工事現場で事件発生
見難い火傷の子631
工事現場で事件発生
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
宮廷での報告が終わったころ、地下ではまだ昼と夜の区別が曖昧だった。
新設中の地下鉄第三工区。
掘り抜かれた土は仮設の搬出路を通って地上の土砂置場へ積み上げられ、
夜勤明けの工夫たちは泥と汗にまみれたまま、宿舎へ戻る列をつくっていた。
坑内の湿気を吸った衣服は重く、誰もが口数少なく、
ただ湯と寝台のことだけを考えて歩いている。
その列の後ろで、ふいに誰かが足を止めた。
「……おい」
先頭近くを歩いていた宿舎係の男が、振り返りもせずに言った。
「なんだ、落盤か」
「違う」
返ってきた声は、妙に低かった。
疲れているせいか、それとも聞き間違いか、言葉のあとに何か細い音が混じった気がした。
ギイ、と。
錆びた蝶番でも鳴るような、乾いた軋みだった。
列が止まる。何人かが顔を上げる。
夜明け前の薄青い空気の中、土砂置場の端、崩した土の影になるあたりから、また声がした。
――おぎゃあ。
赤子の泣き声だった。
だが、泣き終わりにまた、ギイ、ギイ、と混じる。
「こんな時間に……?」
若い工夫のひとりが眉をひそめた。
誰かが舌打ちする。
「捨て子か」
「馬鹿な、こんな工区の脇にか」
「町道からだって遠いぞ」
もっともな話だった。
第三工区の周囲はまだ柵と資材置場ばかりで、人家などない。
夜のうちに女がひとりで来られる場所でもないし、
来たとして、わざわざ土砂の山の陰に置いていく理由もない。
それでも泣き声はする。
おぎゃあ。
ギイ。
列の空気が、じわりと落ち着かなくなる。
疲れ切った頭でも、何かがおかしいとは分かった。
だが同時に、泣いているのが本当に赤子なら放っておけない、という気持ちもあった。
「警備を呼べ」
年嵩の工夫がそう言ったが、宿舎係の男は顔をしかめた。
「詰所まで戻るのにどれだけかかると思ってる。泣いてる間に死ぬぞ」
「だからってお前」
「見てくるだけだ」
止める声より先に、男は土砂の山へ踏み出していた。
若い工夫がふたり、しぶしぶ後に続く。
足元の土は夜露と地下水でぬかるみ、靴が沈む。
泣き声は近づくほどはっきりした。
やはり赤子の声だ。
だが、喉の奥で何か硬いものが擦れるような、耳障りな軋みが混じる。
ギイ。
おぎゃあ。
「……嫌な音だな」
若い工夫のひとりが呟いた。
「腹が減って喉が張りついてるんだろ」
宿舎係はそう言って、土砂の陰をのぞき込んだ。
そして息を呑む。
いた。
古びた布にくるまれた、小さな赤子だった。
土に半ば埋もれるようにして、手足をばたつかせている。
顔は泥で汚れ、頬は冷えきって赤黒い。
こんなところに置かれて、よくまだ泣く力が残っていたものだと思えるほどだった。
「本当にいたのか……」
後ろの若い工夫が、半歩下がる。
赤子は泣きながら、顔をこちらへ向けた。
薄暗くて目鼻立ちはよく見えない。
ただ、耳のあたりに違和感があった。
泥がこびりついているのか、妙に輪郭が硬い。
人の耳というより、乾いた殻の縁のように見えた。
宿舎係の男も一瞬、それに気づいたらしかった。
手を伸ばしかけて、止まる。
そのとき赤子が、ひときわ大きく泣いた。
おぎゃあああ――ギイッ。
男の顔から迷いが消えた。
「こんなところに置いておけるか」
「待て、変だぞ」
「変でも赤子だ!」
言い切って、男は抱き上げた。
軽かった。
驚くほど軽い。
布越しに伝わる体温は妙にぬるく、湿っているのに乾いてもいるような、嫌な感触だった。
男は眉をひそめたが、すぐに赤子を胸へ引き寄せた。
「耳が……」
若い工夫が言いかける。
「泥が固まってるだけだ。湯で洗えばいい」
男の声は強かった。
強すぎるほどだった。
疲労のせいか、あるいは別の何かのせいか、その判断の速さには妙な切迫があった。
列のほうで待っていた者たちがざわつく。
「いたのか」
「生きてるのか」
「女は」
「見当たらん」
宿舎係は赤子を抱いたまま戻ってきた。
誰もがその顔と腕の中を見た。
泣き声はもう小さくなっていた。
代わりに、喉の奥で鳴るような細い軋みが、ときおり布の中から漏れた。
ギ、……ギイ。
「警備に渡せ」
「その前に凍え死ぬ。宿舎で湯を使う」
「規則では」
「規則で赤子が温まるのか」
その一言で、何人かが黙った。
疲れ切った夜勤明けに、泣く赤子を前にして、強く言い返せる者は多くない。
年嵩の工夫が苦い顔をしたまま、最後にだけ言った。
「なら、せめて別室にしろ。寝台へは入れるな」
「分かってる」
そう答えた宿舎係の声は、どこか上滑りしていた。
宿舎へ戻る道すがら、匠ーは少し離れた位置からその様子を見ていた。
夜明けの薄光の中、抱かれた布包みはたしかに赤子の形をしている。
だが泣き止んだあとも、ときおり布の内側で何か硬いものが擦れるような音がした。
ギイ。
匠ーは眉を寄せた。
「……なんだ、今の音」
隣を歩いていた工夫が首を振る。
「さあな。耳に土でも入ったんじゃねえか」
皆、疲れていた。
坑内で一晩働いたあとの頭は鈍い。
おかしいと思っても、そのおかしさを掴みきれない。
匠ーもまた、違和感を言葉にできないまま、宿舎の戸口をくぐった。
その朝、赤子は空き部屋に寝かされた。
湯を沸かし、布を替え、薄い粥まで用意された。
宿舎係は妙に甲斐甲斐しく世話を焼き、
若い工夫のひとりは「町の役所へ届けるまでだ」と自分に言い聞かせるように繰り返した。
昼前には、夜勤明けの者たちはそれぞれ寝台へ沈んだ。
そして夜になって、最初の異変が起きた。
ひとりが寝台にいなかった。
厠だろう、と最初は誰も気にしなかった。
だが、しばらくしても戻らない。
探しに出た者が、宿舎裏の暗がりで泥にまみれた靴だけを見つけた。
片方だけ。
持ち主の姿はない。
「酔ってどこかで寝てるんだろ」
そう言った者の声は、少し震えていた。
別の部屋では、若い工夫が高熱を出してうなされていた。
汗に濡れた顔で、何度も同じことを呟く。
「泣いてる……置いておけない……」
「寒いだろ……かわいそうに……」
医療係を呼ぶかどうかで揉めているあいだにも、宿舎のどこかで、またあの声がした。
おぎゃあ。 ギイ。
今度は誰も、すぐには動かなかった。
翌朝、点呼の場は朝靄より重い空気に包まれていた。
宿舎係が名簿を読み上げる。
返事が返る。
だが途中で、年嵩の工夫が手を上げた。
「待て」
「なんだ」
「昨夜いなくなったやつがいる」
ざわり、と列が揺れた。
「誰だ」
「ハンスだ」
「いや、今いるだろ」
言われて皆が見る。
列の中ほど、泥の乾いた上着を着た男が、ぼんやりした顔で立っていた。
たしかにハンスだった。
昨夜、寝台から消え、靴だけが見つかったはずの男。
呼ばれた本人は、眠そうに目をしばたたかせた。
「……なんだよ」
「お前、昨夜どこにいた」
「どこって、寝てたに決まってるだろ」
「寝台にいなかった!」
男は眉をひそめた。
周囲を見回し、面倒そうに鼻を鳴らす。
「知らねえよ。勝手に厠にでも行ったんじゃねえのか」
笑う者はいなかった。
名簿を持つ宿舎係の指が、紙の上で止まっている。
列の後ろでは、誰かが小さく息を呑んだ。
匠ーはハンスの顔を見た。
見慣れた顔のはずなのに、どこかが噛み合っていない気がした。
目元か、口元か、それとも立ち方か。
うまく言えない。ただ、昨夜までと同じ人間を見ている感じがしなかった。
そのとき、宿舎のほうから、かすかな泣き声が流れてきた。
おぎゃあ。
そして遅れて、乾いた軋みが混じる。
ギイ。
列の誰も、すぐには振り向かなかった。




