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見難い火傷の子  作者: 清風
538/607

ゴレムさん編 ゴドメの街

挿絵(By みてみん)

見難い火傷の子538


ゴレムさん編 ゴドメの街


駅馬車が最後の丘を越えた時、海が見えた。


ゴレムは思わず、窓の外へ身を寄せた。

青い、という言葉だけでは少し足りない海だった。

陽を受けた水面が白くきらめき、その向こうで空がそのまま溶け込むように続いている。

ゴーレムヨンドの外壁の上から見る空も広かったが、海のある空は広さの質が違った。

遮るものがない。

どこまでも抜けている。


「初めて?」


隣でテレースが言った。


「海は見たことがあります」


「そう」


「こんなふうに、街と一緒にある海は初めてです」


テレースは少しだけ笑った。

駅馬車はゆるやかに坂を下り、潮の匂いを運ぶ風が窓から入り込んでくる。

乾いた街道の匂いとは違う、湿り気を含んだ空気だった。

塩と、湯気と、魚と、陽に温められた木の匂いが混じっている。


やがてゴドメの街が見えてきた。


海岸沿いに広がる白壁の建物。

湯気の立つ宿。

浜へ下りる石段。

色布のひるがえる市場。

遠くには桟橋が伸び、小舟がいくつも揺れている。

街全体が、旅人を迎えるために少しだけ明るく作られているように見えた。


癒やしと寛ぎのリゾート地。

テレースは道中でそう言った。

なるほど、と思う。

確かにここは、ゴーレムヨンドのように防衛のために組まれた街ではない。

人が休み、遊び、食べ、歌を聞くための街だ。


だが、近づくにつれて、別の気配も見えてきた。


市場の端に、妙に大きな吸盤のついた干物が吊るされている。

広場の一角には、巨大な脚の骨のようなものが飾られている。

宿の看板には、海鮮料理の絵に混じって、なぜか勇ましい炎の意匠がある。


ゴレムは少し眉を寄せた。


「……思っていたより、勇ましい街ですね」


「そうかしら」


「保養地だと聞いていましたが」


「保養地よ」


「そうは見えないものが、ところどころにあります」


テレースはそれに答えず、ただ「着くわ」とだけ言った。


駅馬車が停まると、潮騒が一気に近くなった。

荷を下ろし、石畳へ降り立つ。

足元の感触まで、どこか軽い。

海辺の街の石は、内陸の町より少し丸いのだろうかと、どうでもいいことを考える。


テレースは迷いなく歩き出した。

ゴレムは荷を背負い、その後を追う。


街の中は賑やかだった。

湯上がりらしい客が浴衣めいたものを着て歩き、浜辺へ向かう子どもたちがはしゃぎ、

市場では魚を捌く音が響く。

貝、海老、蟹、見たことのない海藻。

食材の種類だけでも、ゴーレムヨンドとは別世界だった。


その一方で、耳に入る話が妙に物騒だ。


「今年のクラーケンは沖で済んでよかったねえ」

「いや、あの年に比べりゃ何でも穏やかだよ」

「爆炎様が来た時の騒ぎに比べたらねえ」


爆炎。


その名は、もう何度も聞いていた。

歌の中で。旅人の噂で。道中の酒場で。

だがここでは、その名が伝説というより、地元の昔話のような調子で語られている。


テレースの家は、街の奥まった高台にあった。


旅館ほど大きくはない。

だが普通の家というには広く、客を迎えることに慣れた造りをしていた。

海の見える縁側、風通しのいい広間、歌声が響きそうな天井の高さ。

なるほど、と思う。ここで育ったなら、テレースがああいう人になるのも分かる気がした。


「ただいま」


テレースが戸を開けると、すぐに中から声が返ってきた。


「おかえりなさい、お姉さま」


最初に現れたのは、柔らかな雰囲気の若い女だった。

顔立ちにテレースと通じるものがある。

だが印象はずっと華やかで、声そのものに人を惹きつける響きがあった。


その後ろから、さらに二人。

一人は快活そうで、もう一人は少し静かな目をしている。

そして、その場の空気を一段濃くしている存在が、窓辺にいた。


大きな翼。

人の姿に近いが、人ではない気配。

ただ座っているだけなのに、妙に場を支配している。


ゴレムは一瞬、言葉を失った。


「紹介するわ」


テレースは平然としていた。


「妹たちよ。モルペー、ライドネー、テルクシオペー」


順に視線が向く。

モルペー、と呼ばれた末妹が、にこりと笑った。


「はじめまして。姉がお世話になった方ですね」


「いえ、世話になったのは私の方で」


思わずそう返すと、ライドネーがくすりと笑う。


「真面目そう」


「真面目ね」


テルクシオペーまで頷いた。


そして窓辺の存在へ、テレースが視線を向ける。


「こちらはパーピー。遊びに来ているの」


遊びに来ている。

その言い方で済ませていい相手なのか、ゴレムには判断がつかなかった。


ハーピークイーンのパーピーは、こちらを見て、ゆっくりと片手を上げた。


「テレースの客か」


低く、よく通る声だった。


「はい」


としか答えられない。

パーピーはそれで十分らしく、ふっと笑った。


「堅いな。悪くない」


悪くないらしい。

何がどう悪くないのかは分からないが、とりあえず否定されてはいないようだった。


広間へ通され、茶が出た。

海辺の街らしく、少し塩気のある菓子まで添えられている。

だが、落ち着いて味わうには情報量が多すぎた。


目の前にはテレースの妹たち。

その中には、あの吟遊詩人一座の中心にいたモルペーがいる。

しかもハーピークイーンまでいる。

広間の壁には、旅先で贈られたらしい花飾りや、楽器や、見覚えのない記念品が並んでいる。


ゴレムは茶碗を持ったまま、少しだけ姿勢を固くした。


「そんなに緊張しなくていいのに」


モルペーが言う。


「していません」


「してるわ」


ライドネーが即座に言った。

テルクシオペーも静かに頷く。


「肩が上がってるもの」


言われてみれば、確かにそうかもしれない。

ゴレムは少しだけ肩の力を抜いた。


テレースはそんな様子を見て、ほんの少しだけ口元を和らげた。


「少し休んでいくといいわ。長旅だったでしょう」


その言葉に甘えて、しばらく広間で休ませてもらった。

海風が通り抜け、遠くで波の音がする。

モルペーたちは自然に話し、パーピーは時々短く口を挟む。

家族と客人の場なのに、どこか舞台裏の控室のような空気もあった。


そしてゴレムは、三十分もしないうちに悟った。


ここは居心地が悪いわけではない。

むしろ親切だ。

だが、濃い。


人も、空気も、情報も、全部が濃い。

このまま泊めてもらえば、礼を欠くことはないだろう。

だが自分の頭が追いつかない。


だから、夕方が近づいた頃、ゴレムは荷を持って立ち上がった。


「お世話になりました。私は近くで宿を取ります」


モルペーが目を丸くする。


「え、泊まっていかないの?」


「ご厚意はありがたいのですが、長居するとご迷惑になります」


「ならないわよ」


「私が落ち着きません」


正直に言うと、ライドネーが吹き出した。

テルクシオペーも珍しく少し笑っている。

テレースだけは、ああやっぱり、という顔をした。


「そう言うと思ったわ」


「すみません」


「謝ることではないわ。宿なら紹介できる」


「お願いします」


紹介された旅館は、海の見える通りに面した、落ち着いた造りの宿だった。

木の看板には波と貝の意匠。

玄関先には湯気が立ち、潮の匂いと出汁の匂いが混じっている。


帳場の女将は、テレースの顔を見るなり「あらまあ」と笑った。


「お帰りなさい、テレースちゃん」


「ただいま。こちら、一泊お願いできるかしら」


「もちろんよ。……あら、お連れさん?」


ゴレムは軽く頭を下げた。

女将は一瞬で何かを察したような顔をしたが、余計なことは言わなかった。

さすが旅館の人だと、妙なところで感心する。


部屋へ案内される途中、広間の壁に飾られた額が目に入った。


サインだった。


大きく、勢いのある筆致。

何人分もの名前。

その下に添えられた説明書きには、こうある。


爆炎パーティ来訪記念


ゴレムは思わず足を止めた。


「本物ですか」


女将が振り返る。


「本物よ。うちの自慢」


「……本当に来たんですか」


「来たどころじゃないわよ」


女将は少し胸を張った。


「昔ね、街で暴れクラーケンが出た時に、到着早々どたばたっと片付けてくれてねえ。

そのあと泊まっていったのがうちなの」


ゴレムはサインを見上げた。

伝説の名残が、急に壁の上の現実になる。


「それだけじゃないのよ」


女将は楽しそうに続けた。


「モルペーちゃんが最初に旅館で歌ったのも、うちの宴会場。

まだ今みたいに有名になる前ね。

あの時はもう、みんな腰を抜かすかと思ったわ。

天使だの尊いだのって大騒ぎで」


ゴレムは広間の奥を見た。

今は静かな畳敷きの宴会場が、かつて歌声で満ちていたのだろう。


「夕餉、楽しみにしててね」


女将はにっこり笑った。


「海の幸が自慢だから。あと、うちの名物は爆炎御前」


「爆炎御前」


「ええ。せっかくならそれにする?」


料理にまでなっているのか、とゴレムは少し考えた。

だがここまで来たら、頼まない方が不自然な気もする。


「では、それで」


「決まりね」


部屋に荷を置き、ひと息ついてから湯へ入った。

天然温泉だという。

湯気の向こうで海の匂いがするのが不思議だった。

ゴーレムヨンドの風呂とは違う。

体の芯から緩むような湯で、旅の疲れが少しずつほどけていく。


夕餉は、想像以上だった。


海老、蟹、貝、白身魚、焼き物、蒸し物、椀物。

そして中央に据えられた爆炎御前は、見た目からして妙に華やかだった。

赤と橙を基調にした盛り付けで、辛味と旨味を利かせた海鮮料理が並ぶ。

名前は勇ましいが、味はきちんと繊細で、ただ派手なだけではない。


ゴレムは箸を止め、少し考えた。


「……美味い」


それしか言えなかった。

女将は満足そうに笑う。


「でしょう。

爆炎様たちが来た時の騒ぎにあやかって作ったのが始まりなのよ。

今じゃうちの看板」


食事のあと、広間をもう一度通った。

壁のサインを見上げる。

爆炎パーティ。

モルペーのデビュー。

テレースの実家。

パーピーの来訪。


今日一日で、自分はどれだけ濃い場所へ来てしまったのだろうと思う。


海の音が、夜になって少し深くなっていた。

窓の外には、月を映した水面が揺れている。


ゴレムは部屋へ戻り、手帳を開いた。


ゴドメ。

癒やしと寛ぎのリゾート地。

海の幸の街。

温泉の街。

そして、爆炎の記憶と、歌姫の始まりが、今も普通に息をしている街。


書きつけながら、ふと手が止まる。


テレースは、こういう街の娘なのだ。

旅人を迎え、歌を育て、伝説を笑い話のように抱え込んで、それでも日常を回していく街。


なるほど、とゴレムは思った。

あの人が、ただ有能なだけで終わらない理由が、少し分かった気がした。


その夜、波の音を聞きながら、ゴレムは久しぶりに深く眠った。

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