ホーネット幕府編 裏組織 第十話 逆流
見難い火傷の子530
ホーネット幕府編 裏組織 第十話 逆流
帳場の男は、すぐには吐かなかった。
袖を机に縫い止められたまま、痛みに顔を歪めても、口元だけは崩さない。
焼き役の若い男も同じだった。
舟を押さえたニールが連れてきた船頭は、毒を吐かされて青い顔をしていたが、
それでも目だけは泳がせて黙っている。
三人とも、喋れば終わると知っている顔だった。
逆に言えば、喋らなければまだ誰かが切ってくれると思っている。
匠一は帳場の机に濡れた帳面を広げ、乾きかけた頁を一枚ずつ押さえた。
荷印、川印、人数、消し跡。
西の荷場で継がれた流れは、ここで一度まとめられ、川へ落とされる。
その先に継ぎ先がある。
だが帳面には、肝心の次がない。
切られたのではない。
最初から別にしてあるのだ。
「継ぎ先はどこだ」
匠一が改めて問うと、年嵩の男は鼻で笑った。
「知ってどうする」
「行く」
「行けんよ。流れは下るもんだ」
「なら逆に行く」
男の目が、そこで初めてわずかに細くなった。
匠一はその反応を見逃さなかった。
当たりだ。
こいつらにとって、この流れは一方通行であることが前提だ。
荷も、人も、証拠も、下へ流して消す。
だから逆から来る者を想定していない。
「ニール」
「はい」
「舟はどこへ着ける」
「この先の川幅だと、大きな船着き場ではありません。
荷を積み替えるなら、岸の低い私設の桟橋か、倉の裏口です」
「町外れか」
「ええ。表の荷場を通さずに済む場所です」
ダンが壁にもたれたまま、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「だったら船頭を引きずって行けばいいだろ」
「それで素直に着けるならな」
「着けなきゃ沈める」
「沈めたら終わる」
ダンは舌打ちしたが、黙った。
目の前のものを叩き割るのは簡単だ。
だが今必要なのは、割らずに使うことだと分かっている。
匠一は船頭の前にしゃがみ込んだ。
男はまだ顔色が悪い。
唇の端に吐瀉の跡が残っている。
「お前はどこへ着ける」
「……知らねえ」
「毒を飲んだやつの言葉じゃないな」
「……」
「死ぬ覚悟があるなら、黙ってればいい。
だが、お前が死んでも流れは止まらない。
代わりが来るだけだ」
「……」
「それでも黙るなら、お前はただの捨て駒だ」
船頭の喉が動いた。
その一瞬の揺れを、匠一は逃さない。
「継ぎ先を知らなくてもいい。合図だけでいい。何を見て舟を寄せる」
「……灯りだ」
「どんな」
「青い……布を巻いた灯り」
ニールがすぐに口を挟む。
「川霧避けの偽装ですね。普通の船着きなら使いません」
「場所は」
「右岸の低地でしょう。湿地が多く、夜は霧が出る」
匠一は頷いた。
場所が絞れた。
継ぎ先の名はまだ出ない。
だが流れは見えた。
なら十分だ。
「舟はいつ動く」
「日が落ちてからだ」
「荷は」
「……人と、帳面と、印のある荷だけ」
やはりだ。
表の荷は囮。
本当に流しているのは、人と記録と、印のついたものだけ。
ダンが低く笑った。
「荷じゃなくて死体運びか」
「まだ死体とは限らない」
「限るだろ」
「限らせない」
匠一がそう言うと、ダンは口を閉じた。
今夜流れる人間がいるなら、生きているうちに押さえる。
死体にされる前に、流れを逆から噛む。
帳場の男がそこで初めて口を開いた。
「無駄だ」
「何が」
「逆らっても、流れは戻らん」
「戻す気はない」
「……」
「遡るだけだ」
匠一は立ち上がり、濡れた帳面を閉じた。
「ニール、川沿いの低地で青布の灯りが見える場所を当たれ。
表からじゃなく、水際から見ろ」
「はい」
「ダン、お前は舟を押さえろ。船頭は生かしたまま使う。逃げようとしたら足を折れ」
「腕じゃなくて足か」
「漕げなくなる」
「細けえな」
「必要だ」
ダンは肩をすくめたが、目はもう川の方を向いていた。
最初に匠一へなついた頃から変わらない。
命じられれば真っ先に動く。
だが越えてはいけない線は越えない。
「匠一、お前は」
「俺はこいつを連れて行く」
匠一は帳場の年嵩の男を見た。
流れを束ねる側の顔。
こいつは継ぎ先を知っている。
全部は吐かなくても、現場を見れば反応する。
男は薄く笑った。
「案内役にでもする気か」
「違う」
「じゃあ何だ」
「お前に、自分の流れが逆から噛まれるところを見せる」
その言葉に、男の笑みが初めて止まった。
日が傾き始めると、西の荷場の騒ぎは逆に静まった。
散った人足は戻らず、残ったのは縛られた裏の者と、崩れた荷と、乾いた風だけ。
表向きには喧嘩か荷崩れで済ませられる程度の乱れに見える。
だが中身は違う。
今夜ここから流れるはずだったものは、全部こちらの手の内にある。
それでも相手は動く。
流れが来ないなら、見に来る。
舟が着かなければ、灯りを消す。
帳面が届かなければ、次を切る。
だからこそ、先に行く。
待つのではなく、逆に入る。
夕暮れの川は、昼よりも冷たく見えた。
水面は赤く染まりながらも、流れそのものは黒い。
下へ、下へと静かに運んでいく。
人も、荷も、証拠も、何もかも。
その岸に、小舟が一艘つけられていた。
ニールが縄を確かめ、ダンが船頭の首根っこを掴んで押し込む。
年嵩の男は両手を縛られたまま、匠一の前に座らされた。
焼き役の若い男は荷場に残し、別の縄で柱に括りつけてある。
全部は連れていけない。
だが線は足りる。
「青布の灯りが見えたら、いつも通り寄せろ」
匠一が船頭に言うと、男は唇を噛んだ。
「……寄せたら、俺は」
「生きるかもしれない」
「かもしれない、か」
「黙って沈むよりはましだ」
船頭はそれ以上言わなかった。
生き延びる可能性が一つでもあるなら、人はそちらを見る。
裏の流れに使われるだけの駒でも同じだ。
舟が岸を離れる。
水が船腹を叩き、夕暮れの赤が揺れた。
西の荷場が少しずつ遠ざかる。
今までなら、ここから下るだけだった流れに、匠一たちは逆らって入っていく。
ニールが低く言った。
「右岸の低地なら、もうすぐです。
霧が出る前に灯りが見えるはず」
「見えなければ」
「別の継ぎ先です」
「その時は」
「また探す」
簡単に言う。
だがそれでいい。
一本切られても、まだ線はある。
今はそういう段階まで来ている。
ダンが舟の舳先で、川面を睨んだまま呟く。
「逆流ってのは、気分悪いな」
「流されるよりはいい」
「違えねえ」
その時、右岸の闇の中に、小さな青が灯った。
布を巻いた灯り。
揺れ方が不自然だ。
風ではない。
人の手で、一定の間を置いて二度、三度と振られている。
合図だ。
船頭の肩がびくりと震えた。
年嵩の男は何も言わない。
だが目だけが、ほんのわずかにその灯りへ吸われた。
当たりだ。
「寄せろ」
匠一が低く言う。
船頭は逆らわなかった。
櫂が水を切り、小舟はゆっくりと右岸へ向きを変える。
岸辺は低く、葦が生い茂っていた。
その奥に、黒い影がある。
倉だ。
表通りからは見えない、小さな私設の荷揚げ場。
青布の灯りは、その軒先で揺れている。
本流の継ぎ先。
いや、まだ継ぎ目の一つかもしれない。
それでも十分だ。
ここまで逆らって来られた時点で、相手の想定はもう崩れている。
匠一は舟が岸へ触れる寸前、低く言った。
「ダン、最初の二人だけ潰せ。声は上げさせるな」
「おう」
「ニール、灯り持ちを押さえろ。逃がすな」
「はい」
「俺は倉へ入る」
返事は短い。
もう説明はいらない。
舟が岸へ当たる。
その小さな衝撃と同時に、ダンが飛んだ。
青布の灯りが揺れ、岸の影が振り向くより早く、最初の一人が地に沈む。
ニールは音もなく葦を裂き、灯り持ちの口を塞いだ。
匠一はその間を抜け、倉の戸へ手をかける。
流れは下るものだと、あいつらは思っている。
だから逆から来る手を用意していない。
なら、ここから先はこっちの流れだ。
匠一は戸を引いた。
暗い倉の奥から、冷えた空気と、湿った縄の匂いが流れ出る。
本流を掴み、切らせず、逆らってここまで来た。
次は、この流れの上流にいるものへ手をかける番だった。




