ゴレムさん編 ナナメの朝、散策、そしてロクド着
見難い火傷の子542
ゴレムさん編 ナナメの朝、散策、そしてロクド着
朝、目が覚めた時、ゴレムは一瞬だけ自分がどこの街にいるのかを確かめた。
見慣れない天井。
だが昨夜のうちに荷の置き場も、剣を立てかけた位置も確認してある。
問題はない。
問題がないことを確認してから、静かに身を起こした。
宿の窓を開けると、潮の匂いが入ってきた。
ゴドメの海とは少し違う。
あちらが人の賑わいを含んだ柔らかな潮の匂いだとすれば、
こちらはもっと乾いていて、石と鉄の気配が混じっている。
最前線の街、という言葉を思い出す。
匂いだけでそう感じるのだから不思議なものだ。
身支度を整えて階下へ降りると、すでにテレースが起きていた。
窓際の席に座り、朝の光の中で湯気の立つ茶を飲んでいる。
「おはようございます」
「おはよう。やっぱり早いわね」
「習慣です」
「そうでしょうね」
テレースは向かいの席を軽く示した。
ゴレムが座ると、宿の者が朝食を運んでくる。
焼いた白身魚、固めのパン、塩気のあるスープ。
派手さはないが、歩く前の食事としてはちょうど良い。
「今日はどうしましょう」 とゴレムは尋ねた。
「船の時間までは少しあるわ」 テレースはパンをちぎりながら言った。
「だから少し歩きましょう。せっかくナナメに来たんだもの」
「散策ですか」
「嫌?」
「いえ。むしろ見ておきたいです」
「なら決まりね」
朝食を終え、二人は宿を出た。
朝のナナメは、昨夜よりも街の輪郭がよく見えた。
石造りの建物は朝日を受けてもなお落ち着いた色を保ち、通りにはすでに人の流れができている。
荷を運ぶ者、店を開ける者、武装を整えてギルドの方へ向かう者。
誰もが自分の役目を知っているような動きだった。
「静かですね」 とゴレムは言った。
「人は多いのに?」
「はい。騒がしくはありません」
「そういう街よ。慣れているの」
通りの脇では、朝市が始まっていた。
ゴドメの市場が魚と歌声の街だとすれば、こちらはもっと実務的だ。
干し肉、保存食、薬草、包帯、油、縄、金具、魔物素材。
旅人や冒険者が必要とするものが、無駄なく並んでいる。
もちろん食べ物もあるが、どれも腹を満たすことを優先したような顔をしていた。
「品揃えが違いますね」
「ゴドメより?」
「はい。こちらの方が、備えの街という感じがします」
「その通りよ。ゴドメは人を迎える街。ナナメは人を送り出す街でもあるの」
その言葉に、ゴレムは小さく頷いた。
確かにそうだ。
ここには旅立ちのための品が多い。
帰還後の慰めより、出発前の準備に重きがある。
露店の一つから香ばしい匂いが漂ってきた。
鉄板の上で薄い生地が焼かれ、その上に刻んだ野菜と干し肉が乗せられている。
テレースが足を止めた。
「食べる?」
「朝食は済ませましたが」
「半分こにすればいいわ」
「……では」
買って受け取ると、熱が指先に伝わった。
一口かじると、塩気と油、それに野菜の甘みが思ったより素直に広がる。
豪華ではないが、働く街の食べ物という感じがした。
「美味しいです」
「でしょう?」
「はい。無駄がありません」
「食べ物の感想としては少し堅いわね」
「そうでしょうか」
「そうよ」
テレースは笑いながら、自分の分をもう一口かじった。
ゴレムもつられて少し口元を緩める。
こうして並んで食べ歩くようなことを、自分がするとは少し前まで思っていなかった。
さらに歩くと、通りの先に海が見えてきた。
港だ。
ナナメの港はゴドメほど華やかではないが、その分だけ機能的だった。
桟橋には大小の船が並び、荷役の者たちが手際よく動いている。
怒鳴り声はあるが、無秩序な騒がしさではない。
指示が通り、返事が返り、荷が流れていく。
見ているだけで、この街が海の向こうときちんと繋がっていることが分かった。
「ここから魔人共和国へ?」
「ええ。ロクド行きの便があるわ」
「思っていたより、普通に行き来しているのですね」
「今はね。昔よりずっと」
港の端には、海の向こうを眺めるように立つ見張り台があった。
その姿に、ゴレムはナナメという街の本質を見た気がした。
ここは海辺の港町であると同時に、境界を見張る街でもあるのだ。
「緊張はありますか」 とテレースが聞いた。
「少し」
「魔人共和国へ行くことに?」
「はい」
「私もよ」
「……そうなのですか」
「当たり前でしょう。平気な顔はできても、何も感じないわけじゃないわ」
その答えに、ゴレムは少しだけ安心した。
自分だけが構えているのではないのだと思うと、肩の力が抜ける。
「ですが」 とゴレムは海を見ながら言った。
「行くべきだとも思っています」
「ええ」
「見ておきたいのです。実際に」
「それでいいと思うわ」
しばらく二人で海を見た。
朝の光を受けた水面は穏やかで、
その向こうにかつて魔王のいた国があるとは、見ただけでは分からない。
やがて乗船の時刻が近づき、二人は手続きを済ませて船に乗り込んだ。
船は大きすぎず小さすぎず、定期便らしい堅実な造りだった。
甲板には商人風の者もいれば、旅人、役人らしい者、武装した者もいる。
魔人共和国へ向かうこと自体は、もはや特別な冒険ではないのだろう。
だがゴレムにとっては、やはり境界を越える感覚があった。
船が岸を離れる。
ナナメの港が少しずつ遠ざかり、城壁と建物の輪郭が海の向こうへ下がっていく。
ゴレムは手すりに手を置き、その姿を見送った。
「名残惜しいですか」 とテレースが隣で言った。
「少し」
「一泊しかしていないのに?」
「はい。印象の強い街でした」
「それは分かるわ」
風は強すぎず、波も穏やかだった。
船旅は思ったより静かで、甲板に立っていると時間の流れまでゆるやかになる。
ゴレムは海を見、時折テレースと短い言葉を交わしながら、ただ進んでいく感覚に身を任せた。
やがて、前方に街の影が見え始めた。
「あれが」
「ええ。ロクドよ」
ゴレムは目を細めた。
かつて魔王がいた都。
魔王国の首都。
そう聞いて思い浮かべていたのは、もっと威圧的で、暗く、禍々しい街だった。
高い黒壁、重苦しい塔、怯えた民、荒れた空気。
そういうものを、どこかで想像していた。
だが近づくにつれ、その想像は静かに崩れていった。
港は整っていた。
桟橋の配置も、荷の流れも、船の誘導も無駄がない。
係員たちは落ち着いて動き、声を荒げる必要のある場面でも無意味に怒鳴らない。
警備の者たちも、威圧のために立っているのではなく、仕事のために立っているように見えた。
「……整っていますね」 ゴレムは思わず呟いた。
「ええ」 テレースも同じものを見ている顔で頷く。
「私も、もう少し違うと思っていたわ」
入港し、船を降りる。
手続きは驚くほど円滑だった。
必要な確認はきちんと行うが、滞りがない。
書類を扱う者の手つきにも迷いがなく、案内も明確だ。
ゴレムはその場で、ひとつの理解に至った。
「統治が、良かったのですね」
「そうみたいね」
「魔王がいた国、というだけでは測れないのでしょう」
「ええ。たぶん」
港を出て街路へ入ると、その印象はさらに強まった。
道は清潔で、排水も整っている。
建物の並びには計画性があり、商店も役所も、それぞれの場所に収まっている感じがあった。
人々は落ち着いて行き交い、魔人らしき者の姿も珍しくないが、
だからといって空気が荒れているわけではない。
むしろ治安の良さが、歩いているだけで分かる。
「……不思議です」 とゴレムは言った。
「何が?」
「恐ろしい街を想像していました」
「私も」
「ですが、良い街に見えます」
「ええ。少なくとも、よく治まっている街には見えるわ」
かつて魔王がいた。
だが、その支配はただの暴威ではなかったのかもしれない。
優れた統治者であったからこそ、
いなくなった後も制度が残り、職員が残り、街が回り続けている。
そう考えると、この整い方にも説明がつく。
ゴレムは通りを見渡した。
ここは敵地の残骸ではない。
過去に恐るべき中心であったかもしれないが、
今はそれを土台にして、別の秩序を保っている街だ。
「どうします?」 とテレースが聞く。
「まずはギルドでしょうか」
「そうね。それが一番自然だわ」
「はい」
二人は並んで歩き出した。
ナナメの朝を歩き、海を渡り、ロクドへ着く。
それはただ場所を移しただけではなく、世界の見え方がまた少し変わる一日だった。
魔王の都は、思っていたよりずっと静かで、
思っていたよりずっと、よくできた街だった。




