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見難い火傷の子  作者: 清風
661/676

2. ラミアの少女

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子661


2. ラミアの少女


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


沢の空気は、さっきまでよりもひどく重く感じられた。

誰もすぐには動かなかった。


倒木の根元にうずくまるヤスデ系ラミアの少女は、柔らかい新殻をかばうように身を縮め、

複眼だけを忙しなく揺らしている。

逃げようにも逃げきれず、威嚇しようにもその力すら長くは保たないのが、遠目にもわかった。

湿った土に擦れた脚先が細かく震えるたび、まだ乾ききらない節のあわいがかすかにひらき、

そこから漏れる苦しげな息が沢音にまぎれて小さく響く。


さっき尻もちをついたハヤトは、切った肘を押さえたまま舌打ちし、けれどもう不用意には近づかなかった。

血の筋は細い。ほんのかすり傷だ。

だが、そのわずかな赤みが、場に残った恐怖を妙に現実のものにしていた。


誰かが唾を呑む音がして、別の誰かが、あれはもう駄目だろうか、とひどく小さな声でこぼす。

何が駄目なのか、その者自身にもわかっていないような言い方だった。


ミナは母の腕に引かれたまま、倒木の陰を見つめていた。

あの複眼が、先ほどからずっと人間たちを見ている。

睨んでいるのではない。

逃げ道を探しているようでもなかった。

ただ、次に何をされるのかを待っているように見えた。


そのおとなしさが、かえってミナの胸を締めつける。

もしあれが牙を剥き、唸り声でも上げてくれたなら、どれほど楽だっただろう。

怖がる理由を、そのまま恐れていられたのに。


モクジが一歩だけ前へ出た。

足もとの石を確かめるようにして立ち止まり、棒を持つ若者たちを振り返る。


「誰も近づくな。追い立てもするな」


「だが、このままじゃ――」とイサクが言う。

「見ればわかる。あれは今、まともに動けん」


モクジの声は低く、断言に近かった。

だがその言葉が安心を生んだわけではない。

動けないからこそ、どうすればいいのかわからない。


ここで殺すのか。

見逃すのか。

助けるのか。

誰ひとり、その選び方を教わったことがなかった。


倒木の根元で、ラミアの少女の触角がまた小さく伏せた。

おびえたように身体を丸めようとして、しかし節のどこかが痛むのか、途中でひきつったように止まる。

見ていた女のひとりが思わず顔をしかめた。


「子ども、だよね……」


返事はなかった。

子どもだと認めてしまえば、その先が変わる。

怪物なら棒で追える。

けれど子どもなら、それでは済まない。

そして済まないからこそ、誰も次の言葉を口にできなかった。


ミナは唇を噛み、ようやくかすれた声を絞り出した。


「……あの子、ずっと苦しそうで」


母親の手がミナの肩を強くつかむ。

黙っていなさい、と言いたげな力だった。

だがミナは目を逸らせなかった。

倒木のそばには、薄く裂けた抜け殻がまだ残っている。

朝露をはじいて光るその殻の内側は、ひどく脆く、そして妙に人の脱ぎ捨てた衣のようにも見えた。


そのとき、少女ラミアの身体がふいに大きく震えた。

唇がわずかにひらき、苦鳴とも息継ぎともつかない声が漏れる。

言葉の頭になりかけた響きだったが、次の息は痛みに潰れ、ただのかすれた吐息へ崩れた。

前脚が土を掻く。


場の空気がまた強ばり、何人かが思わず半歩退いた。

けれどそれは襲いかかる動きではなかった。

崩れた体勢を支えきれず、ずるりと横へ傾いだだけだった。

やわらかい殻が石に触れたらしく、少女は声も立てずに身をこわばらせる。


ミナの喉がひゅっと鳴る。

痛いのだ、と誰の目にもわかるほどの震えだった。


だが、わかったところで、近づける者はいない。


沢の水音の向こうで、ようやくひとりの男が低く言った。


「……ゲンゾウを呼ぶか」

「村長でどうなる」とソウジが返す。

「じゃあ放っておくのか」

「親が近くにいるかもしれんぞ」

「仲間を呼ばれたらどうする」


囁きはすぐにざわめきへ変わる。

恐怖だけではない。ためらいと苛立ちと、責任を引き受けたくない気配が、

じわじわと人のあいだを動きはじめていた。


モクジは倒木のほうを見たまま、苦い顔で呟く。


「子どもでも、異形は異形だ。だが――」


その先を、モクジもすぐには言えなかった。

沢の湿りの中、ラミアの少女は小さく身を縮めたまま、人間たちの判断を待つしかなかった。

そして村人たちもまた、目の前のものをどう扱うべきか、まだ誰ひとり決められずにいた。


ミナには、倒木の根元に散ったものが、ただの抜け殻だけには見えなくなっていた。


薄く裂けた殻のそばに、ちぎれた湿苔の束がある。

沢石のあいだには、根ごと引かれた細葉の草が何本か落ち、泥にまみれた蔓籠のようなものが、

半ば潰れて横倒しになっていた。

人の作る籠とは編み方が違う。

細い蔓と繊維を撚り合わせ、節のある脚でも引っかけやすいように輪がいくつも付いている。


ミナは目を見開いた。


「あの子……採りに来てたんだ」


誰に言ったのでもなかった。

だがそのひとことに、沢辺の空気がわずかに止まる。

ハヤトが眉をひそめ、モクジが足元の散らばった草と籠へ目をやった。


倒木の陰の少女ラミアは、なおも身を縮めたまま、複眼だけをせわしなく揺らしている。

その脇には、摘み集められたらしい湿苔がひとかたまり、まだ泥のついたまま残っていた。

逃げる途中で落としたのではない。ここへ持ち込んだのだ。

脱皮の最中に、放り出すしかなかっただけで。


「薬草か?」とイサクが言う。

「いや……薬草というより、湿し苔だな」とモクジが低く返す。

「傷あてに使うこともある」


ミナの胸がどくりと鳴る。

沢見村でも、湿苔は火傷や擦り傷を覆うのに使う。

乾きすぎを防ぎ、熱を逃がし、柔らかい皮膚を守るために。

目の前の少女が集めていたのも、それと同じ用途なのではないかと、ミナには思えた。


つまりこの子は、ただ潜んでいたのではない。

自分に起こることを知っていて、その備えをしに来ていたのだ。


その理解が、場にいる何人かの顔つきを変えた。

怪物なら、ただ現れる。

だが目の前のこれは、備えをして、隠れ場所を選び、耐えるためのものを集めていた。


ひとりの女が、思わず口元を押さえる。

「子どもが、ひとりで……?」


その声に反応したのか、少女ラミアの触角がぴくりと震えた。

複眼が女のほうへ向き、それからすぐ、怯えるように伏せられる。

見られたくないのだ、とミナはまた思った。

苦しんでいることも、弱っていることも、脱ぎ散らした殻も、そのために集めたものも、全部。


ハヤトがまだ警戒を解かず、血のにじんだ肘を押さえながら吐き捨てるように言う。

「だからって危なくないとは限らんだろう」 「限らん」とモクジも頷いた。

「だが、襲うためにここにいたわけでもない」


それは誰にとっても、聞きたくない種類の言葉だった。

襲うためでないなら、こちらが何をしているのかが別の意味を持ち始める。

棒を向け、囲み、行き場を失わせているのは村人の側だと、そういう形で見えてしまうからだ。


ざわめきの底に、居心地の悪い沈黙が混じる。


ミナは母の手を振りほどきかけて、けれど完全には離れられずにいた。

助けたい、というほど立派な気持ちではない。

ただ、このまま皆で見ているだけなのがひどく惨めに思えたのだ。

目の前の少女は、自分と同じように朝の沢へ何かを採りに来て、身体の都合で動けなくなり、

見つかってしまっただけかもしれないのに。


そのとき、少女ラミアの身体がまた強く震えた。

前脚が土を掻き、柔らかい腹節がひくりと持ち上がる。

苦鳴がひとつ漏れ、倒木の根に額のあたりを押しつけるようにしてうずくまった。


「あ……」


ミナの口から小さく声がこぼれる。

少女ラミアの脇で、集められていた湿苔が崩れた。

水気を含んだ緑が泥に落ちる。

そのひとつに、白っぽい粉がまぶされているのが見えた。

乾かした薬草を砕いたものだと、ミナはすぐに気づいた。

沢見村でも火傷に使う配合に少し似ている。


本当に、同じなのだ。


採るものも、備えることも、痛みをやわらげたいと思うことも。


ただ身体つきが違い、住む群れが違い、互いのやり方を知らないだけで。


その気づきは、ミナの中にだけ落ちたわけではないらしかった。

女たちのあいだに動揺が走り、若者たちも完全には次の一歩を決められない。

異形は異形だ。

だが、異形である前に、これは明らかに、痛みの支度をしていた子どもだった。


モクジが深く息をつき、低い声で言う。


「……ゲンゾウを呼べ。それと、トウ婆にも」


「何をさせる気だ」とハヤトが鋭く返す。

「何もさせぬかもしれん。だが、わしらだけで決めてよいことでもない」


もっともな言葉だった。

もっともであること自体が、すでに村の誰もが“ただの怪物退治ではない”と認め始めている証でもあった。


ひとりが渋い顔のまま、村へ戻るために踵を返す。

その動きを見たのか、少女ラミアがびくりと身をすくめた。

逃げられるなら逃げたいのだろう。

けれどまだ立ち上がることさえままならない。

複眼が沢の上流と人間たちとのあいだを揺れ、触角は頼りなく伏せたままだ。


ミナはそっと、自分の腰籠に触れた。

今朝摘んだ湿草が少しだけ入っている。

それを差し出したところで、どうなるのかはわからない。

受け取るのか、刺激になるのか、怒らせるのか、何ひとつわからない。


わからないまま、それでも一歩だけ前へ出ようとして――母に強く腕を引かれた。


「だめ」


短いひとことだった。

だがその声は叱責ではなく、怯えそのものだった。


ミナは足を止める。

止めるしかない。

目の前にいるのは、助けを求めているように見える子どもで、同時に、沢見村の誰も扱い方を知らない異形でもある。


沢の湿った空気の中で、村人たちは輪を崩せずにいた。

そして倒木の根元では、ラミアの少女が、自分のために集めた湿苔と薬草のそばで、

小さく身を縮めたまま朝の痛みに耐えていた。

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