魔人共和国編 匠ーの根回し(テレース視点)
見難い火傷の子570
魔人共和国編 匠ーの根回し(テレース視点)
テレースがその日受け取ったのは、嫌な予感のする封書だった。
封蝋は正式なものだ。
差出も文句のつけようがない。
紙質もよい。
文面もきっと整っているのだろう。
問題は、そういうものがわざわざ急ぎで届くとき、
大抵ろくでもない仕事が入っているという点にあった。
しかも届けに来たのがセレネ・アストラである。
空から来た。
正確には、オートメガネウラにまたがって来た。
風を切って降りてきたその姿は、
事情を知らない者が見れば英雄譚の一場面に見えたかもしれない。
だがテレースにとっては違う。
あれはたいてい、上から面倒事が高速で投下される前触れである。
匠ーのそばにいる者は、見えないところで妙な努力を積むらしい。
あれを乗りこなせるよう、教習所へ内緒で通っていたという話を思い出し、
テレースは少しだけ遠い目になった。
案の定、セレネは着地するなり挨拶もそこそこに封書を差し出した。
「正式指令です。内容は概略、すでにテイム通信でパーピーには伝達済みです」
「概略が伝わっていて、正式文書だけ今来るのか」
「はい」
「嫌な順番だな」
セレネは否定しなかった。
否定できるはずもない。
そのうえで彼女は、封書とは別に小ぶりの革袋を机の上へ置いた。
置かれた音が、見た目より重い。
「こちらは根回し用の資金です。匠ー様からお預かりしています」
テレースは革袋を見た。
持たずとも分かる、あまり軽くない重さだった。
「……珍しいな。紙だけ寄越すと思っていた」
「今回は必要経費も含む、とのことです」
「学習したのか」
「そのようです」
そこだけは感心してやるべきかもしれない、とテレースは思った。
前に痛い目を見たことは、どうやら匠ーの中でちゃんと痛かったらしい。
テレースは封を切り、文面に目を通した。
最初の数行で、だいたい理解した。
理解してしまった、と言うべきかもしれない。
要するに、ロクド方面への敷設に先立ち、
駅馬車組合への事前説明と調整を済ませておけ、という話だった。
既存輸送との競合を抑え、反発を和らげ、必要なら協力体制まで持っていけ、とある。
文面は丁寧だった。
丁寧だが、やることは重い。
しかも重い仕事ほど、文書の上ではさらりと書かれる。
テレースは一度、紙から目を離した。
セレネはその間、実に静かに立っていた。
余計なことは言わない。
言わないが、早く受領確認を済ませて帰りたい空気は出ている。
「……で、匠ーは?」
「研究室です」
「出てこないのか」
「出てきません」
「なるほど」
なるほど、ではない。
だが、なるほどとしか言いようがなかった。
内容そのものは、すでにテイム通信でパーピーに伝えられていたらしい。
つまり上のほうでは話が通っている。
だが、現場を正式に動かすための文書は今ここに来た。
そして、その文書を受け取った以上、動くのは自分だ。
理屈としては正しい。正しいが、正しいことと楽なことは一致しない。
テレースは指令書を最後まで読み切り、静かに折り直した。
駅馬車組合。
あそこは一枚岩ではない。
土地ごとに顔役が違い、縄張り意識も強い。
鉄道が来るとなれば、仕事を奪われると考える者もいるだろう。
逆に、駅までの短距離輸送や荷の継送で生き残る道を見出す者もいるかもしれない。
だが、そういう整理は放っておいて自然に進むものではない。
誰かが回って、説明して、なだめて、時には押し切らなければならない。
つまり、自分がやるのだ。
「受領しました」
テレースは言った。
「必要な調整に入ります」
「ありがとうございます」
セレネの返事は早かった。
早すぎた。
その声音には感謝があったが、同時に、これで任務完了という軽さもあった。
テレースはその軽さを聞き逃さなかった。
「確認だが」
彼は封書を指先で軽く叩いた。
「組合回りの順番、優先地域、想定される反発点、そのあたりの補足は」
「現地判断でお願いします」
「現地判断」
「はい」
「つまり」
セレネは一瞬だけ目をそらした。
ほんの一瞬だったが、それで十分だった。
「……つまり丸投げか」
「正式には、広範な裁量の付与です」
「言い換えがうまいな」
セレネはそこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
だが次の瞬間には、もう帰投の姿勢に入っていた。
必要事項は伝えた。
受領も取った。
資金も渡した。
ならば長居する理由はない。
実に見事な仕事ぶりである。
伝令としては満点だ。残される側としてはたまったものではないが。
「では、失礼します」
「早いな」
「急ぎますので」
「来るときも急いでいたろう」
「帰りもです」
そう言ってセレネは踵を返した。
外ではオートメガネウラが、今にも飛び立てるよう羽を震わせている。
あれに乗って来て、指令書と金だけ置いて帰る。
まさにトンボ帰り――いや、メガネウラ帰りと言うべきか。
そんな言葉が頭をよぎったが、口に出す気力はなかった。
扉が閉まり、羽音が遠ざかると、部屋は急に静かになった。
テレースはしばらくその静けさの中で、手元の指令書と革袋を見下ろしていた。
やることは多い。
まずは駅馬車組合の顔ぶれを洗い直す必要がある。
どの地域から当たるか。
強硬派は誰か。話の通じる相手はどこか。
鉄道を敵と見せず、駅までの輸送や荷の継送で利益が出る形をどう示すか。
反発を抑えるには、理屈だけでは足りない。
相手の面子も、古い取り決めも、土地ごとの癖も見なければならない。
それに加えて、どこで金を使い、どこは使わずに済ませるかも考えなければならない。
移動費、宿代、手土産、会食、書類の手配。
根回しとは、口だけで済む仕事ではない。
限られた予算で、誰の顔を立て、どこで譲歩を引き出し、どこは理屈で押し切るか。
その見極めまで含めて仕事だった。
面倒だ。
実に面倒だ。
だが、必要な面倒でもある。
匠ーはたぶん、それを分かっている。
分かっているからこそ、今回は先に根回しを入れたのだろう。
前回のように、線路だけ先に持ち込んでから既存輸送とぶつかる失敗は避けたい。
その判断自体は正しい。
正しいのだが、その正しさの実務が、こうして紙と金になって自分の机へ落ちてくるのである。
テレースは深く息を吐いた。
それから机の端にあった帳面を引き寄せ、最初の訪問先を書き出し始めた。
まずは比較的話の通じる組合から。
そこで前例を作り、条件を整え、次に頑固なところへ持っていく。
最初から正面衝突しても得るものは少ない。
順番が大事だ。そういう段取りは、昔から嫌というほどやってきた。
人をまとめ、場を回し、機嫌と利害の両方を見ながら話を通す。
そういう仕事に慣れていなければ、とっくに投げ出している。
窓の外では、もうセレネの姿は見えなかった。
空を使う者は去るのが早い。
地上に残る者だけが、あとを片づける。
テレースはもう一度だけ指令書を見た。
整った文面、簡潔な命令、十分な裁量。
見れば見るほど、やることの多さがにじんでくる。
「広範な裁量の付与、か」
誰に聞かせるでもなく呟いて、彼は立ち上がった。
駅馬車組合巡りに出る支度を始めなければならない。
それからしばらくのあいだ、テレースが各地の組合を回り、
説明し、なだめ、譲歩を引き出し、時に頭を下げ、
時に机を叩いてでも話を前へ進めたのは、言うまでもない。
空からは一枚の指令書と一袋の資金が降ってきただけだった。
だがその紙と金の重さを、いちばんよく知っていたのは、たぶん彼だった。
テレースは指令書を読み返し、もう一度読み返し、
それでも文面が変わらないことを確認してから、静かに机へ置いた。
ロクドまでの敷設に先立つ根回し。
それだけなら、まだ分かる。
鉄道が来る。
駅ができる。
荷の流れが変わる。
ならば既存の駅馬車組合に先に話を通しておく必要がある。
そこまでは現実の話だ。
だが、今回の文書が厄介なのは、その先まで含んでいることだった。
ゲート建設。
そして、軌道敷設前のナッツ大陸側での根回し。
テレースはそこで目を閉じた。
まだ影も形もない。
ゲートは建っていない。
向こう側の岸も、上陸地点も、荷の揚げ場も、駅の位置も決まっていない。
決まっているのは、匠ーがいずれそこへ線路を通す気でいる、という一点だけだった。
つまり自分は今から、
存在していない港と、存在していない駅と、
存在していない路線のために、存在している人間たちを説得しなければならないのである。
「来年の話をすると鬼が笑う、とは言うが……」
思わず口に出た。
これはもう来年どころではない。
鬼が笑う前に、相手が眉をひそめる。
何しろ説明される側からすれば、
「いずれゲートができ、その先の大陸に上陸し、
さらに軌道を敷くので、
そのとき既存輸送との摩擦が起きないよう今から話を通しておきたい」という話なのだ。
正気を疑われても文句は言えない。
だが、匠ーは本気なのだろう。
本気だからこそ、まだ何もない段階で根回しを入れようとしている。
前回のように、形になってから既存の流れとぶつかるのでは遅い。
影も形もないうちに、せめて「そういう話が来る」とだけでも各所の頭に入れておく。
いざ本当に動き出したとき、「初耳だ」と言わせないための布石である。
理屈は分かる。
分かるが、やる側としてはたまらない。
駅馬車組合に話すだけでも骨が折れる。
そこへ今度は、ゲートの向こう側まで見越した話を混ぜなければならない。
相手によっては笑うだろう。
相手によっては呆れる。
もっと現実的な話をしろと言う者もいるはずだ。
そして、その全部に対して、
テレースは「いえ、これは本当に先に通しておくべき話でして」
と顔色ひとつ変えずに言わなければならない。
彼は机の上の帳面を開き、訪問先の一覧に新しく印をつけた。
近場の組合だけでは足りない。
将来ロクドへ流れ込む輸送路、その先で利害がぶつかりそうな商会、
さらにゲート接続後に口を出してきそうな連中まで、今のうちに洗っておく必要がある。
仕事が増えた、というより、時間の幅が増えたのだ。
普通の根回しは、目の前の工事のためにやる。
今回の根回しは、まだ始まってもいない次の段階、そのさらに先の段階のためにやる。
今日のためではなく、半年後、一年後、
あるいはもっと先に「そういえば前に聞いていたな」と思い出させるための仕事だった。
テレースは深く息を吐いた。
匠ーはたぶん、こういうところだけは妙に正しい。
無茶な計画を立てる。
人を振り回す。
だが、必要な布石を打たずに突っ込んで痛い目を見ると、次はちゃんとそこを埋めにくる。
その埋める作業を誰がやるかは、だいたい自分なのだが。
「……まったく」
ぼやいても、指令書は軽くならない。
革袋の中身も増えはしない。
テレースは外套を取った。
まだ影も形もない未来のために、今から頭を下げに行く。
笑われるかもしれない。
呆れられるかもしれない。
それでも、誰かが先に言っておかなければならない。
来年の話をすると鬼が笑う。
ならばこれは、鬼に先回りして笑われに行くような仕事だった。
そしてテレースは、その役目を引き受けるしかなかった。




