魔人共和国編 匠ーの根回し(セレネ視点)
見難い火傷の子571
魔人共和国編 匠ーの根回し(セレネ視点)
同じ失敗は繰り返さない。
匠ーはそういうところだけは、妙にきっちりしていた。
山岳鉄道の敷設で、線路そのものは通せても、
既存の流れとの調整を後回しにすると面倒が増える。
駅馬車組合、土地ごとの顔役、役所の手続き、現場の縄張り意識。
鉄の道は地面に敷けば終わりではなく、
その土地にすでにある都合の上へ割り込んでいくものだ。
前に一度それで余計な手間を食った以上、次は先に手を打つ。
匠ーはその程度には学習する男だった。
だからロクドまでの敷設にあたって、彼は工事より先に根回しを入れた。
もっとも、自分で走り回るわけではない。
そこは最初から割り切っている。
匠ーが頼ったのは、筆頭秘書セレネ・アストラだった。
CEOたる匠ーのそばで、日々その無茶を最も近くから見ている女である。
表向きは冷静沈着、実務に隙がなく、必要なことしか言わない。
だがその実、彼女は匠ーのためにオートメガネウラの操縦を教習所でひそかに習得していた。
公にはしていないが、急ぎの伝達や現場確認に即応するための備えであり、
まさしく内助の功だった。
匠ーが「先に根回しを」と言った直後、セレネはもう動いていた。
オートメガネウラにまたがり、そのままゴ-レムヨンドへ飛ぶ。
向かう先はテレースのもとである。
計画の概要そのものは、すでにテイム通信でパーピーへ伝えてあった。
だが、話が通っていることと、正式に現場を動かせることは別だった。
テレースに渡すべき正式な指令書が、まだ出ていなかったのである。
制度の世界では、口頭の了解や事前共有だけでは足りない。
最後に物を言うのは、印のある紙だ。
それに加えて、今回は紙だけでは足りなかった。
根回しには金がかかる。
移動費、宿代、手土産、会食、書類の手配、
現地で人を動かすための細かな雑費。
理屈だけで話が通るなら苦労は少ないが、現実はそうではない。
匠ーもそこは理解していたらしい。
少なくとも今回は、正式指令と一緒に、根回し用の資金も用意していた。
セレネはそれを預かり、指令書とともに運んでいた。
風は強くなかった。
飛ぶには悪くない日だった。
オートメガネウラの羽音を聞きながら、セレネは頭の中で確認事項を並べていた。
受領確認、概要の再確認、裁量範囲の伝達、資金の引き渡し。
長く話す必要はない。
必要なものを、必要な相手に、必要な形で渡す。
それで十分だった。
テレースのところへ着いたとき、彼はもう嫌そうな顔をしていた。
封書を見る前から、だいたい察していたのだろう。
そういう勘は鋭い。
もっとも、鋭くなければあの役回りは務まらない。
セレネは着地するなり挨拶もそこそこに封書を差し出した。
「正式指令です。内容は概略、すでにテイム通信でパーピーには伝達済みです」
案の定、テレースは嫌そうな顔を深くした。
概略だけ先に伝わっていて、正式文書が後から急ぎで届く。
受け取る側からすれば、ろくでもない順番である。
セレネもそれは分かっていた。
分かっていたが、順番を決めたのは彼女ではない。
決まったものを最短で通すのが仕事だった。
そのうえで、セレネは封書とは別に小ぶりの革袋を机の上へ置いた。
置いた音で、軽くはないと分かる。
「こちらは根回し用の資金です。匠ー様からお預かりしています」
テレースは革袋を見て、それからセレネを見た。
紙だけではないのか、という顔だった。
「今回は必要経費も含む、とのことです」
そう言うと、テレースは「学習したのか」と呟いた。
セレネは「そのようです」とだけ返した。
実際、その通りだった。
匠ーは無茶を言う。
人を振り回す。
だが、必要な布石を打たずに痛い目を見れば、次はそこを埋めようとする。
その埋め方がだいたい他人任せであることを除けば、
判断そのものは間違っていないことが多い。
テレースは封を切り、文面に目を通した。
最初の数行で、だいたい理解した顔になった。
理解してしまった顔、と言ったほうが近いかもしれない。
セレネは黙って待った。
ここで余計な説明を足しても、仕事が軽くなるわけではない。
「……で、匠ーは?」
「研究室です」
「出てこないのか」
「出てきません」
短いやり取りだった。
だが、それで十分だった。
匠ーが自分で来ないことも、来ないまま仕事だけは正確に降ってくることも、
二人ともよく知っている。
テレースは指令書を最後まで読み切り、静かに折り直した。
駅馬車組合との調整。
既存輸送との競合の緩和。
必要なら協力体制の構築。
文面は丁寧だが、やることは重い。
しかも重い仕事ほど、文書の上では簡潔に書かれる。
そこまで含めて、セレネにも見慣れた形式だった。
「受領しました。必要な調整に入ります」
返答は早かった。
嫌がりはする。
ぼやきもする。
だが、受け取った仕事を机の上で腐らせることはない。
帳面を開き、顔ぶれを洗い、順番を決め、最後には必ず動かす。
そういう意味で、テレースは匠ーが任せる相手として最適だった。
「ありがとうございます」
セレネはそう返した。
感謝は本物だった。
同時に、これで自分の任務が一段落したという意味でもあった。
「確認だが。組合回りの順番、優先地域、想定される反発点、そのあたりの補足は」
「現地判断でお願いします」
テレースはそこで、ああ、という顔をした。
つまりかなりの部分はテレース任せだった。
いつものことではある。
匠ーは必要な紙と権限は出す。
必要な金も、今回は出した。
だが、その先で誰にどう頭を下げ、どこで譲歩を引き出し、
どこを押し切るかまでは、自分ではやらない。
そこは現場の裁量として渡す。
言い方を変えれば、丸投げだった。
「……つまり丸投げか」
「正式には、広範な裁量の付与です」
言い換えとしては、間違っていない。
テレースもそれは分かっているのだろう。
呆れたように言い返しながらも、本気で突き返す気配はなかった。
必要事項は伝えた。
受領も取った。
資金も渡した。
ならば長居する理由はない。
長居しても、テレースの仕事が軽くなるわけではない。
むしろ、必要なものだけ置いて早く退くほうがよい。
気の毒だとは思う。
だが、気の毒であることと、適任であることは両立する。
「では、失礼します」
「早いな」
「急ぎますので」
「来るときも急いでいたろう」
「帰りもです」
そう言ってセレネは踵を返した。
外ではオートメガネウラが、今にも飛び立てるよう羽を震わせている。
乗って来て、紙と金を置いて帰る。
傍から見れば、ずいぶん薄情に見えるかもしれない。
だが、伝えるべきものを正確に伝え、渡すべきものを渡し、
余計な感傷を挟まず退くのもまた仕事だった。
飛び立ってしばらくしてから、セレネは小さく息を吐いた。
これでロクド方面の根回しは動き出す。
だが、今回の話はそれだけでは終わらない。
厄介なのは、その先だった。
匠ーの視線は、すでにゲート建設のさらに向こうを見ていた。
魔人共和国内でロクドまで軌道を通し、そこを前進拠点としたうえで、
ゲートでナッツ大陸側へ接続する。
問題は、そのとき向こう側にはまだ港も軌道も十分に整っていないことだった。
だからこそ匠ーは、港湾整備を待たずに人員と資材を直接岸へ送り込み、
先に軌道を敷き始める構想を抱いていた。
後に研究室へ籠もって作り始めるアメンボウ型上陸用舟艇、
雨ん坊――別名ヴァッサーロイフェル――も、そのためのものだった。
となれば、根回しもまた、その未来に届いていなければならない。
テレースへ渡した指令書に含まれていたのは、ロクド方面の既存輸送との調整だけではない。
ゲート建設と、軌道敷設前のナッツ大陸側での根回し。
まだ影も形もない段階での根回しである。
ゲートは建っていない。
向こう側の岸も、上陸地点も、荷の揚げ場も、駅の位置も決まっていない。
決まっているのは、匠ーがいずれそこへ線路を通す気でいる、という一点だけだった。
来年の話をすると鬼が笑う、とはよく言う。
だがこれは、来年どころではない。
鬼が笑う前に、説明される側が眉をひそめる類の話だった。
それでも匠ーは、先に言っておくことに意味があると考えた。
形になってから「初耳だ」と言われて揉めるくらいなら、
まだ誰も本気にしない段階で、せめて話だけでも各所の頭に入れておく。
いざ本当に動き出したとき、
「そういえば前に聞いていたな」と思い出させるための布石である。
無茶な構想ではある。
だが、無茶だからこそ、先に地ならしが要る。
そこに関してだけは、匠ーの判断は妙に正しかった。
そして、その正しさの実務は、きれいにテレースの肩へ落ちた。
駅馬車組合を回り、既存輸送との摩擦を抑え、
将来の物流再編を見越して顔役たちに話を通し、
まだ存在しないゲートの先の話まで匂わせておく。
笑われることもあっただろう。
呆れられることもあっただろう。
もっと現実的な話をしろと言われたことも、
一度や二度では済まなかったはずだ。
それでもテレースは、順番を考え、通る理屈を組み、
相手の面子を立てながら、少しずつ未来を現在へ馴染ませていく。
セレネはそれを知っていた。
だから運ぶ。
必要な紙を。
必要な金を。
必要な裁量を。
そして、必要な苦労を引き受ける相手のところまで。
匠ーの根回しとは、要するにそういうものだった。
本人が愛想よく頭を下げて回るわけではない。
だが、必要だと分かれば、必要な人間を必要な場所へ飛ばし、
必要な紙を出し、必要な資金を持たせ、必要な苦労を先に発生させる。
未来のために、今の面倒を前倒しで引き受けさせるのである。
それは決して美しいやり方ではない。
むしろかなり人任せで、雑で、
周囲から見れば「また始まった」と言いたくなる類のものだ。
だが同時に、匠ーの構想がただの思いつきで終わらず、実際に線路となり、
駅となり、やがて大陸を越える足場になっていくのは、
こうした根回しがあるからでもあった。
夢想だけでは鉄路は伸びない。
図面だけでも駅は建たない。
その間を埋めるのが、セレネの機動力であり、テレースの苦労であり、
そしてそれらを前もって動かす匠ーの根回しだった。




