安全体制の見直し
見難い火傷の子634
安全体制の見直し
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
封じ込めの命令が行き渡って三日後、
第三工区の宿舎棟には、まだ油と焦げ土の匂いが残っていた。
焼かれた巣の跡は埋め戻され、
搬出路の柵は二重になり、
見張り台には昼夜を問わず警備兵が立っている。
泣き声はもう聞こえない。
点呼の数も合う。
表向きには、事態は収まったように見えた。
だが、工事はまだ再開されていなかった。
止まったままの滑車、積まれたままの支保材、泥をかぶったままの荷車。
現場には、戦いのあとの静けさではなく、次に何を変えるべきかを測っている沈黙があった。
その朝、第三工区の詰所に、鉄道局、警備隊、医療局、ギルド、工兵、
それに宮廷実務官の席が並べられた。
夜半の緊急会議とは違う。
怒号も、責任の押しつけ合いもない。
代わりに机の上には、被害報告の写し、宿舎ごとの点呼記録、
被毒症状の一覧、搬出路の見取り図、そして張良がまとめた改定案が置かれていた。
紙の枚数は多かったが、題は短かった。
第三・第二工区安全体制改定案
匠ーは詰所の壁際に立ち、その紙束を見ていた。
現場の者が全員その文を読めるわけではない。
だが、今日は読むためだけの場ではない。
決まったことを、現場の手順に落とすための場だった。
張良が席についたまま、最初の一枚を開く。
「収束はしました。しかし、収束しただけでは足りません」
声は静かだったが、詰所の隅までよく通った。
「同じ入り口を残したまま工事を再開すれば、次は運が尽きます。
ですので本日は、討伐の報告ではなく、再発防止の確認を行います」
鉄道局の工事総監・韓鋭が腕を組む。
前夜の会議より顔色はましだったが、目の下の隈は消えていない。
「確認ではなく改定だろう」
「ええ」
張良はうなずいた。
「確認するのは、何を改めるかです」
その言い方に、韓鋭はそれ以上何も返さなかった。
張良は一枚目をめくる。
「第一。保護・救助手順の改定」
医療局の責任者・蘇静が、横から補足の紙を差し出した。
「赤子、幼子、負傷者、要救助者に見える存在を発見した場合、
単独接触を禁じます。
必ず警備、医療、現場責任者の三者確認を経ること。
直接接触の前に、距離を取ったまま呼びかけ、反応、体温、影、足元、音を確認する」
工兵監督・石魁が眉をひそめる。
「影まで見るのか」
ギルド上席の慧蘭が答えた。
「見る。擬態は姿を似せても、細部を揃えきれないことがある。
泣き声に軋みが混じる、耳や指先が硬い、影の出方が不自然、足元の土が乱れている。
そういう違和を拾うための手順だ」
「現場の工夫にそこまで見分けろと言うのは酷だ」
「見分けろとは言っていない」
張良が言った。
「一人で判断するな、と言っているのです」
詰所の空気が少しだけ静まる。
「第二。宿舎管理の強化」
今度は警備隊の指揮官・劉征が前へ出た。
「点呼は一人読み上げ式を廃し、二人照合、三重確認とする。
名簿、寝台、食事数を毎朝毎夕照合。
夜間巡回を増やし、単独外出を禁ずる。
各宿舎に隔離室を設け、被毒疑いの者は即時移送。
看護、見回り、搬送はすべて二人一組だ」
宿舎係のひとりが、壁際で小さく息を呑んだ。
自分たちの仕事が増えることは、誰にでも分かる。
それを見て、張良は紙から目を上げた。
「手間は増えます」
誰も口をきかない。
「ですが、数が合わぬまま眠るよりはましでしょう」
その一言に、宿舎係たちは黙ってうなずいた。
反論はなかった。
あの朝の点呼を経験した者にとって、
数が合わないことは、もう単なる事務の乱れではなかった。
「第三。掘削前調査の追加」
ここでは石魁が前へ出た。
渋い顔のまま、しかし声は実務的だった。
「新規掘削区画については、着手前にギルド立会いの生態調査を入れる。
空洞、異臭、異音、巣穴状の空間、
搬出土の異物混入を記録し、危険層と判断した場合は即時封鎖。
搬出路の変更も含めて再審査する」
韓鋭が苦く言う。
「工期は確実に延びるな」
「延びます」
石魁はあっさり認めた。
「だが、宿舎ごと食われるよりは短い」
その言い方に、詰所のあちこちで低い同意の声が漏れた。
以前なら工期を守ることが最優先だった。
だが今は、守るべき順番が変わっている。
「第四。被毒・擬態対策」
蘇静が、症状一覧の紙を広げた。
「初期症状は、判断力低下、反復言語、接触対象への執着、発熱、刺創様痕。
これを各宿舎に掲示する。
加えて、本人確認手順を定める。
点呼時は顔だけでなく、所属班、前日の作業位置、相方の名まで照合する」
若い工夫のひとりが思わず言った。
「そこまでやるのか」
劉征が振り向く。
「そこまでやる。顔が同じでも、中身が同じとは限らん」
言葉は荒かったが、誰も笑わなかった。
張良は最後の紙を置いた。
「以上を、第三・第二工区に先行適用します。のち、全工区へ拡大」
韓鋭が腕を解く。
「現場は回るのか」
その問いは、反対というより確認だった。
石魁が答える。
「回すしかない。手順を増やしてでも回す」
「人手は足りるか」
「足りなければ増やす。増やせぬなら、進度を落とす」
韓鋭はしばらく黙っていたが、やがて短く息を吐いた。
「……分かった。鉄道局として受ける」
それは、現場全体が新しいやり方へ移る合図だった。
張良はうなずき、最後に一枚の短い文書を取り上げた。
「では、掲示文を読みます」
詰所の空気が引き締まる。
「
一、赤子の泣き声、負傷者の救助要請その他これに類する異常を認めた場合、
単独で接触しないこと。
二、宿舎の出入り、看護、見回り、搬送は二人一組で行うこと。
三、点呼は名簿、寝台、食事数を照合し、数の不一致を放置しないこと。
四、新規掘削前には生態調査を行い、異常を認めた場合は直ちに封鎖し報告すること。
五、被毒または擬態の疑いある者を認めた場合、隔離し、警備・医療へ即時通報すること。
」
読み上げは簡潔だった。
飾りもない。
だが、その場にいた誰もが、その文の一つ一つが血の値で書かれていることを知っていた。
会議が終わると、文書はすぐに写し取られた。
宿舎の戸口、詰所の壁、搬出路の柵、資材置場の柱。
人の目につくところへ次々と貼られていく。
昼すぎ、匠ーは宿舎棟の入口に立ち、新しく貼られた規則書きを見上げていた。
まだ糊が乾ききっていない。
紙の端が風にわずかに鳴る。
その前で、古参の工夫が足を止めた。
日に焼けた顔に深い皺を刻んだ男だった。
黙って文を読み、読み終えると、帽子を取った。
祈るような仕草ではない。
ただ、軽んじないというだけの、静かな動作だった。
そのあとに来た若い工夫たちも、今日は誰も文句を言わなかった。
面倒だ、堅苦しい、そんな声は出ない。
皆、規則の向こうに、あの泣き声を聞いていた。
匠ーはその様子を見ていた。
前なら、こういう新しい決まりは現場で煙たがられただろう。
役所仕事だと笑う者もいたはずだ。
だが今は違う。
誰も笑わない。
誰も「大げさだ」と言わない。
規則が、紙の上の命令ではなく、自分たちを生かして帰すためのものだと知っているからだ。
遠くで、槌の音がひとつ鳴った。
まだ本格再開ではない。
支保の打ち直しか、柵の補強か、それとも搬出路の整備か。
だが止まったままではない音だった。
張良が、いつの間にか匠ーの隣に立っていた。
「現場は受け入れたようですね」
匠ーは規則書きから目を離さずに答えた。
「押しつけられたんじゃない。分かったんだろう」
「ええ」
張良は静かに言った。
「災いを退けるだけでは足りない。
次に同じ戸を開けぬようにする。
それでようやく、収束です」
匠ーは小さくうなずいた。
宿舎の戸口に貼られた新しい規則が、風に揺れる。
紙は薄い。だが、その薄い紙の向こうに、国がひとつ学んだ重みがあった。
やがて工事は再開されるだろう。
前と同じ形ではない。
少し遅く、少し慎重に、少し多く確かめながら。
それでも進む。
その進み方を選べる国は、強い国だった。




