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見難い火傷の子  作者: 清風
632/658

調査と対策会議

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子632


調査と対策会議


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


翌朝の点呼は、最後まで終わらなかった。


宿舎のほうから聞こえた泣き声に、列の空気が凍りついたまま誰も動けずにいた。

名簿を持つ宿舎係の喉がひくりと鳴る。

年嵩の工夫が低く言った。


「……空き部屋だな」


返事はない。


「見に行け」


そう言われても、宿舎係はすぐには足を出せなかった。

昨夜、自分が抱いて連れ帰った赤子だ。

あれが本当にただの捨て子なら、ためらう理由はない。

だが、列の誰もが同じ違和感を抱いていた。

泣き声のあとに混じる、あの乾いた軋み。

消えたはずの男が、何食わぬ顔で点呼に立っていること。

寝台から消えた者の靴だけが残っていたこと。


匠ーが一歩前へ出た。


「俺が行く」


「一人で行くな」


年嵩の工夫が即座に言った。


「三人で行け。戸を開ける前に声をかけろ」


その言い方が、もう赤子相手のものではなかった。


匠ーと、昨夜土砂置場までついて行った若い工夫、

それに警備詰所へ走らせるはずだった男の三人が、宿舎へ向かう。

背後では点呼の列が崩れずに残り、誰もが息を潜めて見ていた。


空き部屋の前まで来ると、泣き声は止んでいた。


戸の向こうは静かだった。静かすぎた。


匠ーが戸板に手をかける前に、若い工夫が囁く。


「……いると思うか」


「分からん」


「赤子が、か?」


匠ーは答えなかった。


戸を少しだけ開ける。

湿った空気が流れ出る。

湯を使ったはずの部屋なのに、妙に冷えていた。

窓のない仮設の小部屋の中、寝台の上には布が乱れている。

だが、赤子の姿はない。


「いない」


若い工夫が息を吐いた、そのときだった。


寝台の向こう、壁際の暗がりで、何かが動いた。


反射的に三人とも身を引く。

だが飛びかかってきたのは赤子ではなかった。

昨夜から高熱を出していた若い工夫だった。

四つん這いで床にうずくまり、喉を鳴らしている。

目は開いているのに焦点が合わず、口元には乾いた泥がこびりついていた。


「おい!」


抱き起こそうとした男の手を、匠ーが掴んで止める。


「待て」


若い工夫の口が、ひくひくと動く。


「泣いてる……寒い……置いておけない……」


同じ言葉を、昨夜と同じ調子で繰り返している。

だが声は掠れ、喉の奥で何か硬いものが擦れるような音が混じっていた。


ギ、……ギイ。


三人の顔色が変わる。


「警備と医療係を呼べ」


匠ーが言うと、ひとりが飛び出していった。


それから半日で、宿舎の空気は完全に変わった。


まず医療係が来た。

高熱を出した若い工夫を診て、眉をひそめる。

脈は速く、瞳孔の反応が鈍い。

皮膚には細かな発疹が出ており、首筋には虫に刺されたような痕がいくつもあった。


「疲労だけじゃないな」


医療係はそう言って、他の者の腕や首も見始めた。

すると似たような痕が、何人にも見つかった。

夜中にかゆみを訴えた者、妙な夢を見た者、泣き声を聞いたと言う者。

症状はばらばらに見えて、どこかでつながっていた。


次に警備兵が来た。

宿舎係と夜勤明けの工夫たちから事情を聞き、土砂置場まで足を運ぶ。

赤子がいた場所には、布の切れ端と、浅い引きずり跡が残っていた。

だが人の足跡は途中で乱れ、土砂の崩れに紛れて消えている。


「女が置いていった跡はないな」


警備兵のひとりが言った。


「じゃあ何だってんだ」


誰かが苛立って返す。


警備兵は答えず、布切れを槍の穂先で持ち上げた。

裏側に、乾いた薄茶色の粉がこびりついている。

土とも灰とも違う、細かな殻のような粉だった。


その日の夕方には、失踪者がもうひとり増えた。


今度は寝台ごとではない。

昼の見回りの最中、資材置場へ縄を取りに行った男が戻らなかった。

探しに行くと、木箱の陰に血のついた手袋だけが落ちていた。

周囲の土には、何本もの細い筋が這ったように残っている。


宿舎の者たちは、もう誰も「ただの行方不明」とは思っていなかった。


日が落ちる前に、ギルドから上席調査員が呼ばれた。


灰色の外套を着た女で、年は四十前後。

現場へ着くなり、宿舎にも入らず、まず土砂置場と資材置場を見た。

次に布切れの粉を指先でこすり、匂いを嗅ぐ。

最後に高熱を出した若い工夫の寝台の前に立ち、うわごとをしばらく聞いていた。


「泣き声のあとに、軋む音が混じったと言ったな」


宿舎係が頷く。顔色は土のように悪い。


「耳が硬かったとも」


今度は昨夜ついて行った若い工夫が、唇を舐めてから答えた。


「……泥が固まってるだけかと思った」


「抱いたのは誰だ」


宿舎係が、ゆっくり手を挙げた。


女はその腕を見た。

袖をまくると、肘の内側に小さな赤い痕が三つ並んでいる。

噛まれたようにも、刺されたようにも見える。


「隔離しろ」


その一言で、部屋の空気が変わった。


「な、何だって」


「隔離だ。今すぐ」


「ただの捨て子じゃなかったってのか」


女は宿舎の全員を見回した。


「ツチハンミョウだ」


誰も意味を理解できず、黙った。


「幼体は赤子に擬態する。

泣き声で人を寄せ、抱かせる。

接触した相手に毒を入れて判断を鈍らせる。

持ち帰らせ、宿舎に巣を作る」


誰かが小さく「そんな馬鹿な」と言った。


女は容赦なく続ける。


「成長すると、人の姿も真似る。

精度は高くないが、疲れた集団相手なら十分だ。

点呼が狂う。

証言が食い違う。

消えたはずの者が戻る。

全部、前例がある」


宿舎の誰も口をきかなかった。


匠ーは、朝の点呼に立っていたハンスの顔を思い出した。

見慣れた顔のはずなのに、どこかが噛み合っていなかった。

あれは、本人だったのか。

それとも。


「……今、ここにいるのか」


匠ーの問いに、ギルドの女は即答しなかった。


「いる。あるいは、もう複数いる」


その場にいた全員が、反射的に互いの顔を見た。


「だから隔離しろと言った。

単独行動を禁じろ。

点呼は二人一組で照合しろ。

泣き声がしても近づくな。

赤子に見えても触るな」


警備兵がようやく我に返る。


「工区全体を閉じるべきか」


「まだ早い」


女はそう言ったが、すぐに言い直した。


「……いや、違うな。ここだけでは済まないかもしれん」


「どういう意味だ」


工兵の監督が顔を上げる。


女は土砂置場のほうを見た。


「最近、新しい層を破ったな」


監督が眉をひそめる。


「南側の搬出路で、昨日」


「湿った空洞はあったか」


「小さいものなら。埋め戻したが」


「それだ」


女の声は低かった。


「巣を掘り当てた可能性がある。

幼体を一匹持ち込んだだけなら、ここまで早くは広がらない

搬出路、宿舎、資材置場、見回り路……人の動線に沿って、

もう散っていると見たほうがいい」


その瞬間、現場監督の顔から血の気が引いた。


「第三工区だけの話じゃないのか」


警備兵が答えるより早く、別の兵が駆け込んできた。


「報告!」


息を切らし、泥だらけのまま敬礼する。


「第二工区の仮設宿舎でも、昨夜、赤子保護の騒ぎがあったと!」


部屋の空気が、完全に凍った。


「……何だと」


「今朝から二名行方不明、ひとり高熱。泣き声に軋みが混じったと証言あり!」


誰もすぐには動けなかった。

第三工区だけの異常ではない。

偶然でもない。

もう工事現場の一角で起きた怪談では済まない。


ギルドの女が、短く息を吐いた。


「各上層を集めろ」


警備兵が振り向く。


「鉄道局、工兵、医療、警備、宮廷実務官。全部だ」


「今夜のうちにか」


「今夜のうちにだ。これは一工区の不始末ではない」


匠ーは、その言葉を聞きながら、宿舎の外へ目を向けた。

夕闇の向こう、掘り返された土の山が黒く積み上がっている。

地下鉄を通すために掘った土だ。

その土のどこかに、最初の巣があったのかもしれない。


人が道を通そうとして、別の何かの道を開けてしまった。


宿舎の奥で、隔離された男がまたうわごとを漏らした。


「寒い……かわいそうに……」


その声の奥で、喉ではないどこかが、乾いて軋んだ。


ギイ。


警備兵が剣の柄に手をかける。

医療係が患者から半歩離れる。

宿舎係は壁に背をつけたまま、青ざめて震えていた。


そして誰もが、同じことを考えていた。


いまここにいる者の中に、もう人ではないものが混じっているのではないか、と。


その夜、工区から宮廷へ、緊急の使いが走った。


対策会議が開かれる。

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