ホーネット幕府編 裏組織 第九話 切らせない
見難い火傷の子529
ホーネット幕府編 裏組織 第九話 切らせない
西の荷場は、もう荷捌き場の顔をしていなかった。
悲鳴と怒号が乾いた空気を裂き、人足たちは荷を放り出して逃げ惑う。
倒れた男、ひっくり返った樽、散った縄。
さっきまで整いすぎるほど整っていた流れが、一気に崩れていた。
だが崩れたからこそ見えるものもある。
誰が逃げるべきで、誰が残るべきか。
誰がただの人足で、誰が裏の流れに噛んでいるか。
匠一は帳場の床に散った紙を踏まないように足を運び、
袖を机に縫い止められた年嵩の男を見下ろした。
男は痛みに顔を歪めながらも、まだ目だけは死んでいない。
「誰に流してる」
匠一が問うと、男は薄く笑った。
「聞いてどうする」
「追う」
「追えんよ。ここで切れる」
その言葉と同時に、外で何かが割れる音がした。
陶器ではない。
もっと乾いた、封蝋箱か油壺のような音だ。
匠一は即座に顔を上げた。
「ダン!」
返事より先に、外から怒鳴り声が返ってくる。
「奥だ!帳面を燃やそうとしてる!」
匠一は舌打ちし、机を蹴って奥へ走った。
帳場の裏は狭い通路になっていて、その先に小さな保管部屋がある。
扉は半開き。
中から煙が上がっていた。
踏み込むと、若い男が火打石を取り落としたところだった。
足元には油をかけられた帳面の束。
火はまだ端を舐めたばかりだ。
匠一は迷わず水袋を叩きつけた。
濡れた革袋が弾け、火は一気に鈍る。
男が懐へ手を入れたが、その前に匠一の杭が手首の横を打ち、短刀を床へ落とさせた。
「証拠を焼くな」
「証拠じゃねえ、切り札だ!」
男は叫びながら体当たりしてきた。
軽い。人足の体ではない。
逃げ足と手先だけで生きてきた体だ。
匠一は半歩ずれて肩を外し、そのまま足を払う。
男は帳面の束に突っ込み、濡れた紙の上で無様に転がった。
「ニール!」
匠一が声を張ると、外からすぐ返る。
「舟が動きます!」
「沈めるな、止めろ!積み荷ごと残せ!」
「了解!」
切らせない。
今ここで一本でも線を切られれば、また枝葉だけが残る。
帳面を焼かせない。
舟を沈めさせない。
捕まえた口を死なせない。
相手が自分で自分の尻尾を落とす前に、全部押さえる。
匠一は転がった男の襟首を掴み、保管部屋の壁へ叩きつけた。
「誰の指示だ」
「言うかよ」
「じゃあ誰を待ってた」
「……」
「火をつける役がいるなら、切る役もいる」
男の目が一瞬だけ揺れた。
それで十分だった。
帳場の年嵩の男は流れを束ねる側。
こいつは焼く側。
なら、もう一人いる。口を塞ぐ側だ。
「ダン!生かせ!まだ殺すな!」
「分かってる!」
外で鈍い打撃音が二つ続いた。
ダンの返事は荒いが、もう手は止まっている。
目の前の敵を潰し切るより、繋がる口を残す方が大事だと、匠一が言えば呑む。
保管部屋の奥には、濡れた帳面のほかに木箱が三つ積まれていた。
一つは封が切られ、中には荷札。
一つは空。
最後の一つには、黒布に包まれた細い杭がさらに六本。
匠一は眉をひそめた。
やはり荷ではない。処理の道具だ。
人を流すための、痕を残さないための。
「これで何人沈めた」
若い男は口をつぐんだ。
だが視線だけが、ほんの一瞬、箱ではなく床の隅へ落ちた。
匠一はそちらを見る。
濡れた紙束の下から、別の紙片が覗いていた。
帳面ではない。
薄い札だ。
荷札に似ているが、書かれているのは品目ではなく、数字と印だけ。
末尾に小さく、川を示す記号。
人を荷として数えている。
匠一の喉の奥が冷えた。
大量死。
行方不明。
節で消えた者たち。
全部が一本の流れに繋がる。
ここは荷場の顔をした処理場だ。
本流とは、物の流れだけではない。
人を消し、数に変え、川へ落とす流れでもある。
「匠一!」
今度はニールの声が近い。
裏手から駆け戻ってきたらしい。
「舟は押さえました。ただ、船頭が一人、毒を飲もうとしました」
「生きてるか」
「吐かせました。まだ喋れます」
「よし」
切らせない。
口封じも、自害も、焼却も、沈没も。
ここで全部止める。
匠一は若い男の腕を後ろへねじり上げ、縄を蹴り寄せた。
そこへダンが入ってくる。
肩で息をしているが、血はほとんどついていない。
殺していない証拠だった。
「表は押さえた。
二人逃がしたが、片方は足を潰した。
もう片方は川沿いへ走ったが、ニールの張った方へ行ったはずだ」
「十分だ」
「十分じゃねえ。全部噛み砕ける」
「今は噛み砕くな」
ダンの目が細くなる。
だが反論はしない。
匠一の足元に散った札と、濡れた帳面を見て、今何を残すべきかを察したのだ。
「……切らせねえってことか」
「ああ」
匠一は短く答えた。
「ここで節を潰して終われば、向こうはまた別の流れを作る。
帳面を焼かせるな。
舟を沈めさせるな。
捕まえたやつを死なせるな。
一本でも多く繋げる」
「面倒くせえ」
「だからお前がいる」
「褒めてねえな」
「任せてる」
ダンはそこで、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑ったというより、腹に落ちた顔だった。
「なら任せろ。今度は腕から折る」
「殺すなよ」
「分かってる」
ニールが保管部屋の入口で一礼する。
「外の人足は散りました。残っているのは裏の者だけです。衛兵を呼ぶなら今ですが」
「まだ早い」
「証拠隠滅を防ぐためですか」
「衛兵が入れば、向こうも切る。中に手が回ってる可能性がある」
「……本流に繋がっている、と」
「そうだ」
ホーネット幕府の裏組織が、ただの街道盗賊や荷抜きの集まりで終わるはずがない。
本流があるなら、役人にも、荷場にも、川にも、どこかで手が伸びている。
ここで表へ投げれば、逆にこちらの手札を切られる。
匠一は濡れた帳面を拾い上げ、一冊ずつめくった。
荷印、日付、数、川印。
そしてところどころに、消し跡。
共和国で見たものと同じ癖だ。
だが今度は、その消し跡の下に人名らしき断片が混じっている。
「ニール、読めるか」
「少し待ってください」
ニールは帳面を受け取り、濡れた頁を慎重に開く。
指先で紙を押さえ、目を細める。
「……これは荷ではありません。
人の移送記録です。
表向きの荷に紛れ込ませて、人数だけ別記している」
「やっぱりか」
「しかも、途中で印が変わっています。
西の荷場から川へ落とした後、別の帳面に継いでいる」
「継ぎ先は」
「ここにはないです」
ダンが舌打ちした。
「じゃあ半端じゃねえか」
「半端でも切らせない」
匠一は年嵩の男がいる帳場の方を見た。
あいつはまだ生きている。
舟の船頭も生きている。
焼き役も押さえた。
線はまだ残っている。
「継ぎ先を吐かせる」
「吐くか?」
「吐かせる」
「なら俺がやる」
「お前は顔が怖い」
「今さらだろ」
「だからこそ後だ」
ダンが鼻を鳴らす。
だが引いた。
最初に匠一へなついた頃から変わらない。
前へ出たがるくせに、匠一が順を決めれば、その線は越えない。
外ではまだ荷場のざわめきが続いていた。
逃げ遅れた人足が遠巻きにこちらを見ている。
誰がただの雇われで、誰が裏の流れに噛んでいたか、今なら選り分けられる。
だが急げば急ぐほど、相手に切る時間を与える。
匠一は深く息を吸った。
「まず三つだ。帳面、舟、口。これを切らせない」
「了解」
「了解です」
ダンとニールの返事が重なる。
匠一は保管部屋を出て、再び帳場へ戻った。
袖を机に縫い止められた年嵩の男は、まだ笑っていた。
強がりではない。
どこかでまだ切れると思っている顔だ。
なら、その期待ごと折る。
匠一は男の前に立ち、濡れた帳面を机へ叩きつけた。
「お前の流れは、まだ切れてない」
「……」
「だから今から、全部吐いてもらう」
男の目が初めて、わずかに揺れた。
外では川風が吹き込み、濡れた紙の匂いと煤の匂いが混じっていた。
本流を掴んだだけでは足りない。
相手が自分で線を断つ前に、こちらがその先へ手を伸ばす。
切らせない。
一本でも多く。
根に届くまで。




