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見難い火傷の子  作者: 清風
605/659

空から落ちる六人

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子605


空から落ちる六人


深淵ダンジョン第十七エリア、第四紀完新世層

鉄の時代

この地では、人を除く多くの生きものが八倍の大きさで生きている。


翌朝、窓のある部屋は静かだった。


静かすぎた。


見張りのひとりが、朝の水を持って戸を叩いた時、返事はなかった。

もうひとりが顔をしかめ、戸を開ける。

中には、誰もいなかった。


寝台は大きく乱れていない。

藁は少し沈んでいるが、暴れた跡はない。

机の上には昨夜の椀が寄せて置かれ、水差しも倒れていない。

窓は閉まっている。

戸にも壊された跡はない。

なのに、六人は消えていた。


見張りは青ざめ、廊下を駆けた。

補佐が呼ばれ、ラドが飛び込み、建物の裏表が一気に騒がしくなる。

だが、騒がしくなったところで、部屋の中の静けさは変わらなかった。

争った形跡がない。

押し破った跡もない。

ただ、必要がなくなったから出ていったような、整いすぎた不在だけが残っている。


補佐は部屋の中を見回し、長く息を吐いた。


「……これか」


ラドが青い顔で言う。


「追いますか」


補佐はすぐには答えなかった。

寝台。

机。

窓。

戸口。

そして、整えられた椀。

逃げたのではない。

移ったのだ。

こちらの線の上にいる必要がなくなったから、別の線へ。


「監督官殿を呼べ」


「はい」


「追うのはそのあとだ」


ラドは一瞬だけ迷った。

だが補佐の顔を見て、何も言わずに走った。


その頃、六人はもう市の上にはいなかった。


《ソラ》は朝の薄い光の中を、音もなく進んでいた。

地上の道はまだ湿っている。

夜の冷えが残り、草の先には白い露が光っていた。

市から城へ向かう街道は、山の起伏を避けながら、ところどころで森の縁をかすめて伸びている。

荷車の轍が二本、長く土を削り、その脇を馬や人の足跡が重なっていた。


匠一は縁から下を見ていた。

ダンは後ろで腕を組み、キールは風の流れを見ている。

マリーは荷を押さえ、ハナは街道の先を目で追い、ニールは下をじっと見ていた。


「城、遠い?」とハナ。


「まだ」と匠一。


「でも道は太い」とマリー。


「うん。上へ行く道」


市の線を飛び越えた。

なら次は、もっと上だ。

監督官が通してくれるなら待つつもりだった。

だが、待つより早い線があるなら、そちらを使う。

それだけのことだった。


ニールがふと目を細めた。


「下、変」


キールが身を乗り出す。


街道の少し先、森が道へ張り出したあたりで、馬が暴れていた。

荷車ではない。

飾りのついた、屋根の高い豪華な馬車だ。

濃い布で覆われ、側面には金糸の縁取りまで見える。

護衛らしい者もいるが、数が足りない。

道の左右から、粗末な革鎧と槍や鉈を持った男たちが群がっていた。


「野盗」とダン。


「多い」とマリー。


「馬車、いいやつ」とハナ。


匠一は少しだけ目を細めた。

ただの商人の荷ではない。

あの飾り方は、見せるための馬車だ。

乗っているのは金持ちか、役人か、それに近い誰か。


下では怒鳴り声が飛んでいる。

だが距離がある。

風向きも悪い。

普通なら細かい言葉までは拾えない。


ニールは身を乗り出し、下の男たちの顔を見た。

耳ではなく、口を見る顔だった。

唇の開き方。

顎の動き。

怒鳴る時の歯の見え方。

誰が命じ、誰が怒鳴り返し、誰がただ騒いでいるだけか。

ニールの目が、それを順に拾っていく。


「見える?」とハナ。


「言葉を追う」


ニールは下を見たまま言った。


「止まれ」


少し間。


「女だけ出せ」


マリーの眉がぴくりと動く。


ニールはさらに口の動きを追った。


「馬を刺すな。馬車ごと持っていく」


ダンが鼻で笑った。


「雑だな」


「中にいるの、貴いのか」


「紋見りゃ分かるだろ、馬鹿」


「護衛を先に崩せ」


「森側へ回れ」


キールがすぐに反応する。


「森側に伏せがいる」


「はい。弓」


ニールは短く答えた。

音だけではない。

口の向きと視線の流れで、誰に命じているかまで見えている。


「頭はひとり」とニール。


「どいつ」と匠一。


「左の、赤い布巻いてるやつ。あれが決めてる。

他は勝手に騒いでる」


マリーが目を細める。


「統率はあるけど、強くはない」


ニールは最後に、馬車の近くで怒鳴る男の口を読んだ。


「生かして連れてけ。顔見りゃ金になる」


条件は、嫌になるほど似ていた。


護衛つきの豪華な馬車。

中にいる、身分の高い女。

それを物のように値踏みする声。

連れ去る気でいる野盗。

そして、間に合うかどうかが一息で決まる距離。


クワガタ公爵に嫁ぐ、コウチウ王国王女アンが襲われた時と、ほとんど同じだった。


なら、答えも同じだった。


ニールがそこまで拾った時、匠一はもう《ソラ》の縁を蹴っていた。


言葉はなかった。

だがダンは「あーあ」と笑って続き、キールは森側へ身を切り、

マリーは馬車へ落ちる角度を取り、ハナは護衛と馬の間へ、

ニールは最後に全体を見てから飛んだ。


《ソラ》だけが、朝の空に残された。


匠一は最短だった。

空気を裂くように、真っ直ぐ赤布の頭目へ落ちる。

野盗のひとりが何かに気づいて顔を上げた時には、もう遅い。


「な――」


言葉は最後まで出なかった。


匠一の小さな体が、頭目の肩口へ上から叩き込まれる。

鈍い音。

赤布の男が地面へめり込み、土が跳ねた。

周りの野盗たちが何が起きたのか理解するより先に、ダンが別のひとりを横から弾き飛ばす。


「上だ!?」


誰かが叫ぶ。

だがその叫びの途中で、キールが森側へ滑り込んだ。

弓を構えていた伏せのひとりの手首を蹴り上げ、矢を空へ逸らす。

もうひとりが振り向くより早く、二本目の蹴りが顎を打った。


マリーは馬車の脇へ落ちた。

着地と同時に、護衛へ槍を振り下ろそうとしていた野盗の腕へ体ごとぶつかる。

刃が逸れ、護衛が息をつく。


「下がって!」


短い声。

だがそれだけで十分だった。


ハナは暴れる馬の前へ回り込み、手綱へ伸びる野盗の顔面を蹴り抜いた。

男が後ろへ転がる。

馬はなおも白目を剥いているが、真正面に立つ小さな影に一瞬だけ怯み、前脚を止めた。


ニールは少し高めから降り、全体を見た。

頭目は落ちた。

森側の弓は二。

馬車の右に三、左に四、後ろにまだ五。

護衛は四人、うちひとりは膝をついている。

御者は生きている。

中の人物もまだ無事。


「後ろ五!」


その声で、ダンが振り向きざまに笑う。


「了解!」


野盗たちはようやく状況を理解し始めた。

空から子どもが降ってきた。

しかも一人ではない。

馬車を囲っていたはずの輪の中へ、上から穴を開けられた。

頭目は地面に沈み、森側の弓は潰され、馬車の脇にはもう近づけない。


「何だこいつら!」


「ガキだぞ!」


「ガキが空から降るか!」


その混乱の中で、匠一はもう次の男へ向かっていた。

説明も名乗りもない。

ただ、邪魔なものから順に潰していく。


クワガタ公爵の姫を助けた時と同じだった。

違うのは、あの時よりも六人の動きが、もっと速く、もっと噛み合っていることだけだ。


前は反射だった。

今も反射だ。

だが、反射は繰り返された分だけ鋭くなる。


馬車の中で、布の隙間がわずかに開いた。

誰かが外を見ている。

だがその目に映るのは、護衛でも援軍でもない。

空から降ってきた、六つの小さな影だった。


そしてその六人は、野盗たちにとっては小さくなどなかった。

上から落ちてきた瞬間から、もう災厄だった。


匠一は次の男の膝を蹴り砕くように折らせ、そのまま振り向きもせず意識だけを上へ飛ばした。


ノクス。

《ソラ》を上げろ。

街道から見えない位置へ。

合図まで隠れて待て。


返事はすぐに来た。


――了解。

尾根の陰に入れる。

合図まで待機する。


それで十分だった。

空の始末はついた。

あとは地上だけ見ればいい。


赤布の頭目が土の中からうめきながら身を起こしかける。

匠一は一歩で間合いを詰め、その顔面を踏み戻した。

鈍い音と一緒に、男の体がまた沈む。


「頭、まだ生きてる!」とニール。


「生かしとけ!」とマリー。


「聞くことあるし!」とハナ。


ダンが笑う。


「じゃあ半分だけな!」


その間にも、護衛たちはようやく呼吸を取り戻し始めていた。

だが目の前で起きていることが理解できず、剣を構えたまま固まっている者もいる。

無理もなかった。

襲撃で崩れかけた陣形の中へ、突然、空から子どもが六人降ってきて、野盗の輪を食い破ったのだ。


御者台の男が震える声を上げた。


「お、お嬢様は……!」


「無事!」とハナが短く返す。

「まだ出ないで!」


馬車の中で、布がもう少しだけ揺れた。

中の人物は出てこない。

だが、声は聞こえていたのだろう。

無理に飛び出してこないだけでも十分に賢い。


森側で、キールが最後の弓持ちを蹴り倒した。


「伏せ、終わり!」


「右三!」とニール。


「見る!」とマリー。


マリーが馬車の脇から半歩出る。

そこへ突っ込んできた野盗の槍を、体をひねって外し、柄を掴んで引いた。

男の体勢が崩れたところへ、護衛のひとりがようやく剣を振るう。

遅いが、間に合った。

刃が男の肩を裂き、野盗が悲鳴を上げて転がる。


「立てるなら立って!」とマリー。

「守るなら今!」


その一言で、護衛たちの顔が変わった。

助けられる側の顔から、守る側の顔へ戻る。

膝をついていたひとりも歯を食いしばって立ち上がった。


匠一はそれを横目で見て、短く判断した。

もう崩れない。

なら押し切れる。


「ダン、後ろ」


「おう」


「キール、左」


「うん」


「ニール、見る」


「見てる」


短い。

だがそれで足りた。

六人の動きは、もう言葉の量ではなく、噛み合いの深さで回っていた。


野盗のひとりが、馬車から離れて森へ逃げようとした。

ニールが即座に叫ぶ。


「逃がすと面倒!」


次の瞬間、ダンが石でも投げるような勢いで地を蹴り、その背中へ体当たりした。

男は前のめりに転がり、顔から泥へ突っ込む。


「面倒は潰す!」


「ああ」と匠一。


残る野盗たちの目に、もう欲はなかった。

あるのは混乱と恐怖だけだ。

獲物を囲っていたはずなのに、いつの間にか自分たちが狩られている。

しかも相手は、どこから来たのかも分からない小さな化け物じみた子どもたちだ。


「ひ、引け!」


誰かが叫んだ。

だが遅い。

頭目は踏み沈められ、森側は潰れ、馬車の脇は護衛が立て直した。

退くにしても、もう綺麗には退けない。


匠一は最後に残ったひとりの腹へ拳をめり込ませ、

男が折れたところを首根っこで掴んで地面へ転がした。

それで、道の上の勢いが切れた。


荒い息。

暴れる馬の鼻息。

誰かのうめき。

朝の街道に、遅れて静けさが戻ってくる。


《ソラ》の影は、もう空になかった。


匠一は一度だけ上を見た。

見えない。

それでいい。

ノクスはちゃんとやった。


馬車の前で、護衛のひとりがようやく剣を下ろした。

まだ息は乱れている。

だが、その目は六人を見ていた。

驚きと警戒と、助かったという実感が、全部混ざった目だった。


「……助太刀、感謝する」


声はかすれていた。

それでも礼を言うだけの矜持は残っている。


匠一はその男を見た。

それから馬車を見た。

護衛の数、馬の状態、御者の震え、中の人物がまだ出てこないこと。

全部を一息で見て、必要なことだけを先に決める。


「まだ終わってない」


護衛が息を呑む。


「縛る。見張る。馬、落ち着かせる。

話はそのあと」


その言い方は子どものものではなかった。

護衛は一瞬だけ戸惑い、それから深くうなずいた。


「……承知した」


匠一はそれ以上は言わず、赤布の頭目の腕を後ろへねじり上げた。

マリーとハナが馬車へ寄り、キールが森側をもう一度確認し、ニールは街道の先と後ろを見た。

ダンは転がした野盗を足先でつついて、生きているか確かめている。


空はもう静かだった。

見えない尾根の向こうで、《ソラ》は息を潜めている。

なら今は、この地上の線だけを拾えばいい。


馬車の中の人物が、ようやく布の内側から小さく声を発した。

若い女の声だった。

震えてはいる。

だが、壊れてはいない。


その声を聞いて、匠一は思った。

間に合った。


拉致にも、失踪にも、殺害にもならなかった。

大事件になるはずだった線は、ここで断ち切れた。


そしてその先に、別の太い線が、静かに姿を見せ始めていた。

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