ホーネット幕府編 裏組織 第十一話 本体
見難い火傷の子531
ホーネット幕府編 裏組織 第十一話 本体
倉の中は、思っていたより静かだった。
外の川音が薄く板壁を叩き、湿った縄と古い木の匂いが鼻につく。
荷を積む倉にしては、獣脂も穀の粉も薄い。
代わりにあるのは、閉じ込めた空気の重さだった。
人が長く息を潜めていた場所の匂いだ。
匠一は戸を引いたまま、半歩だけ中へ入る。
足元に散っているのは藁ではない。
細く裂いた布と、切れた縄の端。
荷崩れの跡ではなく、縛ったものを解いた跡だ。
「……荷じゃねえな」
背後から入ってきたダンが低く言う。
その声には、さっきまでの獲物を前にした荒さとは別の硬さがあった。
「最初からそうだ」
匠一は答え、目を奥へ向けた。
倉は表から見たより深い。
手前には木箱と樽が積まれているが、どれも壁を作るように置かれている。
荷をしまうためではない。
視線を遮るための積み方だ。
その隙間の向こうに、さらにもう一枚、内壁のような板張りが見えた。
「二重か」 「ええ」
ニールが灯りを押さえながら頷く。
「表の倉を偽装にして、奥を隠しています。
荷揚げ場じゃない。選別場か、留め置き場です」
「開けるぞ」
匠一が板壁へ近づくと、足元で何かが鳴った。
乾いた、小さな音。
見れば、木札が一枚転がっている。
荷札に似ているが、書かれているのは品目ではなく数字と印だけ。
西の荷場で見たものと同じだ。
だが今度は、端に小さく墨で線が引かれていた。
一本線。
二本線。
三本線。
「等級か」
「あるいは行き先の別です」
ニールが言う。
匠一は札を拾い、指先でなぞった。
人を荷として数え、印で分ける。
ここは継ぎ目ではない。
流れてきたものを、ここで選り分けている。
本体だ。
匠一は板壁の継ぎ目に手をかけ、一気に引いた。
内側から簡単に外れないよう細工されていたが、留め具の位置は読める。
板が軋み、次の瞬間、奥の空気が一気に流れ出た。
冷たい。
そして、臭う。
血ではない。
腐臭でもない。
もっと乾いた、人の不安と汗が染みついた匂いだった。
奥には部屋があった。
いや、部屋というより、仕切られた檻だ。
太い木格子で三つに区切られ、それぞれに藁が敷かれている。
今は空の区画が二つ。
だが一番奥だけ、影があった。
人だ。
痩せた男が二人、壁際に寄せられている。
その手首には縄の擦れ跡。
足首にも同じ。
口は塞がれていないが、声を出す気力もないらしい。
灯りが差し込むと、怯えたように肩を震わせた。
ダンが舌打ちする。
「やっぱり人攫いじゃねえか」
「攫うだけなら、ここまで分けない」
匠一は檻の前にしゃがみ込んだ。
二人とも若い。
労働に使い潰された体ではない。
片方は町人風、もう片方は旅装の残りがある。
無差別にさらっているのではない。
流していい人間を選んでいる。
「おい、聞こえるか」
匠一が声をかけると、旅装の男がかすかに顔を上げた。
唇が割れている。
水もろくに与えられていない。
「……ここは」
「助けに来た、とはまだ言わん。まず聞く。お前たちはどこから来た」
「……西の……宿場」
「何人いた」
「五……いや、六……」
声が掠れる。
六人。
今ここに二人。
残りはどこへ行った。
匠一の視線が、空の二つの区画へ向く。
一つは最近まで使われていた跡がある。
藁が潰れ、縄が切られ、壁に爪痕が残っている。
もう一つは乾ききっている。
古い。
「流した後か」
ニールが低く言った。
「ここで留めて、数を揃えてから川へ落とす。
西の荷場は入口、ここが選別と保管。なら――」
「ここが本体だ」
匠一は言い切った。
単なる中継ではない。
人を集め、分け、記録し、流す。
帳面も、荷札も、杭も、舟も、全部がここを中心に噛み合っている。
西の荷場は顔。
川は血管。
だがここは胴だ。
流れを決める場所そのもの。
ダンが倉の奥を見回す。
「なら壊すか」
「まだだ」
「またそれか」
「本体を見つけたなら、壊す前に掴む」
「面倒くせえ」
「面倒だから本体なんだ」
ダンは鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。
目の前の檻と札を見れば、ここがただの隠し倉ではないことくらい分かる。
ニールは壁際の棚へ寄った。
そこには帳面が積まれている。
西の荷場で見たものより薄いが、数が多い。
さらに奥には封蝋された文箱が三つ。
印は削られているが、削り方に見覚えがあった。
共和国で見た帳簿と同じ癖だ。
「匠一」
「何だ」
「帳面だけじゃありません。指図書があります」
「読めるか」
「今すぐ全部は無理ですが……これは」
ニールが一枚抜き出し、灯りにかざす。
薄い紙に、簡潔な文が並んでいる。
荷の指示ではない。
人数、日付、受け渡し、処理。
最後に短い署名のようなものがあるが、そこだけ丁寧に削られていた。
「署名を消してる」
「だが癖は残る」
匠一は紙を受け取った。
削り跡の角度。
筆圧の残り。
帳簿の消し跡と同じだ。
つまり西の荷場も、この倉も、同じ手で管理されている。
別口ではない。
一本の胴だ。
「本家筋か」
「少なくとも、その実働です」
ニールの声は静かだったが、硬い。
ここまで来れば、もう疑いではない。
ホーネット幕府の裏組織は、場当たりの誘拐や荷抜きではない。
人を流し、消し、数に変える仕組みとして出来上がっている。
その時、檻の奥の男が震える声で言った。
「……まだ、いる」
「何がだ」
「上……上に」
匠一とダンが同時に顔を上げた。
倉の天井は低い。
だが梁が太い。
荷を吊るすには不自然なほど頑丈だ。
そして奥の壁際に、梯子がある。
今まで木箱の陰で見えなかっただけだ。
「二階か」
「隠し部屋でしょう」
ニールが灯りを上げる。
梁の上に、わずかな隙間。
空気の流れが違う。
上にも空間がある。
ダンが口元を歪めた。
「やっと当たりか」
「静かに行け」
「無理言うな」
「気配だけ殺せ」
「そっちはできる」
それは本当だった。
ダンは荒いが、獲物に飛びかかる直前だけは妙に静かになる。
最初に匠一へなついた頃から、そういうところだけは獣じみていた。
匠一は檻の鍵を探しながら、短く言う。
「ニール、帳面と指図書をまとめろ。火を入れられたら終わる」
「はい」
「檻の二人は」
「鍵を開ける。ただし今は動かすな。外へ出せば目立つ」
「了解です」
匠一は棚の脇に吊られた鍵束を見つけ、檻を開けた。
中の二人はすぐには動けない。
だが目だけは、さっきより生きている。
助かったとまでは思っていない。
ただ、流れの向きが変わったことだけは感じている顔だった。
「ここで待て。まだ終わってない」
「……あんた、誰だ」
「流れを止めに来た」
それだけ言って、匠一は梯子へ向かった。
上にいるのは見張りか、管理役か、あるいはもっと太い何かか。
だがどれでもいい。
ここまでの帳面、札、檻、指図書。
全部が示している。
ここは継ぎ目ではない。
中心だ。
少なくとも、この一帯の人流しを動かしている胴体そのものだ。
本体。
匠一は梯子に手をかけた。
木は湿っているのに、踏み段だけが乾いている。
最近まで頻繁に使われていた証拠だ。
下ではニールが紙をまとめ、ダンがもう半歩前へ出ている。
匠一が上がるなら、自分が先に噛みつくつもりの位置だ。
「ダン」
「おう」
「最初の一人は生かせ」
「二人目からは?」
「状況次第だ」
「十分だ」
短い返事。
それで足りる。
匠一は一段、また一段と上がった。
梁の隙間から、上の暗がりが近づく。
湿った倉の空気の中に、別の匂いが混じった。
香だ。
下の檻や帳面の匂いとは違う。
もっと乾いて、整った匂い。
下働きの匂いじゃない。
上にいるのは、使う側だ。
匠一は最後の段で体を止め、隙間の向こうを覗いた。
そこには小さな部屋があり、机と灯りと、まだ新しい紙束が積まれていた。
そして、その机の前に一人、背を向けたまま座っている影があった。
逃げていない。
待っている。
本流の先で、ようやく本体に手が届いたのだと、匠一はそこで確信した。




