1. ラミアとの接触
見難い火傷の子660
1. ラミアとの接触
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
朝靄の残る沢沿いで、沢見村の薬師見習いの娘ミナは、籠を腕にかけ、
濡れた石を避けながら薬草を摘んでいた。
いつもの青い匂いに混じって、ふいに甘苦く、生ぬるい、知らない臭いが鼻を刺す。
足もとの苔むした土には、獣とも人ともつかない細かな引きずり跡が残っていた。
その先、沢が折れて陰る窪地に、薄く透ける殻の裂け端が朝露を弾いている。
息を止めて覗き込んだミナは、倒木の根元にうずくまるものを見つけて凍りついた。
まだ幼い、少女ほどの大きさのヤスデ系ラミアが、
脱ぎ捨てた殻にもたれかかるように身を縮め、やわらかい新しい外殻を震わせていた。
触角は苦しげに伏せられ、呼吸のたびに肩口の節がかすかにひらく。
こちらへ向いた複眼には、怯えと痛みと、見られてしまった恥がいちどきに滲んでいた。
ミナは悲鳴を飲み込み、籠を落とすこともできないまま立ち尽くした。
喉の奥がひきつれ、声になりかけた息を歯の裏で噛み殺す。
倒木の根元の少女は、こちらの気配に触角をぴくりと震わせたが、
逃げることも威嚇することもできないように、ただ身を縮めるばかりだった。
やわらかい殻の縁が朝の湿りを受けて鈍く光るたび、
ミナは見てはいけないものを見てしまったような気がして、胸の奥が冷たくなった。
一歩、後ずさる。
濡れた石に踵が滑り、小さく音が立った。
その途端、ラミアの少女がびくりと肩を跳ねさせ、唇を震わせた。
喉の奥から洩れたのは、ただの息ではなく、声になりそこねたかすかな音だった。
何か言おうとしたのかもしれない。
けれど痛みに引きつった呼吸がそれを潰し、言葉になる前に消えてしまった。
ミナは反射的に口元を押さえた。
怖かった。
だが、それ以上に、追い詰めているのが自分のほうなのだという、
言葉にならない恥ずかしさがこみ上げた。
籠を抱え直し、ミナは身を翻した。
枝を払い、裾を濡らし、ほとんど転げるように沢沿いを駆け戻る。
背後で何かが追ってくる気配はない。
それでも一度も振り返れなかった。
鼻の奥には、あの甘苦い生ぬるい臭いがこびりついたままだ。
胸が苦しく、脈が耳の裏でどくどく鳴る。
沢見村の柵が見えたとき、ミナはようやく息をつくどころか、
ますます荒く肩を上下させながら戸口へ駆けこんだ。
「おっかさん、山の沢で――」
言い切る前に声が裏返る。
土間にいた母親が顔を上げ、薬研に向かっていた老人モクジも眉をひそめた。
ミナは何度か空気を呑みこみ、震える指で沢のほうを指した。
「いたの、何か……何か、いたの。
大きい殻みたいなのがあって、その奥に……
子ども、みたいなのが……でも、人じゃなくて……」
言葉が崩れていく。
自分でも何を見たのかわからない。
ただ、複眼だけは脳裏にはっきり残っていた。
怯えた目だった、と言いかけて、ミナは口をつぐむ。
そんなことを言えば、自分が何を庇おうとしているのかもわからなかった。
モクジが静かに立ち上がった。
「場所はどこだ」
ミナが沢の曲がり角と倒木の目印を告げると、土間の空気が変わった。
母親はミナの腕を掴んで離さず、モクジは隣家へ走るよう顎をしゃくる。
ほどなくして戸口の外で声が上がり、鍬を持つ者、棒を引っ掴む者、
水場から戻った女たちまでがざわめきながら集まり始めた。
「獣か」
「魔物だろう」
「沢に巣を作られたらまずい」
「子どもが見たんだ、ただ事じゃない」
違う、とミナは言いかけた。
違うのかどうかもわからないまま、喉だけが熱くなる。
あれは襲ってこなかった。逃げもしなかった。
ただ、ひどく苦しそうで、見つかったことを恥じているように見えた。
だがそんなことを、このざわめきの中でうまく言える気がしなかった。
やがて、棒と縄を持った男たちが沢へ向かうことになった。
モクジも行くと言い、母親はミナを家に押しとどめようとしたが、
第一に見つけたのはこの子だ、場所を違えたらどうする、と別の声が挟む。
ミナの顔から血の気が引いた。
連れていかれる、と気づいたときにはもう遅かった。
村の大人たちに囲まれるようにして、ミナはもう一度、
朝靄の残る沢のほうへ歩かされていく。
さっきまで薬草の匂いしか知らなかった山道が、今はひどく狭く、よそよそしいものに思えた。
この沢筋のさらに向こう、霧の溜まりやすい谷の先には、
シルハ谷へ続く深い森がある。
古い者たちは、あちら側に住むものへ無闇に近づくなと口酸っぱく言っていた。
けれどミナにとってそれは、暮らしの端に貼りついた古い注意書きのようなものにすぎなかった。
ミナが足を止めたのは、沢が大きく折れる手前の、倒木の影が見えはじめる場所だった。
そこから先は、もう朝の明るさが届いているはずなのに、湿った空気だけが薄暗く沈んでいる。
「あそこです」
言ったつもりだったが、声はひどくかすれていた。
先頭にいたモクジが手を上げ、男たちを止める。
棒を握る手に力が入る音まで聞こえそうな静けさの中、
沢の水だけがさらさらと頼りなく流れていた。
倒木の根元には、まだ薄く裂けた殻が残っている。
朝露を弾くその透けた色が、生きものの皮膚というより、
捨てられた何かの膜のように見えて、ひとりの若者が息を呑んだ。
「いるのか……?」
誰ともなく落ちた囁きに応じるように、倒木の陰でラミアの少女の肩がわずかに震えた。
伏せられていた唇がかすかにひらき、息に押し出されるような細い声が洩れる。
けれどそれはあまりに弱く、誰の耳にも言葉としては届かなかった。
いた。
少女ほどの大きさのヤスデ系ラミアが、
崩れた土の窪みに身を寄せるようにしてうずくまっている。
脱皮を終えたばかりの外殻はまだ乾ききっておらず、
白っぽくやわらかい節のあいだが、呼吸のたびにかすかにひらいては閉じた。
伏せた触角がびくりと震え、複眼が人々の気配を拾って忙しなく揺れる。
その瞬間、ミナは自分が見たものが間違いではなかったのだと知って、
膝の奥が冷たくなるのを感じた。
同時に、あのときよりもっと幼く、小さく見えた。
近づいた人数の多さが、あの少女をいっそう追いつめているのが、見ているだけでわかった。
だが村人たちには、そうは映らなかった。
「やっぱりいたじゃないか」
「沢に棲みつかれたらどうする」
「動けるうちに追い出せ」
囁きは次第に硬く、鋭くなる。
モクジがまだ待てと言う前に、若者のひとり――ハヤトが半歩前へ出た。
棒の先で地面を叩き、脅すように低く声を上げる。
「こっちへ来るなよ」
来るな、と言われた少女ラミアのほうは、最初から一歩も来ていない。
ただ、その音にびくりと全身をこわばらせ、逃げようとしたのか、崩れた土に爪をかけた。
けれどやわらかい殻では身体をうまく支えきれず、半ば起きかけた身がすぐに傾ぐ。
苦しげに唇が開き、ひび割れた息と一緒に短い声が漏れた。
拒むようにも、痛みをこらえるようにも聞こえるその音は、けれど最後まで形を結ばなかった。
「ほら、構えたぞ!」と、ソウジが叫ぶ。
違う、とミナは思った。
構えたのではない。
転びそうになっただけだ。
だが声は喉に貼りついて出てこない。
ハヤトがさらに棒を突き出した。
先端が少女の抜け殻に触れ、ぺしゃりと湿った音を立てる。
その瞬間だった。
少女ラミアの触角が跳ね上がり、唇のあいだからひび割れた声が弾けた。
「や――」
そう聞こえた気がしたが、次の音は痛みに潰れ、
拒絶とも悲鳴ともつかない短い息へ崩れる。
ほとんど同時に、脚のひとつが反射的に跳ね、棒の先を払いのけた。
勢いは弱かったはずなのに、ハヤトのほうが驚いて足をもつれさせ、
濡れた石に踵を取られて尻もちをついた。
肘が地面の石で切れ、赤い筋がすっと滲む。
それだけだった。
それだけなのに、場は一気に崩れた。
「やっぱり危ない!」
「下がれ!」
「噛まれるぞ!」
何人もの声が重なり、ミナは思わず耳を塞ぎそうになる。
少女ラミアのほうも、自分のしたことに怯えたように身を縮め、
倒木の根元へさらに押しこもうとする。
だが逃げ場はない。
柔らかい殻が土に擦れ、痛みに耐えるように身体が細かく震えていた。
モクジがようやく前へ出た。
「待て! 棒を向けるな!」
怒鳴りつける声に、何人かがはっとして足を止める。
モクジは少女ラミアを睨んでいたのではなく、村人たちのほうを見ていた。
「見ろ。追ってこない。立てもしないじゃないか」
その言葉に、ざわめきが一瞬だけ鈍る。
ミナはそこで初めて、浅い息をひとつ吸った。
少女ラミアは倒木に半ばすがるようにもたれ、複眼を揺らしながら、人間たちを見ている。
わずかにひらいた唇は、まだ何かを言い損ねた形のままだった。
その目には怒りよりも、痛みと怯えが濃い。
そしてその奥に、さっき自分が見たのと同じ、どうしようもない恥がまだ残っていた。
誰かが小さく言った。
「……子どもじゃないのか」
そのひとことが落ちたあと、沢の音だけが妙にはっきり聞こえた。
けれど、子どもだとわかったからといって、どうしていいのか知っている者は、
そこにはひとりもいなかった。




