行道尚書・梁宗閔の娘、梁玉玲
見難い火傷の子606
行道尚書・梁宗閔の娘、梁玉玲
深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層
鉄の時代
この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。
馬車の中の人物が、ようやく布の内側から小さく声を発した。
若い女の声だった。
震えてはいる。
だが、壊れてはいない。
「……もう、よろしいのですか」
護衛のひとりがすぐに馬車へ向き直る。
「玉玲様、どうかそのまま。まだ周囲の確認が済んでおりません」
その名に、匠一の目がわずかに動いた。
玉玲。
名乗りが先に出るということは、隠す必要のない家だ。
あるいは、隠しても仕方がないほど高い家だ。
マリーが馬の首筋を撫でながら、短く言う。
「出ないで。まだ怖がってる」
馬のことだった。
だが馬車の中の娘にも、そのまま通じた。
「……分かりました」
声は細い。
それでも、言葉は崩れていない。
育ちの良い娘の声だった。
護衛の中で、いちばん年嵩の男が剣を納め、匠一たちへ向き直った。
肩口は裂け、血が滲んでいる。
それでも姿勢は崩さない。
「此度の助力、まことに痛み入る。
こちらにおわすは、行道尚書・梁宗閔様のご息女、梁玉玲様にございます」
やはり、太い。
街道、駅伝、関所、輸送。
道を握る家の娘。
しかも尚書級。
匠一は顔に出さなかったが、頭の中では線が一気につながっていた。
市から上へ。
地方府から城へ。
そして城の中で、道の話を真正面から聞ける家へ。
護衛は続けた。
「我らは城へ向かう途上にありました。
賊は森陰より突然現れ、馬を止め、まず御者を狙い、
ついでお嬢様を馬車より引きずり出そうと……」
そこで言葉が詰まる。
言い切れば現実になる。
そういう詰まり方だった。
ハナが小さく鼻を鳴らした。
「間に合ったから、いい」
護衛は一瞬だけ目を伏せた。
「……その通りです」
ニールが街道の先を見たまま言う。
「まだ誰か来る感じはない。でも、逃げたのがいたら面倒」
「逃がしてない」とダン。
「たぶん」とキール。
「たぶんじゃ困る」とマリー。
「じゃあ見てくる」とキール。
匠一が首を振る。
「いい。今は離れるな」
短いが、全員が止まるには十分だった。
ここで散るより、まず線を固める。
匠一はそう決めていた。
護衛の年長者が、改めて深く頭を下げた。
「私は梁家護衛頭、周蓋と申します。このご恩、梁家が忘れることはございません」
「忘れなくていい」と匠一。
周蓋が顔を上げる。
「……は」
「でも今は、礼より先に片づける」
匠一は赤布の頭目を足元へ転がした。
男はまだ意識がある。
鼻血と泥で顔を汚しながら、こちらを睨もうとしていた。
だが、その目にはもう勢いがない。
「こいつ、縛る」
「すでに」とマリー。
いつの間にか、野盗のひとりから奪った縄が頭目の腕に回っていた。
「他も」と匠一。
「やってる」とダン。
「暴れるやつはちょっと静かにした」
「ちょっとじゃない」とハナ。
「生きてるからいいだろ」
周蓋はそのやり取りを見て、わずかに息を呑んだ。
助けてくれたのは間違いなく子どもたちだ。
だが、子どもとして見ていい相手ではない。
その認識が、ようやく骨まで落ちた顔だった。
馬車の中から、再び声がした。
「周蓋」
「はっ」
「その方々に、きちんとお礼を」
周蓋はすぐにひざまずいた。
「玉玲様、まずは安全の確保を――」
「分かっています。ですが、命を救われたのです」
布の向こうの声はまだ震えていた。
それでも、言うべきことを言う強さがあった。
匠一は馬車を見た。
中の娘は、ただ守られるだけの人間ではないらしい。
「出なくていい」と匠一。
馬車の中が静かになる。
「まだ道の上。
見られる。
怖いなら、なおさら」
少しの間があった。
それから、布の向こうで小さく息を吸う音がした。
「……はい」
素直だった。
無理に気丈を張らないのは、むしろ賢い。
マリーが馬の鼻先を撫でながら言う。
「この子たち、水いる」
御者がはっとしたように顔を上げる。
「み、水袋が……後ろに」
ハナがすぐに回り込み、荷の脇から水袋を引っ張り出した。
馬へ少しずつ含ませる。
暴れていた鼻息が、ようやく落ち着き始めた。
匠一は周蓋へ向き直った。
「城まで、どれくらい」
「馬車で半日ほど。
ですがこの襲撃で車輪と馬が……」
周蓋はそこで言い淀んだ。
護衛は減っていない。
だが消耗している。
馬も怯え、御者も震えている。
このまま進めば、また狙われるかもしれない。
匠一は街道と森を見た。
それから馬車。
それから縛られた野盗たち。
順番に見て、必要なことを切り分ける。
「ここに長くいるのは駄目」
「同感です」と周蓋。
「でも急いで崩れるのも駄目」
周蓋はうなずいた。
その通りだった。
ニールがぽつりと言う。
「さっきの賊、玉玲って名前は呼んでない。
でも中が大物なのは知ってた感じ」
周蓋の顔が変わる。
「……それは、確かか」
「口見た。
“顔見りゃ金になる”とは言ってた。
でも名前は出てない」
つまり、待ち伏せはした。
だが、相手の正体を完全に掴んでいたわけではない。
街道で豪華な馬車を見つけ、獲物として襲った可能性が高い。
それは少しだけ救いだった。
内通の匂いが薄くなる。
周蓋も同じ結論に至ったらしい。
目の奥の緊張が、ほんのわずかだけ緩んだ。
「……なら、まだましです」
「まし?」とダン。
「梁家の娘を名指しで狙ったのであれば、賊では済みません。
政の話になります」
「もう十分面倒そうだけど」とハナ。
「はい。ですが、もっと悪くなり得ました」
馬車の中で、布がわずかに揺れた。
玉玲もその意味は分かっているのだろう。
匠一は短く言った。
「未然で止まった」
周蓋が匠一を見る。
「……ええ」
「拉致も、失踪も、殺しも」
その三つを並べられて、周蓋の喉が詰まった。
まさにそれだった。
もしあと少し遅れていれば、梁家の娘は街道上で消えていた。
見つかるのが遺体か、生きたままの辱めの後か、それとも永遠に行方知れずか。
どれになっても、梁家だけでは済まない。
行道尚書の娘が街道で消える。
それは街道行政そのものの失態として、城へ届く。
地方府は責を問われ、護衛は処断され、政敵は騒ぎ立てる。
そして何より、梁宗閔自身が折れる。
周蓋は深く頭を垂れた。
「……その通りです。
あなた方は、梁家の娘だけでなく、梁家そのものを救われた」
匠一は少しだけ首を傾けた。
「道も」
「……は?」
「道の上で起きた。
道の顔が潰れるところだった」
周蓋は目を見開いた。
その言葉は、ただの子どものものではなかった。
梁家の痛手を、家の恥ではなく、道の失墜として捉えている。
それはまるで、行道の役人が言うような見方だった。
馬車の中から、今度ははっきりと声がした。
「その通りです」
周蓋が振り返る。
「玉玲様」
「父が最も嫌うのは、道が途切れることです。
人も、物も、報せも。
それが賊ごときに断たれるなど……」
そこで声が少し震えた。
怒りか、恐怖の戻りか、その両方か。
「……あってはならないことでした」
匠一はその声を聞いて、少しだけ目を細めた。
この娘は、父の仕事を分かっている。
ただ守られて運ばれるだけの娘ではない。
マリーが小さく笑う。
「話、早いかも」
「うん」とハナ。
周蓋は姿勢を正した。
「どうか、城までご同行願えませんか」
言葉は丁寧だった。
だが中身は懇願に近い。
護衛だけで進むには不安が残る。
そして何より、この恩人たちを梁家へつなぎたい。
その両方が入っていた。
匠一は少しだけ空を見た。
《ソラ》は見えない。
ノクスは隠れている。
なら、今は地上の線を拾える。
「行く」と匠一。
周蓋の肩から、目に見えて力が抜けた。
「……感謝いたします」
「でも」と匠一。
周蓋が顔を上げる。
「上の舟のことは、聞かないで」
空気が止まった。
護衛たちの目が一瞬だけ揺れる。
見ていたのだ。
空から降ってきたことも、その上に何かがいたことも。
周蓋は沈黙した。
賢い男だった。
ここで問い詰めれば、せっかくつながった線が細る。
問わずに受けるべき場面だと分かる。
「……承知しました」
匠一はうなずいた。
「こっちも、今は聞かない」
「何を、でしょう」
「なんでこの人数で、この馬車だったか」
周蓋の顔が固まる。
図星だった。
護衛の数が少ない。
馬車は豪華。
乗っているのは行道尚書の娘。
それでこの街道を行くには、少し軽い。
事情があるのだろう。
だが今はまだ、そこを掘る時ではない。
周蓋はゆっくりと頭を下げた。
「……城へ着きましたら、必ず」
「うん」
それで話は足りた。
匠一は振り返る。
「ダン、縄」
「やってる」
「キール、森」
「見る」
「ニール、前と後ろ」
「見てる」
「マリー、馬」
「任せて」
「ハナ、中の人」
「うん」
六人が散る。
今度は戦うためではなく、進むために。
馬車の中で、玉玲が小さく息をついた。
助かった安堵と、これから始まる何かへの緊張が混ざった息だった。
街道の上で断たれかけた線は、つながった。
しかもただ元に戻ったのではない。
別の線まで拾って、太くなった。
行道尚書・梁宗閔の娘、梁玉玲。
その名は、城へ向かう道そのものだった。
そして匠一たちは今、その道の上を、自分たちの足で進もうとしていた。




