工事再開
見難い火傷の子635
工事再開
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
安全体制の見直しから七日後、第三工区に朝の号令が戻った。
まだ夜露の残る仮設柵の前に、工夫たちが班ごとに並ぶ。
以前と同じようでいて、同じではない列だった。
名を呼ぶ声のほかに、それを照合する声がある。
寝台数、食事数、作業班名簿。
三つの帳面が朝靄の中で順にめくられ、返事をする者、顔を確かめる者、
記録する者がそれぞれ別にいる。
「第三班、全員」
「照合よし」
「食事数一致」
短い言葉が、以前より多く飛ぶ。
手間は増えた。
待つ時間も長くなった。
だが列に苛立ちはなかった。
誰もが、その手間が何を防ぐためのものかを知っていたからだ。
匠ーは班列の端に立ち、そのやり取りを見ていた。
宿舎の戸口に貼られた規則書きは、朝の湿気で少し波打っている。
だが文字ははっきり読めた。
赤子の泣き声に応じて単独で戸を開けるな。
看護、見回り、搬送は二人一組。
数の不一致を放置するな。
あの夜の恐怖が、今は黒い墨の線になって残っている。
点呼が終わると、今度は掘削前確認が始まった。
工兵監督の石魁、警備兵、ギルド立会人、各班の責任者。
新しい手順では、坑内へ入る前にその日の作業区画を全員で確認する。
支保の状態、湿り気、風の流れ、異臭、異音、土の色。
以前なら熟練者が目で見て済ませていたことを、今は声に出して共有する。
「南側支保、昨夜打ち直し済み」
「搬出路柵、異常なし」
「空洞反応なし」
「異臭なし」
「ギルド確認、進入可」
最後の一言が出るまで、誰も坑内へ足を踏み入れない。
石魁が短くうなずいた。
「……入れ」
その声で、ようやく工夫たちが動き出す。
地下へ続く仮設斜路を下りる足音は、以前より慎重だった。
だが止まってはいない。
湿った土の匂い、木材の軋み、遠くで滴る水音。
第三工区の朝が、少しずつ戻ってくる。
坑内では、まず支保の再確認から始まった。
掘るためではなく、崩さないための仕事だ。
梁を打ち、楔を締め、壁面の緩みを確かめる。
新規掘削の再開はそのあとになる。
急がない。
急がせない。
誰もがその順番を守っていた。
若い工夫のひとりが、梁を押さえながらぼそりと言った。
「前より遅ぇな」
隣の古参が鼻を鳴らす。
「前が早すぎたんだ」
「工期、怒られねえかな」
「怒るやつがいたら、ここで一晩寝かせりゃいい」
小さな笑いが起きた。
大きくはない。
だが、事件のあと初めて現場に戻った笑いだった。
匠ーは少し離れた場所でその声を聞き、口元だけで笑った。
午前の半ば、最初の掘削再開の合図が出た。
石魁が新規区画の手前に立ち、壁面と床を見回す。
ギルド立会人は土をひとつまみ取り、指先で砕き、匂いを確かめる。
警備兵が周囲を見張り、医療係が後方で待機する。
以前なら大げさだと笑われた布陣だ。
だが今は、誰も何も言わない。
「第三工区南側、掘削再開」
石魁の声が坑内に響いた。
最初の一撃は、年嵩の工夫が振るった。
鶴嘴が土壁に食い込み、鈍い音が返る。
二撃目、三撃目。
崩れた土を若い者が受け、荷籠へ移す。
搬出班がそれを運ぶ。
滑車が回り、縄が軋み、土が動く。
止まっていた工事が、また流れ始めた。
その音は派手ではなかった。
勝鬨もない。
歓声もない。
ただ、木と鉄と土が、決められた手順の中で噛み合っていく音だった。
昼前には、第二工区からも再開の報せが届いた。
宿舎封鎖は一部を残して解除、搬出路は監視付きで運用再開、隔離者のうち軽症者は回復傾向。
完全な平常ではない。
だが、止まったままでもない。
地上では、張良が鉄道局の工事総監・韓鋭と短く言葉を交わしていた。
書類を抱えたまま、坑口の出入りを見ている。
「進みますか」
韓鋭が問う。
「前よりは遅く」
張良が答える。
「ですが、前より遠くまで」
韓鋭は一瞬だけ黙り、それから低く笑った。
「役人らしい言い方だ」
「工事向きの言い方でもあります」
その返しに、韓鋭は否定しなかった。
午後、宿舎の戸口に貼られた規則書きの横へ、新しい札が加えられた。
第三工区 本日より作業再開
それを見た工夫たちは、立ち止まりこそすれ、騒がなかった。
もう彼らは知っている。
再開とは、元に戻ることではない。
同じ失敗を抱えたまま進むことでもない。
止まり、数え、改めたうえで、なお進むことだ。
夕方、作業を終えた者たちが宿舎へ戻ってくる。
泥にまみれ、汗を流し、疲れた顔をしているのは以前と同じだ。
だが戸口では、二人一組で名を告げ、記録を受け、互いの顔を見てから中へ入る。
そのひと手間を、誰も面倒とは言わなかった。
匠ーは宿舎の前で、その流れを見ていた。
遠くで、搬出路の滑車が最後の一回転を終える。
見張り台の警備兵が交代の合図を送る。
医療係が隔離室の札を確認し、工兵が明日の支保材の数を数える。
現場のすべてが、以前より少しだけ慎重に、だが確かに噛み合っていた。
そこへ張良が来た。
「初日としては上々です」
匠ーは宿舎へ戻る列を見たまま言う。
「前みたいにはいかないな」
「ええ」
張良はうなずいた。
「前のままでは、また同じ戸を開けます」
しばらく、二人は並んで立っていた。
夕暮れの光が柵の影を長く引き、坑口からはまだ湿った土の匂いが上がってくる。
やがて匠ーが、静かに言った。
「でも進んでる」
「進んでいます」
張良の声も静かだった。
「止まったことを無かったことにせず、それでも進める。そういう再開です」
匠ーは小さくうなずいた。
坑内の奥から、遅れて最後の槌音が響いた。
短く、硬く、確かな音だった。
第三工区の工事は再開された。
それは災厄の前に戻ったのではない。
災厄を数え、規則を変え、やり方を変えたうえで、なお前へ進むということだった。
その音は、完成へ向かう最初の音でもあった。




