろう。谷向こうの」
その言い方に、近くにいたモクジが顔を上げる。
トウ婆は「今さら何を」とでも言いたげに片眉を動かした。
「見りゃわかるさ。あんたも若いころ、一度や二度は沢向こうに影を見たろうに」
ゲンゾウは苦い顔になった。 「影はな。だが、こんな近くはない」
その言葉に、そばにいたソウジが口を挟んだ。
「やっぱり前からいたんですか、あいつら」 「いたさ」とトウ婆が即座に言う。
「おまえらが知らなかっただけでね」
ソウジはむっとしたが、言い返す前にゲンゾウが手で制した。
沢の音の上に言葉を重ねぬよう、皆が少しずつ前のめりになっている。
「昔から、シルハ谷の奥には棲み場があると言われてた」とゲンゾウが言う。
「沢上の倒木帯から先へ、むやみに入るなと、親父にも爺さまにも言われたもんだ」
「言われた理由まで、ちゃんと覚えてるかい」
トウ婆の問いに、ゲンゾウは少し黙る。
答えるかわりに、倒木の根元の少女ラミアを見る。
その脇に散った湿苔、細葉草、潰れた蔓籠。
人の少女と変わらぬ目は怯えにせわしく揺れ、柔らかい殻は朝の湿りを受けて鈍く光っている。
「……踏み込みすぎれば揉めるからだ」 「そうさ。向こうもこっちを避けてた。
こっちも向こうを避けてきた。
それだけのことだよ」
トウ婆は言いながら、枝先の濡れ布をわずかにずらした。
少女ラミアがびくりとしたが、すぐには暴れない。
乾きを嫌がる時の動きだ、とミナはなんとなく思った。
タヘイが、ぽつりと口を開く。
「若いころ、谷の上で見たことがある。
霧の切れ目だった。
長い影が岩から岩へ移った。
ありゃ人じゃないが、獣とも違った」
「わしもだ」とモクジが続ける。
「水飲み場の泥に、足とも腹這いともつかん跡が残っとった。
親父に見せたら、何も言わず埋め戻された」
若者たちが互いの顔を見る。
彼らにとってラミアは、せいぜい“森の向こうにいる危ないもの”という曖昧な噂でしかなかったのだろう。
実際に古老たちが見聞きしていたとなると、話の重みが変わる。
「だったら何で今まで黙ってたんだ」と、血のにじむ肘を押さえたハヤトが言う。
「知ってたなら、もっとはっきり――」
「はっきり言ったところで、おまえらが谷へ見物に行かない保証でもあったのかい」
トウ婆に切って捨てられ、ハヤトは口をつぐむ。
ゲンゾウが小さく息を吐いた。
「昔にも揉め事はあったらしい。
仕掛けた罠が壊れたとか、干し草束が消えたとか、その程度のな」
「その程度で済んだから、今まで境で持ってこられたんだよ」とトウ婆。
「死人が何人も出るほどの仲なら、とっくに片方が消えてる」
その言葉は冷たく聞こえたが、ミナには妙に本当のことのように思えた。
仲がいいわけではない。
理解し合っているわけでもない。
ただ、近づきすぎれば傷つくと知っていたから、互いに避けてきた。
その長年の“避ける知恵”があったからこそ、沢見村は今日まで普通に朝の沢で薬草を摘めていたのだ。
ゲンゾウは腕を組み、苦い顔のまま言う。
「しかし、こんなのは聞いたことがない。子どもが、こんな近くで、ひとりで」
「聞いたことはないね」とトウ婆もあっさり認めた。
「だから皆うろたえてる」
ミナはその言葉に、胸の中で何かがすとんと落ちるのを感じた。
そうだ。
ヤスデ系ラミアがいること自体ではない。
村人たちが怯えているのは、知っているつもりでいた相手が、まるで知らない姿で目の前にいるからだ。
モクジが少女ラミアの脇の湿苔を見て、眉を寄せる。
「ありゃ、自分で集めたのか」
「そのようだね」とトウ婆。
「見な。細葉草も砕いてある。
痛み止めと乾き避けだ。
誰かに持たされたんじゃない、自分で選んで持ってきてる」
「子どもが、か」
「子どもでも役目くらい持つだろうさ。
人の娘が薬草籠を背負うのと同じようにね」
そのひとことに、ミナはびくりとした。
自分の腰籠が急に重く感じる。
今朝、自分が摘んだものと、あの子が集めたものは、匂いまでよく似ていた。
ゲンゾウもそれに気づいたのか、ミナと少女ラミアを見比べるように視線を動かし、深く皺を刻んだ。
「……同じ沢を使っていたわけか」
「そういうことだろうね」
トウ婆の返答は淡々としていた。
だがその静けさが、かえって場を重くした。
沢は沢見村のものでも、ラミアだけのものでもなかった。
ただ長いあいだ、互いに奥と手前を分けあってきただけなのだ。
その境が今日はずれた。
イサクが、まだ納得しきれぬ顔で言う。
「なら、この先もまた来るのか」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」とトウ婆。
「けど、今日のこれでわかったろう。
向こうにだって、採るものがあり、備えることがあり、子どもが使いに出る」
ゲンゾウはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「……ギルドへは伝えるべきだな」
「そうだね」とトウ婆はすぐに頷いた。
「“ラミアがいた”じゃないよ。
そんなことは、境の古い者なら知ってる。
伝えるなら、採集圏が重なってること、幼いのが単独で来てたこと、
脱皮の時季と沢筋がぶつかったことだ」
ゲンゾウはその言葉を反芻するように、ゆっくりと目を細める。
「村の若いのには、境の教えも言い直さにゃならん」
「言い直すだけじゃ足りないかもね」とトウ婆が言った。
「知ってるつもりで知らなかったってことが、今日わかったんだから」
そのとき、倒木の根元で少女ラミアがかすかに身を起こした。
場にいた全員の肩が強張る。
だがトウ婆は手を上げて制し、道の先を見るよう顎を動かした。
「ほら、口を閉じな。今はあの子の番だ」
誰ももう言葉を継がなかった。
ただ、昔から谷向こうに“いる”とは知っていた隣人を、
今日初めて暮らしの手触りごと見てしまった者たちの沈黙だけが、沢の湿りの中に長く残った。




