モンゴルの使者
見難い火傷の子577
モンゴルの使者
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
青銅の時代
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
草は人の背丈を越えて林のように群れ、虫は鳥めいて羽音を立て、
獣の足跡には雨水が溜まって小さな池ができる。
地上であれば荷車が通る程度の轍も、この層では堀に等しかった。
人が人の尺度のまま踏み込めば、世界そのものに呑まれる。
そんな場所だった。
その異界の縁を、モンゴルの使者たちは進んでいた。
彼らは勇敢だった。
少なくとも、自分たちではそう信じていた。
草原を駆け、城壁を越え、
幾つもの王と部族を屈服させてきた大ハーンの言葉を預かる者として、
怯えを顔に出すことは許されない。
だが、このバビロニアに足を踏み入れてからというもの、その矜持は幾度となく試されていた。
最初に彼らの度肝を抜いたのは、道だった。
道がある。
それ自体はおかしなことではない。
人が通れば道はできる。
獣が群れれば獣道も生まれる。
だが、彼らの目の前にあるそれは、踏み固められた道ではなかった。
敷かれていた。
黒々とした基盤の上に、規則正しく並ぶ枕木。
そこへ渡された二条の鉄。
しかもそれは、ただ地面に置かれているのではない。
湿り気と沈下に耐えるよう、下層に砕石と排水溝が組まれ、
ところどころに結界杭まで打ち込まれている。
使者の一人が馬上で息を呑んだ。
「……こんな場所に、道を“作る”のか」
問いに答える者はいなかった。
代わりに、遠くから低い振動が伝わってきた。
地鳴りに似ていた。
だが違う。
地震のような無秩序な揺れではない。
一定の間隔を刻みながら近づいてくる、意志ある重みだった。
やがて霧の向こうから、その正体が現れる。
アースロプレウラトラック。
節を連ねた巨体は、まるで青銅の時代に迷い込んだ鋼鉄の百足だった。
ひと節ごとに資材庫、工房、補修機構、結界発生器を抱え、
前進しながら軌道を延ばし、後続へ補給を流していく。
巨草をなぎ倒し、ぬかるみを均し、必要とあらばその場で橋脚すら組み上げる。
使者たちは思わず馬を止めた。
草原の民にとって、速さは力だ。
だが目の前のそれは、速さとは別の意味で強かった。
止まらないものの強さ。
それを、彼らは本能で理解した。
さらに空を見上げれば、オートメガネウラの群れが巡回していた。
巨大な蜻蛉めいた機体は、空気を切り裂きながら、
一定の間隔で旋回し、索敵と通信中継を担っている。
翅の反射光が青銅色の空洞天井にちらつくたび、
使者たちは自分たちが見張られていることを思い知らされた。
そして湿地の向こう、水とも泥ともつかぬ危険地帯を、
何事もないように滑っていく影があった。
ヴァッサーロイフェル。
アメンボウを思わせる多脚結界艇は、脚先に張った薄い光膜で地表との接触を拒み、
沈まず、汚れず、呪われず、ただ静かに進んでいく。
泥濘は、馬なら脚を取られ、人なら腰まで沈む。
だがその上を、彼らは橋もなく渡っていた。
使者の中で最年長の男が、ようやく絞り出すように言った。
「……これは、軍か」
誰も答えなかった。
答えられなかったのだ。
軍である。
だが軍だけではない。
道を敷き、物を運び、空を押さえ、湿地を越え、拠点を築き、連絡を保ち、
必要なものを必要な時に必要な場所へ送り込む。
それはもはや兵の集まりではなく、国家そのものが前進している とでも言うべき光景だった。
彼らが通された会見所は、仮設でありながら仮設に見えなかった。
巨木を加工した梁に、鉄道国式の補強金具が噛ませてある。
床は湿気を避けて高く組まれ、周囲には結界灯が等間隔に並び、
遠くでは補給台車が時刻通りに行き交っていた。
その整然さは、使者たちに別種の圧迫を与えた。
草原では、強い者が秩序を作る。
ここでは違う。
秩序そのものが強い。
やがて、会見所の奥の幕が静かに開いた。
爆炎クランの戦士たちが、左右に分かれて立つ。
誰一人として声を上げず、威嚇の仕草すら見せない。
だが、その沈黙のほうがよほど重かった。
彼らは火を振るう者たちであり、恐竜の群れすら食材処理したと噂される連中である。
使者たちも、その名くらいは聞いていた。
その者たちが、護衛としてではなく、まるで儀礼の一部のように整然と並んでいる。
その中央を、一人の男が歩いてきた。
匠ーだった。
豪奢な甲冑を着けているわけではない。
王冠もなければ、威圧のための大仰な装飾もない。
むしろ実務者めいた簡素さだった。
だが、その場にいる誰よりも自然に、この空間の中心に立った。
使者たちは直感した。
この男が、ここで最も危険なのだと。
匠ーは席に着くと、まず使者たちを見た。
値踏みするようでいて、侮る目ではなかった。
馬の良し悪しを見る者の目にも、兵の癖を読む者の目にも似ていたが、それとも少し違う。
もっと広い何か――人と集団と、その先の流れまで見ているような目だった。
「遠路ご苦労」
第一声は、拍子抜けするほど穏やかだった。
「使者は使者として扱う。ここでは斬らん。安心しろ」
最年長の使者が、慎重に一礼した。
「大ハーンの言葉を預かって参った」
「聞こう」
匠ーは短く言った。
余計な前置きも、虚勢もない。
それがかえって、使者にはやりにくかった。
使者は口上を述べた。
大ハーンの威名。
これまで屈した諸国。
抗えばどうなるか。
従えば何が与えられるか。
草原の覇者の言葉として、それは十分に威圧的であるはずだった。
実際、これまで多くの王侯はその名を聞いただけで顔色を変えた。
だが匠ーは、最後まで黙って聞いていた。
頷きもせず、怒りもせず、ただ聞いた。
やがて使者が言葉を終えると、匠ーは机上の地図に指を置いた。
それはこのバビロニアと、その周辺の進出路、
湿地、仮設軌道、補給拠点を記したものだった。
「お前たちは、よく動く」
匠ーは言った。
「広い土地を渡る術を知っている。
馬を殺さず、人を飢えさせず、遠くまで軍を持っていく勘もある。
だから厄介だ」
使者の一人が、わずかに胸を張る。
敵であっても、その評価は誇らしかった。
だが次の言葉が、その誇りを妙な形で冷やした。
「だが、線路を知ったらもっと厄介になるな」
使者たちは顔を見合わせた。
脅し文句ではない。侮辱でもない。
まるで、まだ見ぬ未来の話を当然のように口にされたのだ。
「……何を言っている」
若い使者が思わず漏らすと、左右の爆炎クランがわずかに視線を動かした。
だが匠ーは気にした様子もなく続けた。
「お前たちは速さの価値を知っている。
補給が切れれば軍が死ぬことも知っている。
遠くをまとめるには、移動を握るしかないことも分かっている。
なら、いずれ理解する。
馬で大陸を制した者は、線路で大陸を結ぶ価値も分かる」
最年長の使者が、低く問うた。
「我らを、降すつもりか」
「必要なら焼く」
匠ーはあっさり言った。
その言葉に、会見所の空気が一段冷えた。
爆炎クランの誰も表情を変えない。
だからこそ、その一言が冗談でも虚勢でもないと分かる。
「だが、焼いて終わりではつまらん」
匠ーは続けた。
「全員殺せば一度は静かになる。
だがそれだけだ。
広い土地は残る。
人もまた湧く。
別の旗が立つ。
なら、止めたあとで組み込むほうがいい。
奪うより運んだほうが得だと覚えさせる。
略奪より駅市のほうが腹が満ちると分からせる。
そうなれば、昨日の敵兵は明日の乗客だ」
使者たちは、今度こそ言葉を失った。
彼らは脅迫も、降伏勧告も、あるいは怒りに満ちた罵倒も予想していた。
だが目の前の男は、戦の最中に、すでに戦の後の流通と教育の話をしている。
若い使者が、半ば反発するように言った。
「我らを家畜のように言うか」
「違う」
匠ーは即座に否定した。
「家畜は時刻表を読まん。お前たちは読むようになる」
その場にいた何人かが、意味を測りかねて黙った。
匠ーはそこで初めて、わずかに笑った。
「敵の中枢を殺すのは簡単だ。
だが、それでは次の代も同じ理屈で育つ。
だから学ばせる。
工学、兵站、法、会計、運行、時間感覚。
必要なものを必要な時に必要な場所へ遅れず届ける、その理屈をな。
そうして帰せば、向こうで勝手にこちらの流儀を広める」
「……使者を学び舎に放り込むつもりか」
最年長の使者の問いに、匠ーは首を振った。
「最初の使者にそんなことはせん。使者を返さねば、拉致と騒ぐだろう。筋が悪い」
あまりにも率直な言い方に、使者たちはかえって返答に詰まった。
「お前たちは返す。礼に則ってな」
匠ーは言う。
「だが帰る前に、見せるものは見せる。
大学も、工房も、駅も、補給もだ。
そのうえで提案する。
子弟を寄越せ、と。
特別学生として受け入れる。
鎖では繋がん。
時刻で繋ぐ」
その言葉に、最年長の使者は初めて、目の前の男の恐ろしさを別の形で理解した。
この男は、ただ勝つことを考えていない。
勝ったあと、相手の次の世代が何を学び、何を当然と思い、何に依存して生きるかまで考えている。
草原の覇者が土地を取るなら、この男は時間を取る。
そして時間を取られた者は、やがて自分の足で相手の駅へ来る。
「……我らが従わぬなら」
最年長の使者は、ようやくそれだけを問うた。
匠ーは少しも間を置かなかった。
「止める」
簡潔だった。
だが、その二文字の中に、焼くことも、断つことも、
飢えさせることも、道を奪うことも、すべて含まれていた。
「ただし、使者は返す。
そこは変えん。
お前たちは見たものを持ち帰れ。
こちらが何を持ち、何を考え、何を惜しみ、何を惜しまぬかを、余さずな」
会見はそれで終わった。
追い立てられるような終わり方ではなかった。
むしろ丁重ですらあった。茶も出され、休息も与えられ、帰路の安全まで保証された。
だが使者たちの胸中は、来た時よりも重かった。
彼らは恐ろしい軍を見たのではない。
恐ろしい国を見たのだ。
火を振るう者たちがいて、空を押さえる機械がいて、
湿地を越える結界艇がいて、線路を通す執念がある。
それだけでも十分に脅威だった。
だが何より恐ろしいのは、それらすべてが、戦のためだけではなく、
その後に人を運び、物を流し、敵の子弟に時間感覚を教え込むために整えられていることだった。
帰路につく直前、若い使者が小さく呟いた。
「……あの男は、我らを滅ぼす気ではないのか」
最年長の使者は、しばらく答えなかった。
やがて、乾いた声で言った。
「違うな」
「では、何だ」
老使者は、背後に伸びる仮設軌道を振り返った。
そこでは補給台車が、まるで最初からそう決まっていたかのように、寸分違わぬ間隔で走っていた。
「あれは、我らの行く末まで使う気だ」




