幸せの友引
見難い火傷の子574
幸せの友引
ナッツ大陸環状線開通式から一年後のある日――。
あれほど慌ただしく人と資材と声が行き交っていた沿線にも、
いまではすっかり新しい日常が根づいていた。
駅舎の時計は正確に時を刻み、列車は朝から晩まで定刻で走り、
かつて仮設の詰所だった場所には花壇や案内板まで整えられている。
開通式の日に空を埋めた祝砲と歓声は、いまや遠い祭りの記憶だったが、
その余韻は確かに土地の隅々へ染みこんでいた。
その「その後」を、誰よりも静かに、そして深く引き受けていたのがゴレムだった。
帰国後、彼はナッツ大陸で見聞きした出来事を一冊の小さな冊子にまとめた。
題して『鉄道国放浪記』。
大仰な英雄譚ではない。
泥にまみれた敷設現場のこと、夜明け前の駅で湯気を立てる茶のこと、
線路が通るだけで人の顔つきが変わること、そして鉄道国という奇妙で騒がしく、
けれど妙に人を惹きつける国のこと。
そうした細々とした実感を、彼は飾らぬ筆致で綴った。
それが思いがけず新聞社の目に留まった。
最初は地方欄の小さな紹介記事にすぎなかった。
だが「外から見た鉄道国」という視点は読者の興味を引き、
記事は評判を呼び、やがて冊子は正式に出版されることになった。
出版後、『鉄道国放浪記』は予想以上の売れ行きを見せた。
鉄道国を知らぬ者には異国の冒険譚として、
知る者には自分たちの日々を映す鏡として読まれたのである。
その功績は、単なる文筆の成功にとどまらなかった。
鉄道国の実情と魅力を外の世界へ伝えた文化的貢献は高く評価され、
ゴレムはついに鉄道国名誉国民の称号を授かることとなった。
叙任式の日、彼に手渡された名誉国民証は、
磨かれた金属板に鉄道国の紋章を刻んだ、いかにも仰々しい代物だった。
「これで君も、もう半分どころか八割がた身内だな」
式のあと、そう言って笑ったのは匠ーだった。
冗談めかした口調ではあったが、その目には本気の労いがあった。
「八割というのは、ずいぶん中途半端ですね」
「残り二割は、まだ勝手に線路を増やせる権限を与えていないからだ」
「そんな権限、最初から要りませんよ」
周囲に控えていた者たちが小さく笑う。
名誉国民証には特典も付いていた。
鉄道国管内の列車利用に関する特別優待である。
公務や招待に準ずる移動であれば無償、私用であっても大幅な割引が適用される。
駅員に証を示せば、敬礼つきで改札を通されることすらあるという。
ゴレムはその扱いにまだ慣れず、むしろ居心地悪そうにしていたが、
それでも彼がこの国に迎え入れられたことは、誰の目にも明らかだった。
そして、その頃もう一つの吉報が、鉄道国の内側で静かに、しかし確かに人々を浮き立たせていた。
テレースの出産が近い、という報せである。
ナッツ大陸側路線の開通まで、彼女は表でも裏でも走り詰めだった。
放送局の顔として式典に立ち、現地では調整役として各方面を駆け回り、
駅では若手職員に相談されれば足を止め、災害時には誰より先に状況を伝えた。
そんな彼女が妊娠の発覚とともに入院し、やがて産休に入ったとき、
放送局も駅も、そして沿線の関係者たちも、
ようやく「休ませなければならない人を、今度は周囲が守る番だ」と理解したのである。
見舞客はひっきりなしだった。
若手アナウンサーが花束を抱えて現れ、近況を尋ねるついでに半ば取材のような会話を始め、
駅の若手職員は「先輩がいないと本当に困ります」と真顔で言い、
各地の関係者は土地の名産やら縁起物やらを持ち込んだ。
病室の前がちょっとした待合所のようになってしまい、
看護師にやんわり人数制限を言い渡される始末である。
「人気者ですねえ、テレースさん」 若手アナウンサーが、
手帳を片手に笑った。
「人気者というより、みんな心配性なのよ」 テレースは苦笑しながら答えたが、その声はどこか柔らかかった。
張りつめた現場を離れ、ようやく自分が案じられる側に回ったことを、
まだ少しだけ持て余しているようでもあった。
そんなある日、匠ーから新たな「見舞い品」が届いた。
大きな木箱である。
病院の者が首をかしげ、ゴレムが嫌な予感を覚え、
テレースが額を押さえる中、箱は厳重な封を解かれて開かれた。
中から現れたのは、端正な顔立ちに整った所作を備えたメイド型オートマタだった。
白と紺を基調とした実用的な服装、無駄のない姿勢、そして一礼の角度まで完璧である。
「支援用個体、起動いたしました。家事支援、産前産後補助、護衛任務に対応可能です」
病室が静まり返った。
「……いま、護衛任務って言った?」 テレースがゆっくり確認する。
「はい。家事パッチ、助産師パッチ、戦闘パッチを適用済みです」
「最後のひとつが明らかにおかしいのだけれど」
「母子の安全確保は最優先事項です」 機械は実に真面目な声で答えた。
同封されていた匠ーの書簡には、簡潔にこうあった。
『産前産後は何が起こるかわからない。備えは多いほどいい。
家事、助産、戦闘の三点を揃えた。安心して使え』
「安心できる要素と不安になる要素が同じ文の中にあるんですが……」 ゴレムが呟くと、
テレースは深く息をついた。
「ええ、でも匠ー様らしいわ」 半ば呆れ、半ば納得したような口調だった。
その後、メイド型オートマタは驚くほど有能であることを証明した。
洗濯、掃除、食事の補助はもちろん、体調管理や産後のケア知識まで完備している。
看護師たちすら「この機体、下手な付き添いよりよほど気が利く」と感心したほどだ。
ただし廊下の物音に即応して防御姿勢を取る癖だけは最後まで抜けず、
病院側から「戦闘機能の常時待機は控えてください」と丁重な申し入れを受けることになった。
福音は、たいてい一つずつでは来ない。
ゴレムの出版成功と名誉国民叙任。
テレースの穏やかな産休。
周囲の者たちが少しずつ肩の力を抜き、開通後の世界に新しい日常を根づかせていく時間。
そして、まもなく生まれてくる小さな命。
幸せは、誰か一人のもとにだけ降りるものではない。
人から人へ、駅から町へ、町から路線へと、まるで列車のように連なっていく。
だからこそ、その日の鉄道国には、祝いの気配が静かに満ちていた。
ヒカルが生まれる日も、きっとそう遠くはなかった。




