ゴレムさん編 アラクネ共和国を発つ朝
見難い火傷の子550
ゴレムさん編 アラクネ共和国を発つ朝
アラクネ共和国の朝は、上から始まる町だった。
まだ陽が十分に差し込む前から、高い通路のどこかで足音がして、
滑車の軋む音がして、遠くで短い合図が飛ぶ。
平地の町なら地面から広がるはずの一日の気配が、
ここでは頭上から降りてくるように感じられた。
ゴレムは宿の窓を開け、その音をしばらく聞いていた。
斜面に沿って重なる家々の間を、細い朝の光が差している。
上層の通路を誰かが渡り、下層では店を開ける準備が始まっていた。
町そのものが立体であるということは、朝の訪れ方まで変えるのだと、少し感心する。
「もう起きていたのね」 と背後から声がした。
振り向くと、テレースが身支度を整えたところだった。
「おはようございます」
「おはよう。何を見ていたの?」
「朝の動きです」
「好きそう」
「はい」
「でしょうね」
階下へ降りると、宿の朝食が用意されていた。
薄く焼いた生地に、香草と刻んだ木の実を包んだもの、それに温かい汁物。
見た目は軽いが、食べると意外に腹持ちが良さそうだった。
「今日は発つのよね」 とテレースが言う。
「はい」
「名残惜しい?」
「少し」
「最近そればかりね」
「印象の強い場所が続いていますので」
「ええ、それはそう」
ゴレムは頷きながら、昨日見たロープウェイ建設現場を思い出していた。
支柱、索、滑車、試験用の籠、作業者の動き。
まだ完成していないからこそ見えた構造が、頭の中に残っている。
できることならもう一度見たい。
だが旅程は先へ進む。
「また見に行きたい顔をしてるわ」
「分かりますか」
「分かるわ」
「……少しだけ」
「少しじゃないでしょう」
「かなり」
「正直でよろしい」
食事を終え、荷を整えて宿を出る。
朝の町は昨日よりもさらに動いていた。
上層の通路では資材が運ばれ、下層の広場では荷の仕分けが始まっている。
工房の戸も次々に開き、糸を張る音、木を削る音、金具を打つ音が重なっていた。
「本当に、町全体が動いていますね」 とゴレムは言う。
「ええ。止まって見える場所が少ないわ」
「ロクドとは違う活気です」
「狸の里とも違う」
「はい。それぞれ違います」
「そこが面白いのでしょう?」
「とても」
町の出口へ向かう途中、昨日の案内所の前を通った。
工事区画へ向かう作業者たちが、すでに何組も歩いている。
高所作業用の道具、索の点検具、木材、金具。どれも使い込まれていて、
現場が一日二日で動いているのではないことが分かる。
ゴレムは思わずそちらを見た。
視線が長く留まったのを、テレースは見逃さない。
「行きたい?」
「……」
「黙るのね」
「行きたいです」
「ええ、知ってるわ」
「ですが」
「先へ進むのでしょう?」
「はい」
「なら、ちゃんと前を向きなさい」
「はい」
そう言われて、ゴレムは素直に頷いた。
見たいものがあるからこそ、次へ進む。
そう考えれば、未練もただの足止めではなくなる。
町を出て山道へ入る前、少し開けた場所で一度だけ振り返った。
段々に重なる家々、その向こうに見える支柱、谷を渡る索。
完成していない未来が、朝の光の中で静かに形を持ち始めている。
「良い国でした」 とゴレムは言った。
「ええ」 とテレース。
「あなたには特にね」
「はい。非常に」
「でしょうね」
山道へ入ると、空気はまた少し変わった。
アラクネ共和国の町のような立体的な喧騒は遠ざかり、代わりに風と木々の音が戻ってくる。
だがゴレムの頭の中では、まだ滑車の回転と索の張りが残っていた。
「次はいよいよホーネット幕府ですね」 と彼は言った。
「ええ」
「そこまで行けば」
「軌道に会えるかもしれない」
「はい」
その一言だけで、胸の内が少し熱くなる。
ロクドには無かった。狸の里にも無かった。
アラクネ共和国では、ようやくロープウェイが建設中だった。
だがその先には、ついに鉄道国の軌道があるかもしれない。
「楽しみね」 とテレースが言う。
「はい」 「本当に?」
「本当に」
「どのくらい?」
「かなり」
「かなり、で済む?」
「……非常に」
「ええ、そうでしょうね」
テレースは笑いながら歩く。
ゴレムも、今度は少しだけ自分で可笑しかった。
ここまで来ると、もう隠す意味もない。
自分は今、技術に会いに行く旅人なのだ。
道はやがて、より広い街道へと繋がっていった。
人の流れも少しずつ増えてくる。
ホーネット幕府へ向かう者、そこから来た者、荷を運ぶ者、商人、旅人。
土地が変われば、流れるものも変わる。
「ホーネット幕府は、どんなところなのでしょう」 とゴレムは尋ねた。
「気風が違うわ」 とテレースは答える。
「ロクドのような行政の整いとも、狸の里の共同体とも、アラクネの立体的な活気とも違う」
「では?」
「行けば分かるわ。たぶん、あなたはまた別の意味で驚く」
「そうですか」
「ええ。そして」
「そして?」
「たぶん、軌道を見たら止まるわね」
「……否定はできません」
「でしょうね」
ゴレムは少しだけ咳払いをした。
だが否定できないのは事実だった。
軌道。
鉄道国の技術。
敷設。
保守。
運用。
考えるだけで、まだ見てもいないものへの期待が膨らむ。
山の風が背を押すように吹いた。
アラクネ共和国で見たのは、地形に合わせて未来を作る技術だった。
次に待つのは、地の上に線を引き、流れそのものを変える技術かもしれない。
ゴレムは歩きながら、頭の中で何度もその光景を想像していた。
まだ見ぬ軌道。
まだ見ぬ敷設の現場。
まだ見ぬ技術の思想。
旅は続く。
そして彼の関心は、いよいよはっきりと、鉄道国の技術へ向かっていた。




