ゴレムさん編 駅馬車で読書する女性
見難い火傷の子537
ゴレムさん編 駅馬車で読書する女性
ゴーレムヨンドを発って三日目の朝、ゴレムは駅馬車の窓から外を見ていた。
ナッツ大陸の街道は、遠くから見ると一本の薄い傷のようだった。
乾いた土の上を、荷車と馬の蹄が何度も踏み固め、ところどころに石が敷かれ、
また剥がれ、雨季の名残を浅い轍として残している。
道はまっすぐではない。
丘を避け、水場を拾い、古い集落をつなぎながら、気まぐれに曲がって続いていた。
軌道のように正確ではない。
だが、だからこそ人の都合と歴史が見える道でもあった。
駅馬車は六人掛けで、今は五人が乗っている。
向かいには商人らしい男が二人、後ろには子どもを抱いた女が一人。
そしてゴレムの隣には、朝からずっと本を読んでいる女性がいた。
最初に乗り込んだ時から、少し気になってはいた。
旅装は地味だ。
濃い色の外套に、埃の立ちにくい布地のスカート。
荷物も大きくない。
だが、姿勢が妙に崩れない。
揺れる馬車の中で、膝の上に開いた本を片手で支えながら、
もう片方の手で頁をめくる動きに無駄がなかった。
読んでいるのは小説ではないらしい。
紙面には図版や注釈が多く、時折、彼女は指先で欄外をなぞるようにして読み返している。
ゴレムは一度だけ、その表紙を見ようとして、やめた。
覗き込むのは行儀が悪い。
だが気になる。
気になるが、話しかける理由はない。
駅馬車は小さく揺れ、車輪が石を踏むたびに車体が軋んだ。
御者台からは時折、馬を宥める声が聞こえる。
窓の外には低い丘と、まばらな灌木、それから遠くに白っぽい岩肌が見えた。
ゴーレムヨンドの外へ出てから、景色は少しずつ変わっている。
空の広さは同じでも、町ごとに匂いが違う。
水の味も違う。工房の音がしない朝というのは、まだ少し落ち着かなかった。
隣の女性が、頁をめくる。
その指先が、ふと止まった。
馬車が大きく跳ねたのだ。
車輪が深い轍に落ちたらしい。
車体がぐらりと傾き、商人の一人が短く悪態をつく。
子どもが小さく泣き声を上げる。
ゴレムは反射的に座席の縁を掴んだ。
隣の女性の本が、膝から滑り落ちる。
床へ落ちる前に、ゴレムはそれを受け止めた。
「あ」
女性が初めて顔を上げた。
その瞬間、ゴレムはどこかで見た気がした。
だが、すぐには結びつかない。
広場で見た時とは服装も違うし、髪のまとめ方も少し違う。
何より、あの時は立って人を動かしていた人が、今は静かに本を読んでいる。
「すみません」
女性が言った。
「いえ」
ゴレムは本を差し出した。
受け取る時、表紙が少しだけ見えた。
『鉄道国沿線誌・南方版』
思わず、口が先に動いた。
「鉄道国の本を読むんですか」
女性は一瞬だけ目を細めた。
警戒というほどではない。
だが、相手が何者かを測る目だった。
「……ええ」
「失礼しました。覗くつもりはなかったんですが」
「見えたのなら仕方ないわ」
声を聞いて、ゴレムははっきり思い出した。
広場の荷車の前で、短く指示を飛ばしていた女だ。
「あなたは」
言いかけて、ゴレムは止まった。
名前を知らない。
どう呼べばいいのか分からない。
女性の方が先に、わずかに口元を和らげた。
「荷車の車輪を見てくださった方ね」
「……覚えていたんですか」
「ええ。ああいう場で、あれだけ手早く直せる人はそう多くないもの」
褒められているのだろうが、やはり少し調子が狂う。
ゴレムは咳払いを一つした。
「旅に出たんですね」
「あなたも」
「私は……調査です」
「そうおっしゃりそうだと思ったわ」
その言い方に、少し笑われた気がした。
だが嫌な感じはしない。
女性は本を閉じ、膝の上に置いた。
「鉄道国に興味がおありなの?」
「あります」
答えは思ったより早く出た。
自分でも少し驚くほど、迷いがなかった。
「見たことはありませんが、機構には興味があります。
軌道、車輪、連結、制動……それに、遠距離を安定して結ぶ仕組みそのものに」
「技師らしい答えね」
「ゴーレム技師です」
「知っているわ」
さらりと言われて、ゴレムはまた言葉に詰まった。
知っている、というのは、広場で見たからだろうか。
それとももっと別の意味だろうか。
「あなたは」
今度こそ、ゴレムは尋ねた。
「鉄道国へ行ったことがあるんですか」
「あるわ」
「本当に?」
「本当に、とは」
「いえ、その……」
自分でも妙な聞き方だと思った。
女性は少しだけ笑った。
今度ははっきりと。
「あるわ。
何度か。
沿線の町も、乗り継ぎの宿場も、湿地帯を抜ける区間も見た。
だからこの本を読んでいるの。
記述が古いところがあるから」
ゴレムは思わず本を見た。
古い記述。
現地を知る者の言い方だ。
「では、あの歌も」
「吟遊詩人の?」
「ええ。広場で歌っていた、線路がどこまでも続くという歌です」
「あれは少し誇張があるわね」
「誇張」
「歌ですもの。でも、嘘ばかりでもない」
女性は窓の外へ目を向けた。
乾いた街道の先に、白い陽が落ちている。
「道が続く、という感覚は似ているかもしれないわ。
鉄道国の軌道は、見ていると不思議なの。
人が敷いたはずなのに、最初から世界にそういう筋があったみたいに見える時がある」
その言葉に、ゴレムは少し息を呑んだ。
自分がまだ見たことのないものを、見えるように話す人だと思った。
「あなたは、どこまで行くんですか」
「今はまだ途中よ」
「途中」
「ええ。温泉郷を経て、その先まで」
「爆炎の跡地ですか」
女性は一瞬だけこちらを見た。
その目に、ほんの少しだけ驚きが混じる。
「そこまで歌を真面目に聞いていたのね」
「機構の話が混じっていたので」
「やっぱり技師ね」
女性は本の背を軽く撫でた。
「あなたは?」
「私も、そのあたりを見に行こうと思っています」
「一人で?」
「今のところは」
「無茶をする顔には見えないけれど」
「無茶はしません。有給休暇を取ってきました」
言った瞬間、女性が目を瞬いた。
それから、堪えきれないように小さく笑った。
「……有給休暇」
「おかしいですか」
「少し」
「規則上、問題はありません」
「そういう話ではないのだけれど」
その返しに、ゴレムはどこかで聞いたような気がした。
工房長か、バルドか、鍛冶場の親父か。
みな似たようなことを言った。
「でも、いいと思うわ」
女性は笑みを収め、少しだけ真面目な声で続けた。
「そういう人の方が、遠くまで行けることもあるもの」
「そうでしょうか」
「ええ。勢いだけで出る人は、勢いが切れたところで止まるから」
ゴレムはその言葉を、しばらく黙って受け止めた。
馬車はまた小さく揺れ、窓の外の景色が少しずつ流れていく。
「あなたは」
ゴレムは慎重に言葉を選んだ。
「一座の人なんですか」
「そう見えた?」
「歌う人ではないと思いました」
「どうして」
「前に立つ人が無事に立てるよう、道を整える側の人に見えたので」
女性は、今度こそはっきりと黙った。
その沈黙が不快ではなく、むしろ何かを測る間のように感じられる。
「……よく見ているのね」
「見れば分かることを見ただけです」
そう言ってから、ゴレムは少し後悔した。
広場で自分が返した言葉そのままだったからだ。
だが女性は、静かに笑った。
「その言い方、嫌いじゃないわ」
馬車は次の宿場へ向けて進んでいく。
商人たちは眠り始め、子どもは母親の肩で寝息を立てていた。
御者の声と車輪の音だけが、一定の調子で続く。
ゴレムは、こんなふうに誰かと長く話す旅になるとは思っていなかった。
しかも相手は、広場で一度見かけただけの、名前も知らない女性だ。
それでも不思議と、会話は途切れなかった。
「その本、面白いですか」
「面白い部分もあるし、古すぎる部分もあるわ」
「どこが古いんです」
「たとえば南方の分岐線。今はもう少し整備されているし、宿場の位置も変わっている。
あと、この本は食堂車の記述が薄い」
「食堂車」
「大事でしょう」
「……そこは考えたことがありませんでした」
「旅の質に関わるわ」
きっぱり言われて、ゴレムは少し真顔になった。
旅の質。
そういう観点で機構を見る人なのか、と妙に感心する。
「あなた、本当にいろいろ見てきたんですね」
「少しは」
「バビロニアも?」
「ええ」
「温泉郷も」
「ええ」
「爆炎の跡地も」
女性は少しだけ間を置いた。
「ええ」
その短い返事の中に、さっきまでとは違う重さがあった。
ゴレムはそれ以上、すぐには踏み込まなかった。
代わりに窓の外を見た。
乾いた道が、ゆるやかに先へ続いている。
駅馬車の中で本を読む女性。
広場で荷車の車輪を見ていた時とは違う、静かな横顔。
だが同じ人だ。
たぶん、ただの旅人ではない。
この人は何者なのだろう。
どこまで知っていて、どこへ向かっているのだろう。
そして、自分はこの先、どこまで一緒に行くことになるのだろう。
宿場が近づく頃、女性は本を鞄へしまった。
そして、まるで今思い出したように言った。
「そういえば、まだ名乗っていなかったわね」
ゴレムは姿勢を正した。
「私はゴレムです」
「ええ、知っている」
「……知っているんですか」
「広場で呼ばれていたもの」
それはそうだった。
ゴレムは少しだけ耳が熱くなるのを感じた。
女性は、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「私はテレース」
その名が、なぜかすぐ胸の内に収まった。
初めて聞くはずなのに、前から知っていたもののように。
「テレースさん」
「さん、はいらないわ」
「では……テレース」
呼び慣れない音だった。
だが彼女は訂正しなかった。
駅馬車は宿場へ入るため、速度を落とし始める。
車輪の音が少し変わる。
石の多い道から、踏み固められた広場の土へ。
ゴレムは、自分の旅が昨日まで思っていたものとは少し違う形になり始めているのを感じていた。
調査の旅であることに変わりはない。
だが、調べる対象の中に、ひとりの女性が静かに加わってしまったことも、もう否定できなかった。




